なんなんだこの書きたくてしょうがないこの気持ちは。
ニコブロにも書いたのに、
まだまだ書き足りなくて、
こっちにも来てしまった。

1日まったく文章を書いてなかったから、
こんなに書きたくなっているんだろうか。
インプットばっかりで、アウトプットをしていないから
こんなに書きたくなっているんだろうか。
音楽も聞きたくない、映画も観たくない、
本も読みたくない、マンガも読みたくない、
でも書きたい。
この感情を、書くということで
なんとかしたいのかもしれない。
ほぼほぼこれはエゴでしかない。
書きたくて書いている。
伝えたいことなどなにもない。
しいていえば、「書きたい」ってことくらいだ。
書きたい。書きたい。書きたい。書きたい。書きたい。
コピーはしていない。
ちゃんと5回、書きたい。と書いた。
と、タイピングしてみて、
あれ?書きたいんじゃない、タイピングしたいだけなのかも、
と思ってみたりもした。
思ってみたりもしたのである。
この、「思ってみたりもしたのである。」は余計だが、
タイピングがしたいがために付け足したのである。
付け足したのである。

ここまで読んでくれたあなたよ。
ありがとう、なにか感じたかな。
感じなかったらごめんなさい。
ただただ思うがままに書いて、
あたたはなにに見えますか?
みたいなことだから。
正解なんてないし、
そもそも問題ですらない。

このくらいかいて、
「書きたい衝動」が少しでも発散したような気もするが、
まだまだ「書きたい衝動」はある。
物書きにでもなろうかしらと思ってみても、
なにかを伝えようとしてないんだからしょうがない。

まだまだ書きたいんだけど、
書くことがあまりなくなってきた。
だから、最近こころに残ったことを書こう。

ある問題がある。
「氷は溶けると水になるが、
 雪は溶けるとなにになる?」
という問題がある。
わかるかな?
わかるかな?
答えは、「春になる」である。
素敵じゃないか。
なんてハートフルなんだ。
ふかわりょうが言っていたとは思えない。
これをだれかに言おうと思ってるんだけど、
しゃべってるとすっかり忘れてしまう。
言わないほうがいいよ、と思った人は、
言ってくれたらありがたい。

「Dinner」を観た。
ドラマチックサンデーである。
最終回で、上の立場にいる人が、
部下みたいな人に大っきめの仕事を任せようとするのだが、
部下みたいな人は「ぼくにはできません」と、
その大っきめの仕事を断ってしまう。
「じゃあ俺がやるよ」と上の立場の人が言うのだが、
それでは部下から離れることができない。
「任せられる」ことが「離れられる」ことなのだ、
逆に言えば、任せられなければ、離れられない。
部下が鎖のようになって、
上司が離れていくのを妨げる。
その鎖を断ち切るのが・・・・
うーん、なんなんだろう。
信頼なのか、
経験なのか、
あきらめなのか、
もう鎖ごと、いっしょにいこうぜ、なのか。
断捨離好きなぼくとしては、
その鎖(と部下)はなんとしても置いていきたいんですけどね。
部下、いないけど。

どうが、ここまで書けばいいか、
と、じぶんに聞いてみても。
「どっちでも」、「もうちょっと書いてもいいよ」と
返事が返ってくる。
なんて日だ!
激怒するわけでもない。
悲しいことがあったわけでもない。
なんでもない1日なのに、
なぜこんなに書きたいんだ。
くそ、とは思わない。
ドミノを倒していく感覚に似ているかもしれない。
1文字1文字がドミノで、
タイピングをすることでカタカタカタと倒れていくのだ。
いま、カタカタ倒れていっているのが気持ちよくて仕方がない。
このドミノに付き合ってくれている人がいたら、
申し訳なく思い、ありがとうと感じる。
さぁ、レンタルしてきた「火垂るの墓」を観よう。
そしてその感想を、原稿用紙にでも書こうじゃないか。
読書感想文なんていらない、って言ってた人がいるような気がする。
それはどっちかわからないけど、
観て思って感じたことを考えるってことは、
ぼくは必要だと思います。

ここまで全部読んでくれたのだとしたら、
えらいね、ありがとう。


承認欲求をネタにされてしまうと、
ものをつくっているぼくとしては、
痛みを感じる部分が少なからずあるんだけれど、
承認欲求を見直すと言った意味では、
いい曲だと思います。

やっぱり認められたくて
ものをつくるっていうのは、
すごくあると思いますよ。
コンプレックスとか、
よろこんでもらいたいみたいなものは、
それが入っているんじゃないかなあ。

でもまあ、つくっていくしかないんですよ。
駄作と言われようが、傑作と言われようが、
こっちはつくるしかできないんですから。

やっぱりね、ことばで伝えられないものを
つくりたいと思うんですよ。
曲の歌詞からことばじゃない感情みたいなものをえぐり出して、
それにトッピングしてみなさまにお出しするような、
そんな動画をつくりたいと思ってるんですよ。
だから、目玉焼きには醤油をかけるべきなんですが、
ぼくの場合はみんながかけないようなやつでも、
あ、これもいける、みたいなことを
思ってほしいんですよ。
料理とはなんだろうと考えると、
それはじぶんのための料理と
だれかのための料理がある。

じぶんのための料理であれば、
じぶん→じぶんの関係、
自己完結である。
それが、だれかのための料理であれば、
じぶん→だれか→じぶん、
いや、矢印の数はもっと多い。
直線上ではなく、もっと放射線状に
思う気持ちやら、ありがとうが
広がっていっている。

なんでもしてもらえる人と、
なんでもしてあげる人では
どっちがしあわせなのだろうか?

日曜夜9時 フジテレビ ドラマチックサンデー
「Dinner」