ドラマ 千秋太后チョンチュテフの時代背景


 


高麗(こうらい、ハングル:고려;[koɾjʌ]918 - 1392)は、918
年に王建(太祖)が建国し、936
年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392
年まで続いた国家である。首都は開京


 


926年に遼(916
年成立)が渤海を滅ぼし高麗と北方で国境を接した。一方、中国大陸の戦乱(五代十国)が宋(960
年建国)によって統一された


 


1 太祖 王建 
918

-943
 世祖


 


2 恵宗王武 943-945
 王建


3 定宗 王尭 
946

-949
 王建 


4 光宗王昭 949-975 王建 


5 景宗王伷 975-981 王昭 


追封 戴宗 王旭 追封 王建 


6 成宗 王治 981-997 戴宗 王旭 遼(契丹)


宋→遼 


7 穆宗) 王訟 997-1009 王伷  


安宗王郁 追封 王建 


8 顕宗 王安世 1010-1031 安宗 王郁 遼→宋 


9 徳宗王欽 1031-1034
 王詢  


 


景宗(けいそう、955119 - 981813)は第5
代高麗王(在位:975
- 981
年)。


光宗と大穆皇后皇甫氏の長男。妃は献哀王后ほか。穆宗の父


父の光宗の代に豪族の大粛清を行い、景宗自身も父から懐疑の目を向けられ関係はよくなかったという。光宗が死去し景宗が即位すると、豪族たちは自分たちを讒言した者たちに復讐を行った。このように殺伐とした朝廷に嫌気が差し、景宗自身も酒色に溺れることが多かったというが、若くして病死した。長男の王訟(穆宗)がまだ乳児だったため、遺言で従弟の王治(成宗)を後継者に指名した


 


献粛王后金氏 -
新羅敬順王の娘。母は王建の娘楽浪公主とみられる。


献懿王后劉氏 -
文元大王(
太祖の息子、王貞)
と文恵王后柳氏(
太祖の娘)
の娘。


献哀王太后皇甫氏(964年~1029) - 王旭(戴宗)と宣義王后 柳氏の長女。 穆宗


 


 


 


献貞王太后皇甫氏(?992) - 王旭(戴宗)と宣義王后 柳氏の次女。(景宗亡き後、王郁(安宗)との間に顕宗をもうける)


太祖918-943 /


恵宗943-945 /


 定宗945-949 /


光宗949-975 /


景宗975-981 /  千秋太后の時代  黄州  6


成宗981-997 /  16年 千秋太后の兄 


穆宗997-1009 /千秋太后 の子


顕宗1009-1031 /献貞王太后皇甫氏 の子


 徳宗1031-1034


 



 


千秋太后


献哀王后 皇甫氏(けんあいおうこう こうほし)は、高麗5代の王である景宗の第3王妃で、第7代穆宗の王母。諡号は応天啓聖静徳王太后[1]。千秋太后(せんしゅうたいごう)の別名を持つ


 


従兄にあたる景宗の第3王妃となり王訟を儲けたが、太平興国6年(981年)に景宗と死別した。兄成宗が即位後は太后となり、千秋宮に住んだ。王訟が即位して穆宗となった際、自らの居住宮にちなんで千秋太后と名乗るようになった。 


 


献哀王后は母方の親戚にあたる金致陽と出会い、情を交わす関係となったが、このことが公然と知られるようになると宮中に混乱が起こった。


咸平6年(1003年)、献哀王后は金致陽との間に息子を儲けた。 


 


大中祥符2年(1009年)、康兆が政変を起こし、金致陽と息子は処刑されて献哀王后は流罪に処せられた。穆宗は廃位され、幽閉地に向かう途中で康兆の部下に暗殺された。これにより、献哀王后は政界において完全に失脚した。康兆らは王詢を王位に推挙し、王詢は即位して顕宗となった。 


 


流罪から解かれた後、献哀王后は黄州に移り、そこで余生を送った。天聖7年(1029年)に王宮に戻されて、崇徳宮において66歳で薨去した。墓所は幽陵である。