こんばんわ、しのけんです。相いも変わらずも暑~い日々が
続いていますが、きっと毎年の如く、9月末くらいまでも暑いの
でしょうね。私の住んでいる所は、都会ですので、セミの鳴き声を
聴けることがほとんどありませんが、緑の多い地方に在住の方は
今、セミの鳴き声真っ盛りでしょうね。
昨日に続いて今日も、火葬場編第二弾を書かせていただきます。
昨日は私の母親の郷里の、野焼きの穴のことを書きましたが、
父の郷里でも、父が子供の頃は、やはり山のふもとなどの、
少し人里離れた所に穴を掘って、そこで火葬していたそうです。
まぁ、昭和22年頃でやっと火葬の比率が全体の5割を少し
越えたくらいだったそうなので、まだまだ土葬で葬られる人が
多かったのですね。
父親の話によると、野焼きの火葬の煙が風にたなびいて、家の方に
流れて来たりしてなかなか大変だったそうで、友引きではないですが、
煙が流れてくると、一緒にあの世に連れて行かれるなどと、半ば
迷信ではあるけれども、非常に不気味がられたそうです。
この話を父はギャグで言ってたんでしょうけれども、子供だった
私にとっては、シャレにならなかったですね。
私が初めて、ちゃんとした火葬場に初めて行ったのは、父方の
祖父が亡くなった時で、当時私は4歳でした。記憶をたどれば、
この頃もう、「死」の概念が分かっており、祖父も死んだから
焼かれるのだ、ということがはっきりと分かりました。
兵庫県の南側の一番西の、播州赤穂の山奥の火葬場で、
祖父は荼毘に付されたのですが、すごい田舎なので、送迎の
マイクロバスが祖父の家から火葬場に着くまで゜、随分時間が
かかったのを覚えています。
最後の別れの後、着火されてから、一旦家に送迎バスで戻り、
火葬が終わる頃に合わせて、またマイクロバスで火葬場に行く、
という流れで、火葬場に再び到着し、初めて焼きあがった遺体を
目にしました。子供心にも、「焼かれると無残にもバラバラの骨に
なるんだな」 という事が充分に理解できて、かなりインパクトが
強かったので、それからしばらくの間は、死=火葬される という
ことが頭から離れず、やたらと死ぬのが恐くてしょうがなかったです。
尚、現在の火葬場の9割弱には、火葬によって出る煙や塵肺が
風に乗って近隣の民家に流れて行ったりすることの無いように
高温度のガスバ-ナを煙と塵に射出して、煙と塵そのものを焼いて
しまい、煙が出ないようにする、即ち、煙突が必要なく、建物の壁に
取り付けられた、熱気の排気口のみがあるだけで、一見しただけでは
火葬場とは分からないようになっているのですが、祖父を火葬した
この当時の火葬場は思いっきり高い煙突があり、黒煙をもくもくと
吐いていました。私達が到着してから火葬場の職員が鉄の棒で
火葬炉のシャッタ-を空けると、いきなり焼かれたお骨が出てきました。
現代では、いきなり遺族の目に、焼かれた遺体が映るのはいかがな
ものかということで、火葬炉の前に綺麗に装飾された「前室」があり、
その奥に火葬炉の前のシャッタ-がある、という作りになっているの
ですが、この時の火葬場には、前室さえなかったのです。
Shinoken
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