母親、妻、保護者、友人、女性、ご近所さん…

 

普段、自分のこういった”属性”ばかり意識せざるを得ない環境に囲まれて生活していると、

”本当の自分って何だろう”ってふと思う。

 

青臭いし、そんな玉葱剥くような核心のないものを追究しようとして何になる、

って思っちゃうんだけど、

言えることは、

あらゆる属性は自身のほんの一面しか言い表していないということ。

そこに自分自身の本質を探しても何も掘り起こされないということ。

 

いや、しかし、

自分って何者なんだろう。

 

自分の定義は?って、

論文を書いていた後輩が教授に指摘されていたのを思い出した。

自分なんて如何様にも定義できそうであり、器のようなもんでもありそうだし、

捉えどころがない。

それゆえに魅力的なもんでもある。

 

自分とは一生かけて付き合っていくものなんだという覚悟は、

ここにきてちょっとずつ芽生えてきている。

嫌でも自分。されど自分。

 

これは、あまりにも他人軸で生きてきたツケなんだろうな。

 

・こう思われたい/こうは思われたくない

・あの人はこうで、この人はこうだから、自分はこうありたいというパズルのピース埋めるような在り方

・誰にも文句を言われないことを最優先事項にした行動基準(文句言われるの面倒くさいから)

 

属性や外界を見渡しても自分はいない。

自分が見たいように見ている景色しか広がっていない。

ここに、この身体があることだけは確かで、

この身体と繋がること、

この身体で気づきを得ることが、

自分ができる一番有意義なことなんだろう。

 

他の誰かを思い通りに動かしたり、

状況を意のままにコントロールしようとすることは不可能。

 

そうならば、

いかなる状況においても自分がブレないように自分を保つことが自分でできること。

 

これは、今学んでいるヨガの教えでもある。

 

自分の健康をどうにかできる存在としては、

現代医学や医者の方がまだ有力だと思って生きているフシがあったが、

いや、自分の健康を一番近くで真っ先に感じ取り対処できるのは紛れもなく自分自身しかいない。

誰かに何とかしてもらおうという発想が間違っている。

 

急場で医学に助けられる命はたくさんある。

しかし、日常のちょっとした不調や東洋医学的な未病の段階で正しいセルフケアの仕方を実践できていれば、

後々やってくる大きな病を未然に解消することは可能だろう。

 

 

自分とは何だろう、と精神的とも哲学的ともとれる問いを持てるのも、

身体あってこそである。

身体と精神は密接に繋がっている。

 

身体のケアをする時間に、本来の自分自身と向き合える瞬間がしばしば訪れる。

 

やるべきことは日常の中に山ほどあるのだが、それに追われて自分を大事にできないのは本末転倒なのだ。

 

忙しくても、1分間呼吸に目を向ける、目を閉じて思考を停止する、ゆっくり首を回す、など、

自分の本来の姿を見つめてやることが、この身体で生きていくこの人生の土台を強固にする。

大袈裟かもしれないが、それぐらい、生きていくのに大事なことだろう。

 

置かれた状況に振り回されそうになったから、

今一度、自分に立ち還るために書いてみた。

よく、「お母さんが笑顔なのが子どもにとっても一番の幸せ」というようなことを聞く。


うーん、理屈は分かるんだけどなぁ。


もっと大前提に、母親が自分自身を大事にすることを許せるかどうか、っていうことを取り上げて欲しい。


母親は自分よりも子どもを優先して当然

専業主婦なら家事育児の中心を担うもの

子どもは親といるのが一番幸せ


など、昭和か!という考えがどうも抜け切らない私は、自分の心の声を無視して、家事・育児に重点を置き続けてきた。かなり強迫的に。


男女平等の世の中になってきたとはいえ、家事育児について、女性は減点方式(できて当たり前スタート、できないことが減点対象)、男性は加点方式(できない前提からスタート、できると加点対象)という雰囲気がまだまだ強い。同じことしてても、男女でこうも評価が異なるのは、日常生活をこなす上で本当に邪魔な無視したい事実である。


それはさておき。


心の中では、

一人になりたい

1日中好きなこと(読書、勉強、映画鑑賞、遠出など)をしたい

今日は家事したくない

など、ワガママ放題の私が時折わなわな震えている。抑えられて苦しいようだ。


親になったからといって、急に中身も親になるわけじゃないんだよなぁ。。


そう思い知って5年は経ったはずだが、まだ修行が足りないなぁ。


でも、自分はちょっと両極端なところがある。

母親は一途に家庭を優先すべきという古風な考え方と、母親も一人の人間で自身の人生を楽しんでナンボだから家庭を省みないで良い時間

が必要という考え方と、両方ある。


前者は縛り、抑圧の苦しさが伴う

後者は身勝手、罪悪感が伴う


中庸がない。


自分も家庭も大事にできるポイントはどこに持てるんだろう。


家庭を忘れること、たまには良いよね!

とか思いつつ、どの程度なら許されるのか、というか誰の許しを求めてるんだろうか、とか考えていたら、結局は自分で縛って、自分で解放されたいともがいていたことに気づく。自作自演じゃないか(笑)。


過度に周りの目を気にして、母親たるものこうあるべき、みたいなイメージを自分で自分に植え付け、できていないところを必死に繕ってきたんだろう。周りの目なんてものはまやかしだ。


周りだのイメージだの気にしている時は、自分への眼差しが向けられていない=自分を大事にしていないってことだ。周りばっかり見てる。ブレてる。


自分を慈しみ、愛することができたら、同じ目線を子どもや家族に向けることが可能になる。


まずは、自分を慈しみ、愛することをできる人間に。


そこに条件をつけない。条件なんて要らない。

ただ愛する、大事にする。

自分を大事にできるのは自分しかいない。

その事実を腹の底から理解するかどうか。









習い事、やった方が良いのか…

周りもやってるし…

なんて、他人軸で揺れることはあるが。


それより何よりも、

我が子の可能性が開けること、伸びることを信じられるかどうか、が大事で。


始める前から、

“続かないよなぁ…”

“そもそも、行きたくないやろうなぁ…”

“親のエゴだよなぁ…”

などなど、色んな不安要素ばかり挙げ連ね、肝心の子どもの可能性の芽に意識を向けていないのは如何なものか。


習い事競争というか、いかに早くから習い事をして特別なスキルを身に着けているか、というのをどこかで意識し合っているような雰囲気が嫌で、周りがしているからするというのはやめよう、とずっと思っている。


かと言って、今やってないけど、遅れてないかな…なんていうことを思うのは結局同じ意識が働いてない?


もうさ、周りはどうでも良い、我が子がどうか、なんよ。


何を子どもに見つけて欲しいか。

身に着けて欲しいか。

親ではやりきれない何かをいかにさせてやれるか。


別に習い事をするのに遅いことはない。

なんせ子どもはまだ幼児だもん。

私が今、あれこれ好きなことを習っているので、好きなことができてからやるのでも全然OK。むしろ、やらされてやるより、進んでやってくれるなら習い事やる価値も効率もぐっと上がるだろう。


焦って何かをするのはよろしくない。

多分、今のメンタリティだと、何かを習い始めたとて、“これではまだ不十分?”と思って掛け持ちさせたりしそうで、結局ただ忙しくなってしまうだけになりそうなので、それだったらゆっくりと何か好きなことを探すのを楽しみたい。


自分の好きなことを安心できる環境でたっぷりとできる、素敵な場が習い事になれば良いなぁと想像しつつ。親にとってもその習い事の師匠が良きサポーターになれば。


子育てには正解がないからこそ迷いはあっても親が子を信じることが何より大事だなと思う。


どんな時も我が子を何より信頼している存在でありたい。