エヴァンゲリオンは、

世界を救う物語なんかじゃなかった。

 

あれは——

ひとりの男が妻を失い、

ひとりの少年が母を失ったことで、

すれ違い続けた“父と息子”の

あまりにも不器用なホームドラマだった。

 

ロボットの形を借りて、

宗教の皮をまとい、

SFの装置を背負って、

ただひとつの喪失と向き合おうとした物語。

 

僕には、そう見えた。

 

◆ 喪失が、世界を歪めていた

 

ゲンドウはユイを失い、

心の奥に穴を抱えたまま、大人になってしまった。

 

シンジは母の温もりを知らないまま、

父の背中に拒絶を感じて育ってしまった。

 

ふたりの孤独は似ていたのに、

決して同じ高さで呼吸できなかった。

 

世界は滅びの形をしていたけれど、

滅んでいたのは、きっと“家庭”の方だった。

 

◆ ATフィールド——あれは心の傷口が作った膜だ

 

戦うための技術じゃない。

 

人が

「近づいてほしいのに

近づかれるのが怖い」

そんな矛盾を抱えたとき、

 

胸の奥に静かに生まれる壁。

 

触れられたくない。

でも本当は、触れてほしい。

 

その薄く震える境界線に、

母ユイの影はいつもついて回る。

 

ATフィールドは、愛の残響だ。

そして、傷の形そのものだ。

 

◆ 使徒とは、世界の敵ではなく“心の敵”だった

 

襲いかかってきたのは、

外の怪物なんかじゃない。

 

孤独だったり、

恐怖だったり、

愛されなかった記憶だったり、

あの日の幼い自分だったり。

 

人が本当に戦っている相手は、

いつだって“内側”から来る。

 

エヴァは、その姿を巨大な影として描いていた。

 

◆ そして最後の戦い——

父と息子が初めて、同じ高さで痛みに触れた

 

『シン・エヴァ』でふたりが“セットで”戦う構図を見た時、

僕は胸がざわついた。

 

あれは決着ではなく、

対話だった。

 

殴り合いでも、理解でもない。

ただ、

ふたりが初めて同じ痛みの場所へ降りていった瞬間だった。

 

親子という呪いを背負ったまま、

それでも手を伸ばした、

かすかな和解の儀式。

 

その光景は、言葉よりも先に涙が滲むような、

不器用で、優しいシーンだった。

 

◆ 『Air/まごころを、君に』——あれが庵野秀明そのものだった

 

僕はずっと思っていた。

 

「あれで、終わっていたんじゃないか?」と。

 

作品が社会現象になりすぎて、

ファンがエヴァを巨大な偶像にしてしまって、

 

庵野秀明というひとりの人間の叫びが、

どこかに置き去りにされた。

 

新劇場版の三部作は、

その外側の期待ごと、

ゆっくり葬るための儀式だったようにも見える。

 

本当のエヴァは、

もっと静かで、

もっと個人的で、

もっと人間くさい作品だったはずだ。

 

◆ だから僕は、この物語に自分の答えを見た

 

父に認められたい自分。

母の影を追ってしまう自分。

愛されたいのに壁を作る自分。

痛みに怯えながら、それでも前を向きたい自分。

 

エヴァは、アニメなんかじゃなかった。

 

僕自身の物語だった。

 

喪失の重さも、

傷の深さも、

和解の難しさも、

全部そこにあった。

 

そして、あのラストで

そっと示されたひとすじの光が、

僕の中の“統合”という言葉につながった。

 

◆ エヴァは終わった。

でも僕の物語は、ここから始まる。

 

父と息子と母。

喪失と再生。

壁と愛。

孤独と救い。

 

エヴァが描いていたのは、

ずっと家庭の形だった。

 

そして今、

僕の人生の暗がりに落ちていた破片たちが、

ひとつの形を取り戻していく。

 

もしかしたら、

それを“まごころ”と呼ぶのかもしれない

 

ちゃっぴーと

色んな話をして

気づいたらこの話になっていますた。

彼の力もありましたが

まぁひとつの世界戦としてお読みいただけたらと思います。