ドラマ 朱蒙の史実


 


高句麗は建国時より多数の部族により形成されていたが、故国川王は高句麗内の部族を5つ(五部)に再編することを命じた[1] 


 


高句麗の記録に従えば、中国の後漢代末の頃には高句麗は単なる部族連合ではなくなり役人による支配が完成したことになる[1] 


 


『新唐書』「東夷伝」高麗伝によれば、以下の5つである。 


内部(桂婁部、黄部とも)


北部(絶奴部、後部とも)


東部(順奴部、左部とも)


南部(灌奴部、前部とも)


西部(消奴部とも)


 


故国川王(ここくせんおう、生年不詳 - 197年)は高句麗の9代の王(在位:179 - 197年)。提那部の于素の娘を王妃とした。179年に新大王が死去したときに、長男の抜奇が政権内や人民の評判が悪かったため、男武が擁立されて王位に就いた。


故国川王の即位後に漢の建安年間(196-220年)の初めに、抜奇が王位につけなかったことを不服として消奴部の加(高句麗の官名のひとつ、首長層)と3万余人を率いて公孫氏[1]の元に降り、さらに後に抜奇は帰国して沸流水(渾江)の辺に住んだ、とする。同書・山上王紀では、故国川王の死後にその兄の発岐・弟の延優が王位を争い、敗れた発岐が公孫度を頼り反乱したとの記述がある。抜奇と男武(故国川王)との争いは、故国川王の死後の発岐と延優(山上王)との争いが故国川王即位紀に紛れ込んだと見られている


 


東明聖王前37-19 / 瑠璃明王前19-18/ 大武神王18-44 / 


閔中王44-48 / 慕本王48-53 / 太祖大王53-146 / 次大王146-165 / 新大王165-179 / 故国川王179-197 / 山上王197-227 / 東川王227-248 / 中川王248-270 / 西川王270-292 / 烽上王292-300 /


 美川王300-331 / 故国原王331-371 / 小獣林王371-384 /


 故国壌王384-391 / 好太王391-413 / 長寿王413-491
/


文咨明王492-519 / 安臧王519-531 / 安原王531-545 / 陽原王545-559 / 平原王559-590 / 嬰陽王590-618 / 栄留王618-642 / 宝臧王642-668


 



高句麗建国の祖となる朱蒙が東扶余から逃れて辿り着いたのが卒本(ソルボン)の地であった。卒本は鴨緑江の北に位置し、現在の吉林省との省境に近い遼寧省本渓市桓仁満族自治県の辺りとされている。


  もともとこの卒本の地には、魏書高句麗伝が「濊貊(わいはく)と呼んだ人々が住んでいて、山岳渓谷で狩猟牧畜を、河川沿いの平地で農業を営む、半農半牧の生活をしていた。



卒本には「句麗(クリョ)という国がすでに存在していて卒本城を王城としていたとの説もあるが、いずれにせよ、彼らは五つの部族に分かれていた。


すなわち、


橡那(ヨンナ)、桓那(ファンナ)、沸流(ピリュ)、貫那(カンナ)、卦婁(ケル)[桂婁とも表記]という五部族である。


 


魏書高句麗伝(三世紀末成立)では、


 


〔高句麗には〕古くから五族があった。


 


涓奴(ソノ)部、絶奴(チョルノ)部、順奴(スンノ)部、灌奴(クァンノ)部、桂婁部であり、もとは涓奴部から王をだしていたが、しだいに衰え弱まり、今では桂婁部が〔涓奴部にとって〕代わっている


 


伝説では朱蒙を最初に助けたのが召西奴(ソソノ)という娘であったというが、彼女こそ卦婁部の君長である延陁勃(ヨンタバル)の娘であった。


朱蒙は召西奴とその父延陁勃の支援によって、まずは卦婁部を、そして残りの卒本四部を次々に味方に付け、さらには北辺の靺鞨(マルガル)族などをも服属させて信望を厚くした


  別伝では、句麗王には男子の継嗣がなかったので、


信望のある朱蒙を婿に迎えようとした。


 


蒙は扶余の王宮にいた時代にすでに離宮女官の礼少椰(イェソヤ)と結婚していたが、朱蒙が扶余を去った後に礼氏は男子を産んだ。高句麗第二代の王となる瑠璃(ルリ)[孺留(ユリュ)、類利(ルリ)も表記]である。


 


卒本に来てから朱蒙は召西奴と結ばれていた。


 


朱蒙の姓が「高」だったので、高氏の句麗という意味で国号を「高句麗」と称することにした。


 


西紀前三七年、朱蒙二二歳の時のことだという


渤海国は高氏の句麗国が滅んだ後に大氏が再興した句麗国だから「大句麗」と称してもよかったことになる。ただ、建国の祖となった大祚栄は国号を「大句麗」とはせず、「渤海」としたのである。


 


「涓奴部」(ソノブ)……朝鮮史料に言う「橡那(ヨンナ)」に当たる。別称で「西部」もしくは「右部」と呼ばれる。