声の巻

ボラルの幽霊②

 ご同業でもなさそう。だが、このN氏は好奇心旺盛な男だ。朝食がすむと「見に行こう」としきりに誘う。「何を?」「クリメーションさ」「クリメーションって?ここで?」

 インドでクリメーションといえば、それは有名なガンジス川での荼毘である。ベナレスがすぐ頭に浮かぶ。しかし、コロンボのこんな街中のしかも川の流れもない街で、荼毘?

 

 ともかくついて行くことにした。勝手知ったかの如く、N氏はスタスタとゲストハウス前の路地を抜け、車のブイブイ通る大通りを渡り、向かいの公園らしきダダ広い場所の中を通り抜ける。ほんの10分ほどある。

 

 そこは荒漠たる墓地であった。何千・何万、いや何十万か。墓石・墓碑、木碑・石積み、土饅頭…。木陰もなければ休憩所の小屋もない。いや、小さな四阿があったか。

見渡す限り墓ばかり。石の十字架あり、アラビア語風銘文の石版あり、卍に漢語の卒塔婆あり、土盛りあり、家風マンションあり…ありとあらゆる宗教・宗派・民族・文字の墓地である。ここは死者の国際団地か?

 墓地の中を捜し歩くこと十数分、荼毘の現場は見当たらず、煙も見えず、人もなく、散在するのは炭化した土塊のみ。「残念、終わっていたか」と一言N氏、「まあ、折角だから見て行こう」。あっけらかんとした風情である。このにこやかさがいまだに解せないのだ。

朝とはいえ、10時の太陽は頭上に容赦なく照りつける。この猛暑の中、身内の墓参でも故人の墓碑調査でもあるまい、なんでこんな墓地団地を朝の散歩に歩き回るのか、このドイツ野郎―そう、彼は朝食時にドイツ人と名乗っていたなあ―。それにのこのこついて行く、この自分は何とドジなことか。

それに付けても朝の「墓場歩き」とは、なんという無駄な時間、なんという徒労。

 ゲストハウスに戻ったボクは疲れた。ビールを一杯、ベッドに横になった。

 夕刻、ゲストハウスのマダムに紹介された主人は、葬儀屋の経営者であった。この辺りは死者の終焉の地であった。なるほど、周辺の店先に棺桶が山積みは道理である。

 ボクは翌日から北のジャフナに旅をした。列車での12日の短期調査である。南インドのタミル人と、このセイロンのタミル人とは、いったいどう違うのか―ことばか、風習か、生活習慣か、宗教意識か、クニの意識か…―。

 

 南インドに近いセイロン北端のジャフナは、奇妙な緊張感の漂ういなか街であった。その2年後にこの街がどんなに激変したかは、ここでは触れない。

 さて、コロンボに着くと、再びボクはこのゲストハウスへ戻った。荷物を置いていた部屋は他の日本人客が泊まっていた。その後数日の滞在は何事もなく過ぎた。夜中の急病人も、幽霊?も現れなかった。しかし、なんとなくモヤモヤする気分が抜けきれなかった。

そして、インドへ戻った。

 あのひょうきんなNさんはひょっとして…本人?じゃ、なんでボクを連れ出した?

自分の終焉の場で、自分の死を確認したかったか。いやいや、たまたまボラルのゲストハウスに泊まったただの物好きな旅人だったのだろう。