過去の事例を元に原発再稼働の政治判断考える、政治の在り方

福井県、大飯原子力発電所の再稼働が昨日決定をした。「全原子力発電所停止」という異常な事態の中で、大飯原子力発電所、第3号機、4号機(以下、大飯原発)の再稼働の政治判断が下された。今国会や、内閣の在り方を見ている限り、迷走し、優柔不断な野田内閣がなぜこの大きな決断、「原発再稼働」を決定したのか。野田総理は8日の記者会見に於いて、主に3つのことを訴えた。「原発停止のままではこの日本は立ち行かなくなってしまう。」「国論が二分されていても、自らの責任で結論を出す」「国民生活を守ることが国の最大責務である」と。関西電力の総発電量の約半分が原子力発電で賄われているが、その半分が停止した状態であった。このままでは、「豊かな生活」が失われてしまうと同時に、関西電力管内に於いて、大規模停電になりかねない。かねて、反対を表明し、事ある度に世間を賑わす、橋下大阪市長も反対を表明していたが、一転、再稼働を容認する形をとった。橋下氏も大阪の大規模停電を心配したのであろう。だが、経産省の幹部の1人が「関西世論に影響力を持つ橋下氏を優先させた側面があった」と漏らしている。野田総理は、「自らの政治判断」と主張しているが、真相はわからない。「決める」ことが中々できない、民主党政権。TPPに関しても未だに党内での結論が出ず、またこの原発再稼働に関しても4月中に意見を集約し、再稼働決定をするつもりであったが、一ヶ月半も遅れてしまった。ここにきて、原発だけではなく、「社会保障と税の一体改革」という名の「増税」に関しても、自民、公明の3党合意を取り付け、週明けには本会議による採決が待ち受ける。野田総理は「政治生命をかけてまででも消費税増税」や「消費税増税は大義である」とも話している中の、この「原発再稼働」の政治判断。政治生命をかけて、消費税増税という野田総理が、その消費税増税関連法案が成立し、首相を退任した後、もし原発事故が起きたら、彼はどうするのだろうか。野田総理の「政治生命」かける、かけないに如何に関わらず、我々国民の生活がどうなるかが問題である。
話を元に戻そう。原発再稼働についてであるが、今後、大飯原発の後の原発再稼働ははたしてどうなるのか。安全性はきちんと確保しているのかなど、我々国民からすれば、原発に対する悩みの種は後を絶たない。今後は、再稼働の安全審査は新規制組織が自主的に、独立して判断をしてからの再稼働容認の判断をするようだ。政府から独立した原子力規制委員が判断をする。これは8月以降の判断になる見通しで、今すぐに大飯に続き他の原発再稼働が決定されることはなさそうだ。ここで、私が問題にしたいのは原子力規制委員の「独立」というとこだ。果たして、この独立というものがどういうものなのか我々はきちんと考えなければならない。独立することによってのメリットは、今までないがしろにされていた、安全性確保が独自に委員が政治にとらわれず、判断することによって、安全性が高まるのもしかり、今後現行の原発の安全基準よりも更なる高い基準を設け、それを合格したもののみ稼働ができるようになるだろう。安全面の点から考えれば、「独立」というのは望ましい限りである。しかし、私がこの「独立」を問題にしたのは、デメリットを考えたいからである。具体例を挙げて、説明しよう。大日本帝国憲法下の日本国、つまり敗戦前の日本を考えてほしい。大日本帝国憲法下では内閣と軍部は各々独立し、その双方を掌握するのは天皇のみということが憲法には記されていた。大日本帝国の晩年、陸軍を中心に、「統帥干犯」が問題となり、次々と内閣が総辞職することが続いた。これは単なる、「独立」だけが問題ではなく、総理大臣に現行憲法第68条で定められている、「内閣総理大臣は、任意に各国務大臣を罷免することができる。」という権利が大日本帝国憲法では与えられたことにも起因するが、「独立」というのも原因の1つとしてあるだろう。1つのエピソードとして、大日本帝国憲法下で、内閣を組閣する際、陸軍省が他の国務大臣が嫌だと言って、陸軍省が陸軍大臣を出すことを拒んだというものがある。つまり、この時はその陸軍が嫌う、他の国務大臣を有能であるにも関わらず、外し、陸軍の意思が尊重されたということである。このように、「独立」をすることによって、政治が安定し辛くなってしまう側面がなきにしもあらずということなのである。原子力規制委員の独立によって、政治判断が遅くなったり、政府と原子力規制委員の意見が合致せず、原子力政策がその後悪い方向へ向いていく可能性がある。政治判断というものによって、我々の生活は左右される訳で、国権の最高機関である国会よりも行政府、つまり政府による判断で我々の未来は決まってしまう。その影響力を政府の担い手である、各国務大臣を含め、総理大臣は認識しているのだろうか。私はその認識は非常に薄いものであると考えている。帝国陸軍の統帥干犯を例にとって考えてみてもそうであるが、内閣が機能しない限り、我々の生活は危ぶまれてしまう。幸いなことに、今次の日本は海外と明日いきなり戦争を始めますということがないからこそ故に、内閣の機能というものを甘く見てしまっているところがある。決断力が一番問われるのは政府であり、その政府の決断が国会の採決にも大きく影響する。「最強の布陣」として組閣された、野田第一次内閣は先日、2人の問責決議を受けた閣僚を中心に内閣改造を余儀なくされ、野田第二次改造内閣が発足した。野田内閣の生命はどこまで続くのか未知数であるが、少なくとも野田氏が行政府を担っている間は、迅速な政治判断を求めたい。今後、更なる政治課題が山積しているが、野党と連携する以前に、政党政治の根幹である、与党内をまとめることを中心にして頂きたい。また原発再稼働も今後山積みの問題だらけであり、今冬には北海道でも電力不足が予定されており、ますます迅速な正しい政治判断が求められる。

参考: 2012/ 06/ 17 付け朝刊 朝日新聞
   同上 読売新聞
   同上 日本経済新聞
   2012/06/16 付け朝刊 朝日新聞
   同上 読売新聞
   同上 日本経済新聞






これは気が向いた人は読んでね!笑



70年って聞いてみんなは何を思い浮かべるだろう。

人の寿命?
なんだろう。


2011年から70年を遡ると1941年。
現代日本の根本となったアジア・太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦した年である。
以下、一般的に使われてる太平洋戦争という言葉ではなく、大東亜戦争を採用する。
理由は戦争当時は大東亜戦争と呼ばれていたということ、そしてもう一つは太平洋戦争では
アメリカのみと戦争したように思ってしまう可能性ある。だがしかし、日本はアメリカだけではなく
ABCD包囲に代表されるようにAmerica米国、British英国、China中国、Dutchオランダなど様々な
国を相手に戦った。それを強調するためにも、大東亜戦争という言葉を用いる。

大東亜戦争の始りはみんなの記憶の通り、12月8日。
帝国陸軍作戦はマレー侵攻。
帝国海軍作戦は真珠湾攻撃。
一般的に真珠湾攻撃がよくクローズアップされているが、実は帝国陸軍の作戦の方が先に遂行されたことを記憶して欲しい。

帝国陸軍と帝国海軍の経緯を同時に語ることは少し困難を極めるので、別々に解説を加えたい。
軍部の経緯を話す前に政治体制、大日本帝国はどのようなシステムであったかを説明する。
軍部と政治はお互いに独立しているというのが、大日本帝国憲法に於いて定められている。
また後に軍部が持ち出す、統帥干犯というのがあるように、統帥権は天皇陛下のみに委ねられていた。
という事実がある。
また、大日本帝国憲法下に於ける内閣総理大臣は各国務大臣に対する任罷免権を有してなかった。
そのため、大臣を罷免したい時には内閣を総辞職し、また新たに組閣をするということが求められた。
それ故、戦前の内閣は総辞職後、同じ内閣総理大臣がまた組閣するということがありえたのである。
この「政治体制」こそ、日本独特のものであり、海外からは理解されにくい点であったことをまず主張したい。
大東亜戦争の始りはそもそも1941年12月8日ではなく、満州事変だと言う有識者が目立つ。
その理由の一つとして、日本の戦後処理で開かれた、「極東国際軍事裁判」いわゆる東京裁判の起訴が満州事変以降だということにあると考えられる。
話を満州事変から起こしていく事にする。
満州事変、勃発は1931年9月18日。
これは一般的に大日本帝国を挙げて遂行された計画として認識されているかもしれないが、事実違うのである。
これは当時、関東州に駐屯してた高級参謀である板垣征四郎と作戦参謀である石原莞爾らの独断によって遂行されたのである。
そのため、この南満州鉄道の爆破後、当時陸軍大臣である南次郎は突然の開戦に驚き、不拡大の方針を関東軍に伝える。
この時戦後総理大臣にもなる幣原喜重郎は南に内密に軍部で動いて、作戦を進めたのではないかと南につめよったとの話がある。
しかし、後に南は回想しているが、当時の関東軍の行動は寝耳に水であり、陸軍を挙げての行動ではなかった。柳条湖事件後、関東軍の圧力が強くなり関東軍の行動を認めざるをえなくなってしまった。と。
その後、関東軍は清朝最後の皇帝愛新覚羅薄儀を擁立し、満州国を建国する。
ここで問題になるのはなぜ板垣征四郎と石原莞爾が満州事変を起こしたということになる。
それを語る前に、帝国陸軍の派閥に関して話す必要がある。
まず帝国陸軍の仮想敵国はソ連であった。もちろん想定にはアメリカもあったが、海を挟んで遠いアメリカは脅威ではなかったのだ。
当時、ソ連は大国である。それに対抗するには、資源が乏しい日本。そこで2つの考えが帝国陸軍の中でできた。
一つは資源がない国(日本)は資源のないまま戦う、それは局所優勢主義による各個撃破すればよいという考え。包囲殲滅戦を第一に考え、兵站を考えるは敗北の一つであると。この考えは後に皇道派と呼ばれる。
もう一つは資源がない国(日本)は資源がある地域を占領し、兵站を十分にできるようにしなければならない。そのための戦争は限りなく少なくし、また長い年月をかけ日本を工業化していくと考え。これは後に統制派と呼ばれる。
板垣征四郎と石原莞爾はこの2つのうちどちらかと言えば「統制派」に入る。
即ち、彼らは満州を日本に対する補給をする地域の一つにしようと考えたのである。石原莞爾は「世界最終戦論」と本を書いてるくらいで、それを意識し満州事変を遂行したのである。
次に続く。





真面目なこと書いてごめん!
これは気が向いたら読んでね!!笑


今日から書いていく予定。
更新回数はわからんけど、とりあえず書けるときは書くようにするわ。


俺は大学一年生。
とある、関東の大学に通っている。

興味のあることは政治。


俺もいつか、政治を動かせる人間になりたいと思っている。
どうすればなれるだろうか。

それを模索する限りだ。


しかし、世の中もおかしなもんだ。
いけないことをしても、何も咎められずにそのまままかり通る世の中になっているではないか。


俺はそれが許せない。

何人も法の下の平等ではないのか。

そう思って、仕方ない。


俺はいつか、日本が高度経済成長を見せた時期のように、過去の大東亜戦争時のような
日本に蘇らせたい。

そう思う。


そんなことを書いて、このブログを始めよう。