祖母が、今し方亡くなった連絡がきた。
齢80数歳という長さであった。

深夜、母から酸素濃度が減っていると連絡がきていた。
その連絡がくる前から、私は『もう持たない』と知っていた。


祖母がICUに入ったばかりの頃、私は見舞いに行った。
元々骨折で入院していから、その姿は想像出来たのだが、肺炎の悪化で様々な機器が取り付けられた痛ましい姿だった。
よく見るドラマのあれと、ほぼ同じだった。
肺に水が貯まっていたのでかなり苦しいらしく、少しでも楽になればと、自分の力を手に集めて祖母の手を握った。
握った直後、一瞬で力が抜けた。
そして、やや過呼吸ぎみになった。
恐ろしく、自分の力が祖母へ渡ったのだろう。
この日以降、祖母は看護師たちも驚く回復を見せる。

次の日、酸素を肺へ送る管が抜けた。
肺の水によって、呼吸がままならなかった為の処置である。
これが抜けた。
その次の日、私は再び祖母の元へ見舞う。
管が抜けても、やけに高い脈拍。
大体120くらいらしいのだが、その時は190前後。
私はまだ、力の回復しきっていない状態だったが、再び手に集中して祖母へ力を渡す。
この次の日、脈拍120代へ。
この間、投薬の変化はなく、看護師たちもただ吃驚してたらしい。
だが、一向に肺からの水が減らない、水と共に血が出ていることも変わらない。
不審に思った医師が、専門機関へ検査を依頼。
検査結果は、まだ一部しか判っていないらしいが、これを知ったのはほんの4日前。
肺炎はウィルス性ではないらしいが詳細不明、同時に癌も見つかった。
薬剤の影響からか、腎不全を発症。
ただでさえ弱っている中で、複数の病が同時に併発。
覚悟は決めた。


この3日後、容態が悪化。
咳で、口から血が出たらしい。
その為、体力が持って2、3日と宣告された。
昨日、ICUから一般病棟へ移された。
その日、私は仕事。
しかし、仕事中、不可解な症状に悩まされた。
突然の頭痛、息苦しさ、喉の渇き、怠さが出た。
朝起きた時は何もなく、仕事を始めて1時間くらいでこの症状が出た。
なんか変だなと思い、休憩中に携帯を確認すると、どうやら祖母が39度の高熱と息苦しさで大変だったらしい。
薄めたモルヒネで落ちついたとあった。
そこで合点した。
これは祖母の症状なのだと。
祖母の症状の一部が、私に出たらしい。
心配だったから、電話したところ、今日が山らしかった。

仕事が終わった後、祖母の元へ向かった。
確かに一般病棟に居た、弱々しい姿で。
以前やったみたいに、力を渡してみても渡せない。
渡そうとやってみたが、何かで阻まれて送れない。
そして、何かが私の力を切った。
これで、判ってしまった。
祖母は、【死ぬ】と。
持って今夜であること、と。
医師の説明で知る母たちと違い、私一人、別の形で決定打を知った。

私は、泣いた。
悔し涙も含めて。
今、目の前にいる人は、明日居るのか判らない。
助けれない悔しさでいっぱい。
延命はしない。
十分苦しんだから。







そして、1時10分くらいに訃報の電話。

最愛の一人が旅立った。
身内が死ぬは、やはり慣れない。
この日は、どんな形であっても忘れることはないだろう。
ある英雄(爆撃王)の生誕日と同じだから。

祖母よ。
心残りは多多多いと思うが、今は安らかに眠ってくれ。

昼間に会社へ電話しなきゃな。


私はこれを、祖母の訃報連絡直後から書いている。
悲しみを紛らす為に。
自分を落ちつかせる為に。
涙を流しながら、ゆっくり時間を掛けて。
泣いてばかりいるから、目尻付近が痛い。

まだ朝まで早いから、取り合えず、寝よっと。