「尊厳死」、果たしてそれは、本当に家族だけが決めてしまっても良いのだろうか。


そして、「尊厳死」について、それを何の関わりもない者が決めてしまっても良いのだろうか。


これは本来、死ぬ本人が決めることであって、他人が決めることではない。まして、本人がそうしたいと望んだのならそうさせるべきであろう。


わざわざ騒ぎにするほどのものだろうか。人の死に対して、わざわざ他人が口に出すことだろうか。


死って、ただのものですか。




誰しもいつ死んでもおかしくないのに、本当に生きたいと思ったことがある人は何人いるだろうか。


これ、本当に皆さん思ったことありますか。私は広島へ旅行しに行ってから、毎回思います。原爆資料館へ行ってから、死のうに死に切れない方々がいたのにも拘らず、こうして死について議論して意味があるのですか。


戦争で死んでいった者たちも、違った意味で「尊厳死」なのではないのでしょうか。


上からの命令は絶対の中、国のため家族のために死んでいったのです。


そして、今でもその悲劇は続いています。誰も気付かないなんて変だと思いませんか。


皆さんはテロは敵だと言いますが、現に彼らは国だけではなく、家族、宗教と幅広い思いを託して死んでいっているのです。きちんと、自らの意思を尊厳して死んでいっています。そういう方も含めないで、病気だけを限定していうのも変に思えます。


テロは日本で言い換えれば、特攻の一つです。日本の特攻は上からの命令や、自らです(その多くは命令)テロの多くは、自ら行います(誰も頼んでいないのにです)


尊厳死って単に病気だけに限ったことではないのです。見方一つ変えるだけで、状況は一変します。


情報は自らの意思の尊厳すら殺します。尊厳っていう言葉の意味は難しいですが、死に方に直接関与するべきことなのでしょうか。




ネットの辞書サイトで調べてみたら、こんな説明文となっています。




「尊厳死」


助かる見込みの全くないままに長期間にわたって植物状態が続いたり,激しい苦痛に悩まされ続けている患者に対し,生命維持装置などの人為的延命を中止し,人間としての尊厳を維持したまま死を迎えさせること。




人間としての尊厳って何でしょう。この説明文だけで通じますか、十分誤解を招くと思えます。


意思の尊厳なのではないのでしょうか。これでは、病人がまるで人間ではなく、玩具とかにしか聞こえません。病人などに対して、失礼です。尊厳死=安楽死という視方ををすることも出来ますが、同じ視方にしていいのでしょうか。両方とも“意思”で通じますが、安楽死は怪我や病等に対して差しますが、尊厳死と一緒は良くないと思います。もう少し、言葉の意味を考えてほしいものです。




私は、稀に起こる胸の痛みに必死で堪えながら生きています。


病院に診せてもいません。家族にすら教えてもいません。私にはその時間すら惜しいです。


私は生まれて此の方、多くに傷ついて生きています。死ぬなら、尊厳死を望みます。


私の意志を尊厳した形で死にたいです、本当に。家族が勝手に決めて欲しくないです。


私は死んだら、絶対に墓に入らないと心から決めています。


なぜか、自然が好きだからです。自然にかえり、自然が生きる一部となって欲しいから。


自然と共に歩みたい。己の全てをかえしたい。骨は灰にしなくても、長い年月を掛けて自然の摂理が土へと返します。私はそのままでありたい。


この死んでからのことは、母に話したことがあります。複雑な表情を浮かべていたことは覚えています。


でも、私はこれを下げる気はありません。これが私の願いだから。




「自分の意思の尊厳」ということが、尊厳死っていうのではないでしょうか。


自らの意思を尊厳する、つまり死に方を尊厳すること。家族が願う延命は、当の本人には辛いこと。似たような経験をしたことがある自分にとっても辛いです。


先に死なれたことで、一人生き続けるってことはそうとう辛いですよ。動物を飼っている方はよくわかるのではないでしょうか。




死は平等に訪れます。誰一人逃げ切ることなんて出来ないのです。


死に方が違えど、その者の死に方はそうなのです。その者が願ったら、そうしてあげるべきなのです。


延命はある意味で、生き地獄です。彼の者が望んだら、その願いを受け入れて欲しいです。


それが本当の尊厳死だと、私は思います。