久しぶりに本当に美味いもんを食った
下品な表現だが、本音だ。
全てが美味しく素敵な調和がとれていた。
流石にこれは、ブランド  だけある  もちろん金額も流石だが、このバランス(魅せ方  味付け  サービスそして雰囲気に金額も)はコストパフォーマンス致し方無しだね~よりも、納得だ
自前で来るのはキツイがね
{B4735C5C-3B14-4CCB-BA71-87E3EC7D64DD:01}

{D7532E1D-F255-4739-9121-BE8D75F20C14:01}

{0B217FFD-0DC2-4646-9DFC-BE4488C18C17:01}

{128426F7-53EC-46F6-B546-871B319553CC:01}

{B5457FD3-EE8E-467C-A182-4D57A48459DD:01}

{A652EAFF-1018-4895-8F60-D243618344D8:01}

{D4B81C84-8EB4-4443-91A3-20FEE35C8E42:01}

{67BD44E5-D8B1-471F-B8FD-A049B0E6D7D0:01}

{50D05680-A6EE-469A-894F-B4E63362C66C:01}

{180A12A6-A768-47C1-B58D-8A3E2CBBEF24:01}

{5FA95583-082C-4DD7-B1A5-44D416B3D37A:01}

{33833374-05EE-4732-9717-880836710FFB:01}

{A41DE984-9DEE-4CE8-A6FE-132FA8F6822F:01}

百五十年前に、明治の明ける前の混迷の時代に、多くの犠牲者の中に
私の祖先も居た

親や祖父や曽祖父やその兄弟をあやめられたら
それは、悔しいし、敵討ちをしたいのは当然な思いだと思う
けれど、150年も前だと如何ともしがたい
されど、しからばあの世に行った時に敵討ちを!

などの思いは忘れられないが

当時の人々の死生観を伺うに
そして生きていた当時の状況を伺うに

今の様な、恨みつらみでの刃傷沙汰では無い
義や思想を貫いた到達点としての「生き死に」生死を賭しての議論と決断にある

であるならば、恨みやつらみなどは あってはならない
義をそれぞれの正義を貫いた思いを、互いに思うべきであろうとの
気持ちになった

そうなれば、正義派を殺めた俗論派にも義があり正義があったのであれば
お互いに命をかけた貫くものは、むしろ残念ながら、僕らの時代には無い

残るは、それらの俗論派の名誉の回復と
今に生きる身として、あの時代を手本とした生き方を心がける様に、これらの子孫として 肝に銘じたいと心得る慰霊祭案内
児玉神社にて慰霊祭
児玉神社にて
ここのブログを書くのは、どこくらいぶりだろうか?
支部長になって、4年間は支部長ブログに専念したから、千年ぶりってこたあ無いが、この4年間は何回ここを書いただろうか?
Facebookは一言で足りるので、時々アップしていた
先週の22日で支部長役を満了(二期4年)したので、今後は、書きたいこと言いたい事は、ここに乗せる事になるだろう。
前支部長の奥様から頂いた



友人のfacebookに11月11日の「税を考える週間」の麹町支部のイベント「税を考える週間に税を考える 主役はキミ達だ」「この国の行方を憂える」の開催の報告のレポートが載った。

そこに、彼の友人の書き込み
「消費税上げるなら、給料増やせ~!子供たちの為に頼む!!笑」との、市民の声。

これに対しての私の書き込み。このイベントでの私の挨拶からくるコメントとなる。
「子供達のためなら、借金を減らして(国は)、子供達の時代に税金を減らして、子供達の給与を実質増やすべき。
今、消費税を上げず、給与を増やせば潤うのは私達で、
そのまま行けば、子供や孫の時代は消費税はもっと上がり、給与の手取りは減らなければならなくなる。子供や孫には借金の積み重ねがのった結果の負担になるのですよ。」と書いた。

どうやら消費税を10%は、本当に先延ばしにされそうだ。
昨日、ある自民党の議員にお願いに(消費税の納税のための、納税貯蓄と融資セットの金融機関の商品開発と、政府からのそれの実現のための補助金などの予算手当の政策のお願い)行った。
そこでの話は、解散総選挙と消費税の延期は既成事実として語られた。

正に、職業政治家が自分達の権力引き延ばしに、甘い餌を掲げて、この国を引きずっているのだと、の指摘が当たったと言うより、そのままである。
国を牽引する立場に命をかけるのならば、講演をしてもらった武村正義さんの率いた、新党さきがけの議員お方々の残念ながら、短いと言える議員期間を活躍して消えていった散った姿は潔い政治家といえるのではないかと、今更に反芻してみる。

政局戦術としては非常に優れた戦術なのだな、とくらいは私にも解る。稀代稀なる戦術家と驚きもする長期政権を維持されて。
失礼ながら、私の評価は、やり直しの効く時代の到来を牽引する総理の出現に、新時代を期待した。

されど、職業政治家の限界は、4年を期限の定期査定・就職活動をタイミングを見計らって先行選択するパフォーマンスだろう。
首相は一人でパフォーマンスを完遂出来る訳でもないのも原因ではあるだろう。

しかし、この国の将来を真摯に憂えた場合には、借金の先送りを選挙の勝利のための旗印に掲げて勝利できる、この国ってどんな国なのだろうか。
私だって、消費税が上がるより上がらないほうがいい。税金は増税より減税が嬉しい。この感性は人間の欲望・感情の素直な対応である。そうだ、正直な気持ちの現れだ。

しかし、一方の理性はどうした。

先のfacebookのやりとりで示したことを、真剣に考えて見なければならないのではないか、職業政治家の就職の安定のために、必要な増税が、使われるという戦術の軽重を
権力はなんらかの政策を実行するためには必要だろう。
権力は目的達成のためには必要なものであろう。

しかし、権力がその目的に成り果てた時に、権力は自己目的化した時に堕落するのだろう。
権力は理想実現の為には掌握しなければならない。
しかし権力自体が目的化したのでは、本末転倒である。

改めて、一時代に一仕事を成して、表舞台から消えたように見える、さきがけの志士達に敬意を払う私がいます。
連綿として権力を維持することが、目的達成の手段であるならば由。
権力持続が目的ならば凡。
将来の日本のためには増税を試みて選挙に打って出るような非職業政治家は、もうでないのか

政治家は国民のレベルを超えない
国民は政治家のレベルに甘んじる
そんな国なんですねえ

永遠の0を観た。
これは紛れもなく、反戦映画。
photo:01


もっとも好戦映画か反戦映画かなどと言った昭和時代のカビの生えた表現がそぐわないのかもしれない。
特に反戦を台詞で表している訳でもなく、かと言って戦争賛美の台詞も見当たらない。
愛・家族の愛を描いているのだからそんな思想的な台詞がないのは、真っ当な映画作りなのかもしれない。
だから「反戦の台詞が明確に主題化して」強調されていなければ、戦争賛美の映画に位置づけされるのであれば、私にとってはどちらの主義にしても娯楽映画ではないし、それは先導映画になってしまう。
日本人は自分の主張はあやふやなくせに、他社の評価に対しては白黒もしくは二者択一の評価をしたがる。思い込みと先入観(同じかな)に囚われていることへの自覚がなさすぎるように思う。
それが、マスメディアに生活している者に殊更存在するから、事が複雑になる。
(司馬遼太郎氏の小説が歴史書であるかのような錯覚を持ち続けているのも同様な危惧を持つ問題だが)
photo:02


この映画で、反戦を台詞で言わせてないから賛美映画と評価するなら、観てからの評価であれば、その者はおそらく、映画を見ても見なくても変わらない先入観に支配されるのだと思う。
主人公宮部久蔵は生きて帰ることを隠さず言葉に出すことで、私も聞いている、当時の環境からは「臆病者」を超えて「非愛国者・国賊」扱いにされて、誰も表でそんな事は言えなかったのだろうと想像する。(映画の表現を批判しているのではない)映画の作り方に、ドキュメンタリーでは無いのだから、表現は自由だと思う。事実に近く表現したい表現者であればそうすればいいし、伝えたい事を上手く伝えるために、現代に合った表現を使うもの自由だと思う。映画なのだから。
主人公宮部久蔵は生きて帰ることを目標にしていた、そして戦争に勝つためには、生き伸びて戦うことが意味あることそして、戦争後の国の将来のためには、若い人を残さなければならないと話す。そして別な準主役の何人かも人間爆弾の特別攻撃隊作戦は意味がない。いや作戦ですらなくなっている。これでもう負けることが確定したことが解ると言った趣旨の台詞すら語らせている。
これはこの映画の戦争の無策と集結への指導層の無能さを指しているし、映画での上官はみんな頭脳の硬直した士官を表現させていることからも、主役の、生きること・生き続ける努力を諦めないこと・愛する家族の大事さを思い出すことを見つめ続けると、国家が戦争をしなければならない時があるとすれば、それは「国民を守る為」という本来的な意味合いに辿り着く。そこにつながるのが、宮部の「愛するもののために・生き続ける努力を諦めない」の台詞だ。
そして他の搭乗員の台詞で語らせている「九死に一生を目指す作戦なら努力も甲斐が有るが、100%死ぬ攻撃など作戦なんかじゃない。」「こんな手を使うなんかこの戦争は負ける」これは、人間爆弾作戦自体への批判であるとともに、大きな誰が決めて誰が撤回することができるか、不明確で始めて終わったこの映画の戦争が、現場で解っていても、一人の力では何も出来ない、ことの恐ろしさも深く何度も主張して見せている。
生きて帰ると公言していた主役が特攻志願してしまった理由は明白に読み取れる。
死なせてなならない将来の日本を背負って立つ若い優秀な人材を人間爆弾としての飛行機乗りに育て上げ、その人達を死なせてしまった責任感と自己保身との板挟みの悩みの末の事故責任化以外ないだろう。当時の表現にも、回顧の戦友の話の中にも出て来る。
photo:03


そして、「宮部は臆病者」と罵る、ここにもこの時代にも、深慮の無い、見方の浅い者は当然として居たのだことを見せつけられる。
いつの時代にも、世間評判は信用できない。突き詰めて探っていかなければ見えてこないものかも知れない。
真の勇者とは、部下に死に行けと命令する者では無いだろうにと今更ながらに思う。
時代としては、当時は国民の軍隊ではなく天皇の軍隊であり国民は天皇の子であるとの教育(すり込み強制)から、今の感覚とは会い入れないことも仕方ないだろうが。
これはこの映画とは直接関係ないが、戦争を始める時点では国家主導の二番手以下が主導し、終わらせることができずに、天皇に責任転嫁してしまった結果は。本当に当時の天皇陛下の近くに居た決定を出来る人達は、天皇を大事に思って居たのだろうか?
天皇に泥を塗るどころではなく、天皇に直接責任を取らせる結果の招き方は、天皇擁護より自己保全を想像しやすい結果だ。

人間生まれたからには命が一番大事だ、そして家族が大事だそこには愛がある。
先日テレビでスポーツ解説者の方がいい事をお話になっていた。
「力と暴力、競うということと戦うということは近いんです。それを暴力にしないためにスポーツができて、スポーツで競い合い、高め合い、お互いを称え合う。これが暴力になると潰し合い殺し合いで、破壊による結果しか出ません。
これを分離してスポーツで競うとことが出来るように成ったのが、人類の知恵なのですから、スポーツでの競争で高め合い称え合う形を大事にして欲しいですね。(意訳)

後に原作を読んだ。
当時の時代を現代から批判する新聞記者(映画には登場しない)の戯言的な短絡的な批判に対して、主役を知る元航空隊員はマスコミの権力と大衆への迎合を戦前と戦後を含めて痛烈に批判する。
日露戦争後の日比谷焼き討ち事件や政府と軍部への批判行動とそれを追従したマスコミの原罪。

私の目指す当時の児玉源太郎の長岡外史宛に手紙に書かれた1文を思い出す「勝てば憎まれ負けてはならぬ二度と戦はするまいぞ」

この頃の軍人は始めた戦争を終わらせることを考えつつ戦略を企てたのだ。もうひとつ源太郎のこの当時の言葉「始めたものは終わらせねばならない」これがリーダー価値だ。

iPadからの投稿