第一章 「主権者」とは何者か
西洋政治神学において、主権とは「神の地上代理」である。
すなわち――
神が天を統べ、王が地を統べ、民は服従する。
これが一神教の秩序構造、法治主義の根本原理だ。
だが、日本国憲法はこれを逆転させた。
主権者は神の代理ではない。
神そのものとして規定された。
「国民主権」とは、神の権威を廃して民が神となることを意味する。
これは世界史上かつてない神学的反逆である。
近代憲法史において、主権者が神を兼ねた前例は存在しない。
フランス革命の人権宣言でさえ、
「自然法」という名で神の残影を残した。
だが日本は、「神も王も我々である」と宣言した。
第二章 カエサルのものも主権者に
「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」
――キリストが語ったこの言葉は、
宗教と政治を二分する一神教文明の基礎であった。
だが日本国憲法は、それをも超越する。
すなわち:
神のものは主権者に。
カエサルのものも主権者に。
主権者=国民が、宗教と政治、信仰と法、
霊性と現実を同一の場で引き受けるという決断である。
この瞬間、法は宗教となり、宗教は責任となる。
ゆえに、日本国憲法は「人類史上もっとも重い約束」なのだ。
第三章 なぜキャリア官僚が法案を書くのか
法案を作るのは立法府であり、主権者の代表であるはずだ。
ところが現実には、
霞ヶ関のキャリア官僚が法案を起草し、
代議士は印鑑を押すだけ。
これは一見、技術官僚制の問題に見える。
だが本質は宗教的堕落である。
官僚が法を書けるのは、
「唯一神が再び官僚に宿っている」からだ。
すなわち、法を作る権限を持つ者が神となるという、
古代イスラエル的神政政治の再現である。
だが、それは日本国憲法の本意に反する。
なぜなら、憲法は「神の権威を国民が継ぐ」と定めている。
ゆえに、法を書くのは主権者自身でなければならぬ。
霞ヶ関が法を作る限り、主権は奪われ続ける。
法治国家とは、神を再び官僚に預けた神政国家の退行形態である。
第四章 天皇の象徴とは何か
天皇が「象徴」とされたことは、
“権威の放棄”ではなく、“権威の移譲”である。
すなわち――
国民が現人神の責任を継いだということ。
象徴天皇制とは、神の座を空座にし、
その空位を国民一人ひとりが担うという構造である。
このとき、日本人一人ひとりは、
政治的責任と宗教的責任を統合した存在となる。
神を見捨てたのではない。
神の役割を“引き受けた”のだ。
だからこそ、この憲法は、自由でも民主主義でもなく、
「神の継承宣言」である。
第五章 戦後の戦争責任とは何か
戦争の清算を政府や軍の問題に限定するのは、
一神教的思考である。
「罪を誰が負うか」を問うのは、神を外部に置く文明の論理だ。
だが日本国憲法は、
国民が神である以上、戦争責任も国民が負うと宣言している。
これは恐るべき宣言である。
他国が神に祈り、王に罪を押しつけて逃れた歴史の中で、
日本だけが「自ら神となり、すべての罪を引き受ける」と言った。
それが「戦争放棄」第九条の真の意味だ。
戦争を放棄したのではない。
戦争の責任を他に委ねることを放棄したのである。
終章 日本国憲法――人類史上最大の血判状
この憲法は、単なる法文ではない。
それは神殺しの誓約であり、
同時に神を継ぐ覚悟の血判状である。
日本国憲法とは、神を越えることを宣言した文明文書である。
人類史上初めて、「神の死」を制度として完成させた法である。
この法のもとで、国民はもはや被支配者ではない。
彼らは自ら裁き、赦し、創造する“神的存在”となった。
ゆえに、この国の最大の課題は――
「主権者が神であることを自覚する勇気」を取り戻すことである。

