幸せな死に方

 

 

大きくなったら、プロ野球選手になりたい。

 

子供がやりたいかとはなんでもやらせたい。

お金はおしまないから。

 

勉強はしておきなさい、損はしないから。

 

今が楽しければいい。将来の事はまた考えるから。

 

頑張って稼いで、いい暮らしがしたい。

 

悔いが無いように生きなさい。。。。。

 

 

 

 

十月始め、

季節の分れ目は人が多く亡くなる季節。

 

私はそんなに頑張って生きてはいない。

欲しい者も、望みもそれほどない。

命を意識するならば、命を消化しているだけ。

 

どうせ、死ねば思い出もお金も地位も名誉も消えてなくなる。

 

死ぬのは怖くない、いつ死んでもいいと思っているから。

別に、いつ死んでもいいと思うくらい頑張ってわけではない。

ただ、自分にそんなにも興味がない。

 

でも、人が死ぬのは悲しい。

 

伯父さんが死んだ時、お爺ちゃんが死んだ時、愛犬が死んだ時。

 

でも、泣いて時が経てば大抵の間はその悲しみは忘れてしまう。

 

こうして、その死を振り返ってしまうけど。

 

きっと、皆もっと生きていたかったんだろう。

 

二人の死に目には会ってないけど、とても悲しかったんだろうと思う。

後悔は沢山あるんだろう。

 

愛犬も、最期が迫るに連れて、よだれすら自分で制御出来ずに、ご飯は喉を通らず痩せ細っていった。それでも、家族が近寄れば尻尾を振り、愛嬌を振りまいた。そして、最期の時には、およそ二週間ぶりに大きく吠えて、寿命を迎えた。もっと、家族といたかったんだろう。

 

 

 

でも、本当に頑張って生きていたのか。

 

伯父さんはもっと頑張って働いて、体に気をつけていればこんなに早くに死ななかったはず。

 

お爺ちゃんは、もっと話す機会をくれていれば、多くを理解できたはず。

 

愛犬は起きて、散歩に出かけて、ご飯を食べて寝るだけ。

 

死に際だけ見れば、誰でも頑張って生きているように見える。

本当に頑張って生きた人も、それなりに頑張った人も、最期の時に皆それ程の大差は無いのだろう。

 

 

こうして、三人の事を振り返ると、これといって会話は思い出せないがキャッチボールをした事、旅行に行った思い出は沢山思い出す。

 

人との関わりは思っていたよりも、根強いものなのかもしれない。

三人共思い出を振り返って、もっと親しかった人との別れを惜しんでいたのかもしれない。

 

 

私は悲しんで死にたくない。

今、そうやって生きているから。

最期に悲しめば、私の人生を否定してしまうような気がする。

 

今の私には親しい友人や家族との思い出がたくさんある。もちろん印象に残っている会話や言葉もある。

 

ありすぎてしまう。

 

どうしたら、悲しまずに死ねるのか。

 

答えはもう出ている。人との関わりを断てばいい。

 

しかし、私がその答えの通りの行動をすれば、本当に望みが叶うのか。

その可能性がある限り、いつかそうしてしまいそうな気がする。

 

幸せな死に方など存在するのだろうか。