亜熱帯の雪女
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3.準備

村上氏は、ITバブルを勝ち抜け、急成長した5つの会社をどれも最盛期に売り払い、巨額の資産を作ったとしてIT業界ではわりと名の知れた人物だった。

俺はクライアントの紹介で村上氏との会食の機会を得た。こんな大口の投資家が都合良くこちらの懐に飛び込んで来る機会は滅多にない。

俺は入念に接待の準備をおこなった。銀座の寿司屋に予約を入れた。その後接待時によく利用する『SAYA』の予約をした。銀座のクラブを使う理由はいくつかあるが、接待をする人間の好みがわからない場合はたいていこの『SAYA』を利用している。

この店のホステスは顔立ちはいいが、あまり若い子はいない。店も派手さはなくホステスの身なりも露出の少ないおとなしめの子が多い。

俺はまずこの店に連れて行き、客の嗜好を探ることにしている。

酒を欲するタイプ。会話を欲するタイプ。女を欲するタイプ。大きく分けるとこの3つだろうか。

酒を好むタイプと判断した場合は、二回目以降ははワインバーのような静かでゆっくり酒が飲める場所や日本酒や焼酎を豊富に取り揃えている店に連れて行く。

このタイプ接待の場合、仕事の話が半分、趣味などの話題が半分という感じになるためビジネスとしては成立しやすい。ただ酒が好きな人間を相手にしなければならないため、時間は長く体力的にはキツイ。

会話を欲するタイプの場合は、基本的には会話を楽しむので酒の量もそれほど多くはない。また話を聞くよりは話す方が好きなので、あまり若い女の子の多い店だと話し相手としては満足しない。
そういった意味では「SAYA」のような店は非常に喜ばれるのだ。

最後に女を欲するタイプだが、このタイプはやたらとホステスの体に触りたがるし、なかなか帰ろうとしない。女の子は若いほど喜ぶ傾向にあるため「SAYA」のような店は合わない。
またこのタイプは接待をされること慣れてくると自分から要求するようになる。金がかかるわりに実入りがないので距離をうまく保つことが重要だ。

さて村上氏はどのような人物だろうか、
俺は全ての段取りを整えて当時を迎えた。

2.孤独

当時の俺は、サラリーマンとしては、いわゆる勝組だった。
大手証券会社の営業として、会社が望む成果をあげつづけ、30代半ばにして管理職となっていた。部下は半数が自分の先輩や元上司で、そいつらの仕事ぶりに腹をたて怒声をあげる日々。
廊下を歩けばみんなが視線をそらして通り過ぎていく。

たまに学生時代の友人とあって呑みに行き話しをすると、給料の話になるが、桁が一つ違い3倍なんてことはよくあった。
なんとなく別世界のやつといった扱いを受け居心地が悪い。
仕事をするのに煩わしく付き合っていた女とは半年前に別れたので、当面は独身だ。

都合よく付き合う女はいるが、距離を保ったまま決して踏み込まないし、立ち入らせない。

家族はいない。2つ上の兄貴がいるが、昔から価値観の違いからかうまが合わず、仲違いをしているわけではないが、大学の頃から顔を合わす機会がなくなり、社会人になってからは別々の道を歩み他人になった。

最後に兄貴と顔を合わせたのは、五年前のお袋の葬儀の時だ。

時々お袋の墓参りには行っているが、いつも綺麗に花が手向けられているので義理の姉貴が気遣ってくれているのだろう。

オヤジは、俺が14の時に家を出て行ったきり会っていない。なんとなく様子はつかめている。会社の若い女と不倫をし、お袋からそっちに乗り換えた。ただそれだけの話なんだろう。

たまの休みはクライアントと接待ゴルフへ行く。

何もない休日。窓から見える隅田川を1日中眺め、酒を飲み本を読んでいる。

孤独、、、

学生時代は野球をやっていた。高校の時は本気で甲子園を目指しており、それこそ血のにじむような練習をしていた。

いつもチームメイトと監督やコーチの文句を言っていたし、体は誰もがくたくただった。
でも当時の俺や仲間の顔を思い出すと、なぜかいつも笑っていたような気がする。

腹の底から最後に笑ったのっていつだったか。

仕事という仮面の下に感情をしまい込んだ生活が何年か続いていた。

そんな俺の生活を決定的に変えたのが村上氏との出会いだった。

1.動機

波の音だろうか。
どこか遠くから俺の意識はやって来て。
現実の世界を目の前に準備し始めている。

頭が痛い…焦点の合わない目を懸命に凝らしてみると一面青の世界が広がり、突き刺すような光が俺の眼球を捉えた。

あまりの眩しさに顔を背けようとした時、後頭部に鈍い痛みを覚えた。

俺は何をしていたんだっけ…
状況を理解するために、一旦目を閉じ全身の力を抜いた。

とりあえず生きてはいるようだな。

ひどく疲れているが、体から痛みは感じない。
ただ柔らかい砂の感触があるだけだ。ここはいったいどこなんだろうか。波の音が聞こえるからきっと海岸にいるんだな。ぼんやりと状況を推測し記憶を辿り始めた時、

不意に誰かに肩を強く揺すられ、俺は再び目を開いた。

強烈な太陽の光を遮り、2人の人間の輪郭が浮かび上がっている。
こちらを向いてしゃがみ込み、何か喋っているようだが、俺にはよく聞こえない。

「兄ちゃんどこか怪我しているのかい?」
背の大きい方の男が覗き込むように俺の目と視線を合わせ尋ねてきた。

あまりに突然の問いかけに、声を出せずにいると、

「おい、言葉が解らないんじゃないか」もう一人の男が横から言った。

「ホエァ アユ フルム」ゆっくりとした口調で背の高い男は、今度は英語で聞いてきた。

ひどい発音だ。東南アジア諸国のやつらが使う英語っていうのはどうしてこんなにも酷い発音なんだろうか。
とはいえ日本人が話す英語もたいして誉められたものではないが。
俺はぼんやりとした頭のなかでそんなことを考えていた。

「日本だ。ここはどこだ」俺はマレー語で返答した。

「なんだ喋れるのか。ここはテロクバハンの西側の海岸だよ。お前は日本人か?」

「ああ日本人だよ」

「どこか怪我しているのか?」こんどは背の低い方の男が聞いてきた。

「いや多分大丈夫だと思う。」
やっと焦点の定まってきた目を2、3回こすり、それからくまなく全身を見渡した。

決してきれいとはいえないが、ジーンズにオックスフォードの白いボタンダウンのシャツを着ている。シャツの第3ボタンがちぎれたように無くなっているが、それ以外には、特に変わった様子は伺えない。

「兄ちゃんここで何しているんだい。歩いてくるような場所じゃないがどうやって来たんだ」大きい方の男が聞いてきた。

俺はここに至るまでの記憶パーツを拾い集めた。

そうだ俺は旅をしていたんだ。ユキを探していたんだっけ。

記憶の線が徐々につながり始めた。

これまでの経緯を語るには2年前の冬までさかのぼらなければならない。

それは一人男が全てを投げ出して日本を発つのにはあまりにも些細な動機だった