大坂夏の陣
和平成立後、家康は京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。慶長20年(1615年)3月15日、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は牢人の解雇、豊臣家の移封を要求する。
4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする牢人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じた。 4月4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」と答え、4月6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。
家康が名古屋城に入った4月10日、秀忠は江戸を出発している。4月12日、名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康は18日に二条城に入った。このころ秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも家康に伝えてくれと依頼している。
4月21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日、家康と秀忠は本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うことを命じた。この二手の他、紀伊の浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じている。
5月5日、家康は京を発した。その際、自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じた。
豊臣方では、4月9日に交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、4月12日に金銀を牢人衆に配り、武具の用意に着手した。また主戦派の牢人たちが埋められた堀を掘り返したりしている。 和議による一部浪人の解雇によりこの時の豊臣家の戦力は7万8千に減少し、さらに丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利と判断したとされ、積極的に討って出る作戦を採用している。 なおこの頃、織田有楽斎は豊臣家に見切りを付けて、大坂城を退去している。
樫井の戦い
豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし(郡山城の戦い)、付近の村々に放火。28日には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。治房勢は、4月29日には一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い(樫井の戦い)討死してしまう。その後、大野治長らは浅野勢と対峙しつつ、5月6日まで堺攻防戦を行う。
道明寺・誉田合戦
5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起こる。寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取ることができず、後藤基次隊2,800は単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、水野勝成ら2万以上の敵勢に集中攻撃を受け、奮戦するも壊滅、基次は討死した。次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死した。
さらに遅れて真田信繁、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止めた。しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して後退。幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃を行わなかった。
八尾・若江合戦
同日、木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が、河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した八尾・若江合戦が起こっている。まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊5,000を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ、後退中に追撃を受け壊滅。木村重成も藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊3,200らと交戦、激戦の末に討死した。
豊臣方は意地を見せたが、大勢は幕府方優勢で、いよいよ大坂城近郊に追い詰められる。
天王寺・岡山合戦
夏の陣 天王寺・岡山合戦
5月7日、最後の決戦のため豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。
天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500。 岡山口は大野治房ら4,600。 別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,00?が布陣。
これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開した。 天王寺口は本多忠朝ら16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置く。 岡山口は前田利常ら計27,500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。
正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は戦国の世最大にして最後の戦いであり、これまでに例を見ない兵力と火力が集中し、大激戦となった。豊臣方の真田信繁・毛利勝永・大野治房などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、家康・秀忠本陣は大混乱に陥るなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。絶望的な状況の中、唯一戦線を維持し続けた毛利勝永の指揮により、豊臣軍は城内に総退却した。
終局
本丸以外の堀を埋められ、裸同然となっていた大坂城は、もはや殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、5月7日深夜に大坂城は陥落した。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという。
翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害した。
冬の陣では出陣させるのは譜代のみに限ろうと考えていた徳川家康は、この夏の陣においては豊臣恩顧の大名に敢えて大坂を攻めさせることにより、将来的に徳川家に掛かってくる倫理的な非難を回避しようとしたとされている(江戸時代に徳川家が豊臣家を滅ぼしたことに対する道徳的議論が起こることはなかった。むしろ徳川家の家臣において、敵将に対する武士道的賞賛が盛んに行われた)。
現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂の役に参戦した黒田長政が絵師を集めて描かせたとされる屏風絵「大坂夏の陣図屏風」の左半分には、乱妨取りに奔った徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。また、記録によれば、一万数千の首の内、偽首を取られるなど殺害された民衆が数多くおり、生き残ったものの奴隷狩りに遭った者の数は大人から年端の行かぬ子供まで数千人に達したとされる。
戦後になって幕府は人取りにあった者達を、侍は斬首、民衆は解放するように命じている。しかしこの命令で解放された民衆は実際の数より少ないと藤木久志の『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社、1995年)では後ろ向きな推察している。一方、仙台藩では捕らえられた長我部氏家臣佐竹親直の妻子が重臣柴田氏(の妻と養子)となり、後に仙台藩奉行(他藩の家老相当)柴田朝意になって、伊達騒動の当事者になっているので、藤木の推察とは違う意味で幕府の命令が無視されていることが分る。
諸大名の対応
島津氏は秀頼からの書状に対し「豊臣家への奉公は一度済んだ」と返事したが、徳川方としての出陣は冬の陣・夏の陣とも結果的にかなわなかった(夏の陣では、鹿児島を発ち平戸に到着した時に大坂の役の情報を聞いて引き返している)。これは当時、藩主島津忠恒が進めていた藩政改革がうまく行かず、家臣団の統制すらままならなかったからであるが、島津の不参加は一時「島津謀反」の噂を引き起こし、小倉藩の監視を受ける羽目となった。この一件以後、島津氏は藩政改革を一気に推し進め、また幕府の行う事業や島原の乱への出兵など積極的にこなしていった。
戦後処理
秀頼の子の国松は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の奈阿姫は僧籍に入ることで助命された。豊国社は廃絶され、家康の指示で大仏の鎮守にするために方広寺大仏殿の裏手に遷された。長宗我部盛親はじめ残党の追尾は10年以上に亘って行われた。盛親以外には、細川興秋は父・細川忠興から自刃を命じられ、増田長盛は盛次の罪を背負う形で配流先の岩槻で、また古田織部は国松を匿った疑いでそれぞれ自刃した。明石全登の行方は定かではないが、その息子・明石小三郎は寛永10年(1633年)に薩摩で捕まっている。
その一方で、仙台藩では先述のとおり、捕獲された長宗我部家臣の佐竹親直の遺児が仙台藩の奉行になったり、信繁の子が仙台藩重臣片倉景長に匿われて、後に仙台藩に仕官したりしており、実際の残党狩りは藩により温度差が生じている。
戦後、大坂城には松平忠明が移り、街の復興にあたった。復興が一段落すると忠明は大和郡山に移封され、以降大坂は将軍家直轄となり、『天下の台所』と呼ばれる商業の街になる。幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き、西国支配の拠点の一つとした。
一方、松平忠輝は総大将を務める天王寺合戦で遅参したことが理由の一つとなり、翌年に改易となった。松平忠直は、大坂城一番乗りの褒賞が大坂城や新しい領地でもなく「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであったことを不満としており、後に乱行の末改易となった。
この戦いを境に戦国時代より続いた大規模な戦闘が終焉した。
大阪夏の陣ではやっぱり真田信繁って印象が強いですけど天王寺・岡山の戦いで活躍したのは、真田信繁だけではなく毛利勝永、大野治房らもすごいことしててww真田信繁は徳川軍の中を敵中突破しただけであり、毛利勝永と大野治房らは、自軍の数倍もの徳川軍に正面から当たり、壊滅させたと言われているます。 また、真田信繁が強行突破できたのは、快進撃を続けていた毛利勝永隊に徳川軍が集中していたのも一因であるとされる。さらに、真田隊が強行突破できたキッカケとなったのは、毛利隊の快進撃を何とか防ごうと、松平隊の背後にいた浅野隊が毛利隊に当たろうとし、その動きを松平隊が「浅野隊が寝返った」と思ったそうですww
やっぱりこの戦はしれば知るほど面白いですねww
方面軍
河内方面軍 先鋒 藤堂高虎、井伊直孝
右備 榊原康勝、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光、藤田信吉、丹羽長重
左備 酒井家次、松平忠良、松平信吉、牧野忠成、松平成重
二番手 右備 本多忠朝、真田信吉、浅野長重、秋田実季、松下重綱、植村泰勝
左備 松平康長、相馬利胤、水谷勝隆、六郷政乗、稲垣重綱、内藤忠興
三番手 右備 松平忠直
左備 前田利常
大和方面軍 先鋒 水野勝成、堀直寄、松倉重政、奥田忠次、桑山元晴、桑山一直、本多利長、 丹羽氏信、神保相茂
二番手 本多忠政、古田重治、菅沼定芳、分部光信、稲葉紀通、織田信重
三番手 松平忠明、徳永昌重、一柳直盛、西尾嘉教、遠山友政、堀利重
四番手 伊達政宗
五番手 松平忠輝、村上義明、溝口宣勝
紀伊方面軍 浅野長晟
本営 一番手 右備 酒井忠世、脇坂安元、新庄直定
左備 土井利勝、佐久間安政
二番手 本多正純、立花宗茂
本陣 徳川家康、徳川秀忠
後詰 徳川義直、徳川頼宣
城北方面 京極高知、石川忠総、池田長幸、池田利隆、有馬豊氏、堀尾忠晴
水軍 九鬼守隆、向井忠勝、小浜光隆
不明 黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、本多康俊、本多康紀、宮城豊盛、佐久間勝之、森忠政
その他 京都警備 上杉景勝
在国 津軽信枚、脇坂安治
参陣できず 蜂須賀至鎮、山内忠義、稲葉典通、島津忠恒、佐竹義宣、福島忠勝
江戸城留守居 福島正則
各将の配置はこんな感じです↑
