『大王の道』(英祖はなぜ世子次男思悼世子
(荘献世子)[をころしたか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%8E%8B%E3%81%AE%E9%81%93
英祖(ヨンジョ、えいそ、1694年
10月31日
- 1776年
4月22日
)は李氏朝鮮
時代の21代国王(在位:1724年
10月16日
- 1776年4月22日
)。諱
は昑(クム、금)。
即位前は延礽君(ヨニングン)と称し、粛宗
の次男にあたる。母は和敬淑嬪崔氏
。朝鮮王朝の歴代君主中最も長生きした君主であり、在位期間もおよそ52年間と最も長かった。
母はあのトンイであり 英祖の前の 20代王は景宗であの禧嬪 張氏チャンヒビンで母は19代王粛宗によって 賜薬により処刑された。享年43
俗に燕山君
の後宮張緑水
、中宗
の王妃文定王后
に仕えた鄭蘭貞
とともに「朝鮮三大悪女
」、「朝鮮三大妖女」と呼ばれる。(尚、「三大悪女」の候補には他に、成宗
の時代に王家に連なる名門に嫁しながら多くの男と関係を持った於乙于同
、光海君
の時代に暗躍した金介屎
(金尚宮)、李朝末期の明成皇后
(閔妃)等もあり、これらを合わせて「四大妖女」「五大妖女」等と呼ぶ説もある。)
王世子を支持する少論
と延礽君を支持する老論
の間の権力争いが激しくなった。
1720年
に王世子が即位した後、延礽君を王世弟に冊立しようという建議が出されたが、延礽君は王世弟位を繰り返し辞退した
結局1721年
に王世弟に冊立され、1724年
8月に病弱だった景宗が薨去するとそのまま王位を継ぐこととなった。
英祖は老論派の力で即位し 少論派は一旦は退けられたものの ともに均衡して政治を目指したものの李麟佐の乱
(戊申政変)がきっかけとなり、英祖は再び政治的に立場の近い老論を重用した。
しかし世子思悼世子は少論から学問を受けさらに世子妃
少論派だった。
また英祖の正室がなくなり1759年第二王妃として貞純王后
金氏を迎えた。
英祖と 息子 世子思悼世子 は仲が悪かった。
政治的背景に 老論派 英祖 貞純王妃 少論派 世子 世子妃 の対立は
老論派の英祖に対しての思悼世子への讒言があり これは 親と子の離反を促する
老論派の陰謀画策であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%A7%E5%AC%AA%E5%BC%B5%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%A5%96_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B)
1724年 景宗死去 禧嬪 張氏の子 チャンヒビンの子
1724年 英祖即位(在位:1724年
10月16日
- 1776年4月22日
)。イサンの祖父
和敬淑嬪崔氏
トンイの子
1728年
、
景宗の死で政治的基盤を脅かされた李麟佐
李有翼
らが昭顕世子
の曾孫密豊君李坦
を国王に推戴して武力で英祖と老論を追い出そうと謀る事件が起こる。
この李麟佐の乱
戊申政変)
1749年
から 思悼世子の代理聴政 老論派の危機感を招いた。
1752年 正祖(チョンジョ、 イサン)生まれる
1757年 英祖正室: 貞聖王后
徐氏 65歳死去
1759年 英祖の王妃として貞純王后を迎えた。
老論派と貞純王后の陰謀画策により 少論派の思悼世子を追い詰め ことごとく讒言し 親子関係の離反を図った。
英祖は66歳、貞純王后は15歳であり、李朝歴代王の中で、最も年齢差の大きい婚姻であった。貞純王后は英祖の子である王世子荘献世子
よりも歳が若かったが、一族と共に荘献世子の死に関与したことから荘献世子の遺児正祖
との仲は悪かった
1762年
王世子思悼世子(荘献世子
)の死 正祖の父 イサンの父
1776年
、老衰のため英祖83歳で薨去