韓国歴史


善徳女王はなぜ幾人もの夫を迎えたのか?


 


善徳女王は結婚していない未婚の王と思われがちだが


実は 何度も結婚していたのである。


真平チンピョン王は、もっとも信頼していた娘 徳曼トンマン王女直系の子孫を願っていた。


徳曼王女は龍春ヨンチュンと結婚し王位継承者となった。


しかし 子宝に恵まれなかったためか、王女は複数の夫を迎えたと

伝わっている。


「三国遺事」王歴編は徳曼王女の夫が飲葛文王ウムガルムンだったと記している。


 この飲葛文王「花郎世紀」に伝わるフムバンと同一人物である

可能性が高い。


 


 さらに 
花郎世紀ファランセギには飲葛文王のほかに三人の夫がいたと伝えており 
龍樹ヨンス 龍春ヨンチュン兄弟 そして大臣乙祭ウルチエとの成婚が記されている。


 


「三国遺事」には乙祭公との記録はないけれど 「旧唐書」には王族出身の大臣であったと記録されている。


 


当時の新羅の慣習は徳曼王女のように三人以上の男性と結婚することを


「三婿制」という。


善徳女王の父 真平王は三人以上の婿を迎え入れたわけであるが


 


これは徳曼王女に聖骨ソンゴル家系の子孫と結婚させ


孫が生まれたら次期王位を継承させようと思っていたからとみられている。


 


真平王は徳曼王女が自分の後を継ぐより男子の子孫が王位に就くことを望んでいたからだろう。


その時徳曼王女の母 摩耶マヤ夫人はすでに逝去していた。


 


年老いた真平王は後妃として迎えた僧満スンマンから王子を得たが 早くに亡くなってしまった。


真平王は男性に王位を継承させたく徳曼を結婚させたと思われる。


 


新羅時代の「三婿制」はよく知られている。


 代理母に変わる種付けの役割を担っていた。


一人よりは 三人の婿がいれば 子孫誕生の確率も増すわけである。


 


当時の結婚は 男性が女性の家に婿に行く 妻方居住婚であった。


 


古代韓国は このような成婚方式であり 

朝鮮中期から 少しずつ


女性が男性に嫁入りするように変わったといわれている。


徳曼女王も父 真平王によって 

このように種付け(シネリ)専用の男性を 与え


切実に子孫の誕生をのぞんだのであろう。


 


花郎世紀」には徳曼王女が龍樹 龍春兄弟と結婚したが


子供を産めなかったと記されている。


子供産めない体質であったのだろうか?


徳曼王女は「花郎世紀」には

「太陽のような威厳を誇る容貌」と記されている。


限られた王宮の中で運動もせず
高いカロリーを取り続ければ男性のように
骨格たくましく肥満体であり着床しにくい不妊となったかのせいも考えられる。


 また徳曼王女が複数の男性と交わっていたことが

不妊の原因となった可能性である。


複数の男性と関係を持つことは不妊の原因と
りえるといわれている。


また徳曼と関係を持ち子を生産するという
任務を果たさなければならない 

結婚した種付け男性の精神的な負担が大きく

 なかなか性的関係が


うまくいくことが難しかったのか??


 またあるいは子供は生まれていたのかも知れないが゛

 記録されていない可能性もある。


  善徳女王の後を継いだ真徳女王の記録は一切ない。


ピダムの乱か正月七日に起こり 

翌日八日善徳女王は亡くなり 

その日


いままで 一切歴史書に出なかった

真徳女王が即位させられ、


しばらくして 善徳女王の腹心側近であった

 龍樹も龍春も亡くなり

 そして善徳女王が唐から呼び戻した

政治顧問の高僧も自殺し


ピダムの乱も10日で鎮圧され 一族30人は誅殺された。


傀儡王 真徳女王の影に 

金春秋キムチュンチュと金ユシンの


姿が見られる。 

そして 歴史は 勝者 キムチュンチュとキムユシンによって編纂された。


 もし 善徳女王に子孫がいたとしても 

子孫たちが歴史の表舞台に立つこと決して

ありえないのである。


善徳女王は 民の幸せを願った賢君であり 

悲劇の女王であった。


 そして いまなお 善徳女王祭が行われるのは


民を慈しんだ彼女の残像が 民から民へと伝承されているかもしれない。


参考引用


善徳女王の真実 
  キムヨンヒ クォンヨンス著 キネマ句報社