I used to hate my birthday.
I used to get depressed when the birthday gets closer.
ashtangayoko
Since I was a child, I always dreamed that something special will happen on my birthday.
However, no birthday party or no birthday gift fulfill my expectation.
Over the years, I start to learn that this hope will soon turn into disappointment, and I even got upset to myself to get the hope up.

This is my 35th birthday and this is the first birthday ever that I can remember that I didn't have any expectation or didn't get depressed. I spent my birthday as a normal day.

I have grown up so much this past one year. The biggest thing, I think, was to learn to accept myself.

This special something that I was looking for might have been to be accepted.
I had been looking for the acceptance in outside. My family and my friends must have accepted me already, but I was the one who could not accept myself and could not even accept the fact everyone accepted me.

I guess the happiness is always inside me.
This is quite a "happy" birthday.


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私は自分の誕生日が嫌いだった。
毎年誕生日が近づくと軽く鬱っぽくなっていた。

子供のころから誕生日には特別な何かが起こるのだという期待を膨らませていた。
だが、実際に誕生日パーティーを開いてもらっても、どんなプレゼントをもらっても、その特別な何かは満たされることなく、年を重ねるにつれ、満たされない期待を抱く自分に腹立しさを感じると同時に、これが失望へのカウントダウンとして襲うことになる。

今年35回目の誕生日にして記憶のある限り始めて何の期待もなく、軽い鬱にも教われず、普通の一日を迎えている。

この一年で私はすごく成長した。一番大きな成長は、自分を受け入れることを学んだことかもしれない。

今まで探していた”特別な何か”は自分を受け入れてもらうことだったのかもしれない。
自分自身を受け入れられず、その答えを外に探していた。実際に家族や友人はすでに私を受け入れてくれていたのかもしれないが、自分自身を受け入れきれない私はそれすらも受け入れることができなかった。

幸せは自分の中にあるのだなと感じるこの誕生日。
"Happy" birthday.
ブログ3本目。

頑張ってちゃんとしたことを書こうとするから続かなくなるので、頑張りすぎずに書いてみる。

実は海より山派だったりする私だが、ここ最近毎週末欠かさずビーチに行っている。

持ち物は水とジャーナルのみ。海に浸かった後はジャーナルでその週の心の動きを振り返る。
ashtangayoko
最初はもう少し日焼けしようとか、海水で体をリラックスさせようとかいった意図で来ていたのだが、ここにきて一人で過ごす時間の価値を大いに感じている。

常にコンピュータの前でメールや仕事に追われて、自分の時間がないことにすら気づかなかった。

子供の頃は一人でいることが淋しくて仕方なくて、一人の時間に価値を感じるどころか嫌悪していた。

人生のどの時点でこれが変わったのだろう。
先日ふと気づいたのは、一人になることが怖いばかりに誰かと一緒にいることに固執してたのだが、一人でいることの価値や楽しみを覚え、人に執着しなくなることで、逆に周りの人との距離が近くなったということ。

とは言いながらも、今週のジャーナルでまた人に執着する自分を発見。何年も培ってきた思考パターンはそう簡単に抜けるものでもなさそうである。


ashtangayoko ヨガの練習はそれぞれの生徒さんがどのように物事を対処するかをよく表します。


内気ですぐあきらめてしまう生徒さん、強気で強引に押し通す生徒さん、自分に厳しい生徒さんや甘い生徒さん、集中力のある生徒さんやない生徒さん・・・など。皆さんも「自分がどういう人」であるかある程度自分で理解していると思います。でもこの「自分がどういう人」かという定義付けが実は人生を複雑にしているのです


困難に突き当たったときに、なぜ自分にできないのかと感じると同時に、「だって私は・・・だからしょうがない」と自分に言い聞かせたことはありませんか?自分はこんな人だったらよかったのにと望んだことはありませんか?「自分はどういう人」から解放されて自由に生きられたら、人生楽になると思いませんか?


パタンジャリのヨガスートラによると、私たちの苦しみはKleshaの5つのサイクルによると記載されています。(II-3~9)


   1. Avidya: 無知
   2. Asmita: エゴイズム(我想)
   3. Raga: 執着
   4. Dvesha; 嫌悪
   5. Abhinivesha; 死の恐怖


私たちは本当の自己(Self)を知らないので[Avidya:無知]自分がどういう人かを定義付け[Asmita:我想]て、その定義にあったものを好み[Raga:執着]、それに反するものを嫌い[Dvesha:嫌悪]ます。


"私はヨガを真面目に練習したいのでベジタリアンです[我想]。ヨガの練習の後はヨガ仲間とベジタリアンレストランでランチするのが好きです[執着]。ヨガを練習しながらお肉を食べる人は信じられません[嫌悪]。"


これは簡単な例ですが、「良いヨギ」であるためにこの発言を続けながら、実は常に「お肉を食べたい!」って思ったらどんな心境でしょう?逆に、この人がお肉を食べてしまったらどんな悪いことが起こってしまうのでしょうか?この人の本質は変わってしまうのでしょうか?


「私はベジタリアン」の定義がなかったら、お肉を食べようと食べなかろうとどちらでも構わないでしょう。自分がどういう人かの定義付けが強くなるから、そこから抜け出すのがつらくなるのです。ここからまた本当の自己からの無知へと遠ざかって行くのです。


私も日本に住んでいた頃は、多くの「こうあるべき」の定義を社会からも要求されていた気がします。どんな服を着るべきか、どんな仕事をするべきか、どんな風に振舞うか、など。
私たちは生まれてから「自分はどう」を積み上げてきました。まるでたくさんの服を重ね着するように。ヨガはこれを一枚ずつ剥いでいき、その下の自己を見つけるのです。


ヨガの練習はそれぞれの生徒さんがどのように物事を対処するか、あるいはその人の「Asmita:我想」をよく表します。逆にヨガの練習を変えることによって、今まで定義していた自分の皮を剥いでいくこともできるのです。


パタンジャリのヨガスートラにて、ヨガを習得するのには以下の二つが必要であると述べています。(I-12)


   1. Abhyasa: 修習
   2. Viragya: 離欲


上記Kleshaの5つのサイクルを壊すには「Abhinivesha:死の恐怖」を乗り越えなければなりません。これは実際に私たちの肉体が死ぬのではなく、私たちが定義してきた「Asmita:我想」を失う恐怖です。時にこの恐怖は大きく、「自分は誰なんだろう」と見失った気分に襲われることがあります。このときにヨガの練習を信頼して続けること[Abhyasa]、そして我想に執着しないこと[Vairagya]が問われるのです。


ヨガの練習は日々の生活に密着しています。私自身ヨガアサナの練習を通して、今まで定義してきた自分の我想をたくさん学んできました。日々の生活の中で自分を変えるのは周りの目が気になったりしてとても難しいです。アサナの練習を変えていくことも簡単ではありませんが、最低でも周りに影響を与えるようなことではないので感情的にはまだやり易いでしょう。


アサナの練習を変えることで心の動きのパターンを変え、これによって日常の生活にも変化が出ます。また自分の考え方を変えることで今まで難しかったアサナができるようになったりもするのです。心と体は本当につながっているのですね。


パタンジャリのヨガスートラを初めて読んだ頃、これは相当練習をつまないと理解できないぞ、と思ったことを覚えています。もちろん、中には相当練習つまないと到達しないようなことも書いてありますが、特に2章サーダナ・パダは練習を続ける上で私たちの日常で日々起こることがたくさん書いてあります。


このように、私たちのアサナの練習をヨガスートラと照らし合わせることで、
私たちの練習はさらに深まるのです。