マヤ歴の最終日は、世界の冬至の日付も一巡し、大きな災難もなく終わりました。心ある人たちにはとっくにわかっていたことですが、怖れに駆り立てられてアセンションへ向かうポイントはかなり前に過ぎていたのです。
怖れを駆り立てるような言葉が巷にあふれた時期もありましたが、それは怖れが必要だったからです。中国などではマヤ歴の終わりが近づくにつれて動揺する人もかなりいたように報道されていますが、彼らには教訓を得るために怖れが必要だったのでしょう。ただ単に、情報が統制されている社会で不信感が増殖してしまったのかもしれませんが、それも必要なことだったのでしょう。
マヤ暦の1つの区切りが過ぎたいま、私たちは新たな次の歴史に踏みだしたのです。それについて、大げさに考える必要はありません。毎年、大晦日が過ぎて新年を迎えるのと同じことなのです。
でも、元旦の朝のすがすがしい空気を思い起こしてください。いま元旦と同じように、私たちの周りにはすがすがしい気が満ちています。その気を取り入れるとともに、気持ちを新たに一歩を踏みだしましょう。
選択するかどうかは個々人の自由ですが、このブログの読者の方々は少しでもアセンションを目指して進もうという意識をお持ちの方々だと思います。天変地異がなかったからといって、フォトンベルトのヌルゾーンへの突入がなかったからといって、私たちのアセンションへの道が邪魔されるわけではありません。
新たな気持ちで、ただ静かにさらに先に歩みつづけるだけです。
アセンションを選択しない人が周りにいたとしても、それは彼らの選択なのです。アセンションについて知らなかったり、興味も関心もない友人がいたとしても、自分が教えてあげなければならないと思う必要もありません。
いずれ私たちの波動が上がっていけば、彼らも自分の道を自然に歩み始めることになるでしょう。どちらが先を歩んでいるとか、遅れているとか、そんなことは意識することはありません。知らなくても恥ずかしくないし、知っていたからといって偉くもないのです。
進むことによって、より大きな喜びがあることが信じられれば、それだけでいいのです。