ふふっ、妙なタイトルでございますが。

以前「不思議な話をしましょうか」ってタイトルで、
ぼちぼちと書いたことがあるのですけど。

実家の隣の隣は、お寺の参道でした。
なので、幼少期、近隣の檀家でお葬式があると、
当時は野辺送りが主流でしたので、
家の前を葬列が通るのです。

小さい頃、それが怖くてね~。

とにかく怖がりだったんですよ。
いろんなものにすぐにビクビクして、
それにイラついた親達にも、よく叱られてました。

今なら分かるよね。
叱られたって、どうにもならないことだって。
でも「時代」ですよ。
それに、ぬあー、なに、いちいち、この子、めんどくさっ!って気持ちは、
今の私にも分かるしね~(^m^)

大人の機嫌も結構観察していたので、
そういうのも癇に障ったんじゃないかなあ(笑)
とにかく、毎日いろんなことで叱られていました。
自分で子育てしてみて、はじめて分かったんですけど、
いやー、私はまんずよっく叱られてたわ~(笑)

で、その野辺送りなんですけど。
おりんの音や、人々の足音、ひっそりと、だけどざわつく空気。
当時ことを思い出すと、すぐに浮かんでくる気配です。

その頃は全く気付いていなかったのですが、
今思えば、私はいつも、葬列が家の前を通るよりも先に察知して、
「わ~くる~」と思い、葬列が見えない奥の部屋に逃げ込んでいたんですね。

例えばよく晴れた日の戸外の視界。
隅から隅まで、明るく見えますよね。
「わ~くる~」の時は、その視界が四隅からふうっと翳っていたんです。
太陽が雲間に隠れる時みたいに。

すると、ざわざわと人の気配がしてきて、
おりんの音が聞こえ、
葬列が静かに、だけどザラザラとしているような、しっとりとしているような
何かを纏って、家の前を通っていく。

私自身は、何も理解なんてしていませんでしたけど。
ただただ怖がりだから、敏感になってただけ。
そう思ってたんですけどね。

今にして思えば、当時の私は多分、
参列している人達の、悲しみのエネルギーを拾っていたのだと思います。


だけどさ、そういうの。
過去、私が生きていく上では、余り有用なものではなかったワケです。
敏感過ぎると疲れてしまう。
気付いてしまう、いろいろなこと、
いちいち気にしていたら、辛くなってしまう。

いつのころからか、私は親達や周囲の大人達から、
鈍感な子だと評されるようになりました。

手相は、昔から気になっていたし、
雑誌の特集とか、本屋さんで見かけた本とかで、
自分でも確かめたりしていたんですけど、
昔から、私の本質を示す左手は、
ぐちゃぐちゃと細かい線がたくさん刻まれているのに対し、
現在を表す右手には、そういった細かい線は少なかったのです。
20代の頃が一番、それが顕著でした。
私はそれをどちらかというと「嬉しいこと」と思っていました。

小さい頃、さんざん、
おばあちゃんの手、サルの手って笑われてたしね(^m^)

そして今、私の右手には、細かい線が戻ってきています。
元からあるものを、本質に持つものを、
なかったことにして生きてきた軌跡。

何か取り戻そうとしているんでしょうね。

お客様の手を見て、ああ、この手はここだなあと、
そういった感覚が分かるようになった頃、
本質を表す左手には、直感線が伸びてきました。
「それ」をちゃんと使える状況になったから。
多分ね。

ということで。
拾っていくことにしました。
私にはないと思っていた、感覚。

実は、私はね、この石には、
こんなエネルギーを感じるよ、とういうのは分からないから、
ならばせめて、扱う者として、
鉱物的な正しい知識を学ぼうと思っていたのです。
それはそれとして、間違ってはいなかったと思ってますし、
今後も、やっぱりそれが根底にあってこそだと思いますので、
楽しく精進していくつもりですけどね~♪


そんなこんなで、昨日から、
クラウンと時々サードアイが、痛いです(笑)

FBに書いた、最近拾った言葉たち。

忘れないで。
ずっと一緒。
意識してね、使ってね。
うふふ、当然♪
ちょっと寂しい。
ありがとう、楽しみ。


「ずっと一緒」と「意識してね、使ってね」は、
とある石たちからの言葉で、持ち主の方に伝えてみました。
双方とも、私が作ったものではない石たち。
しかも、以前1度だけ見せて貰った、触れさせてもらった石たち。

なんだけど、
むむ~、と思うようなフィードバックがありましたよ。
おおぅ、マジかっ!←いまだ半信半疑でいる正直な感想(笑)

写真は、私のために?働きたいと言ってくれたラブラドライトたち。