昔、私の看護学校の生徒手帳の一頁目に「人生で最も辛く、嫌な、損な、場面を目先にしたとき、微笑みを持って担当せよ」という言葉が学生に向けて印刷されていました。
まだ私も学生ではありましたが、その言葉の通りだと思いました。
「人生には日が当たる陽気な楽しく明るい時期と、そうでない孤独で日の当たらない時期がある」という解釈を看護を通じて感じましたから。
その生徒手帳の言葉を知ってから、いくつかの場面で、この言葉を思い出し気持ちを新たにして看護にあたりました。
それは私が訪問看護に携わる今もです。
この生徒手帳に書かれた言葉は、歳を重ねながら治らない病気を背負い、今まで自分で出来ていた当たり前なことが出来なくなり、それを人に頼まなければならないとき、看護師としては当たり前に、そして時に喜んで自ら看護を担当する事だと思いました。
私の日常的な看護の場面でいうと
例えば、
病気で目が見えなくなり自分の爪を切ることも出来なくなった患者さんから「爪を切ってもらえませんか?」と言われれることがあったら、喜んでそれを担当し、相手に「頼んでしまい悪いな」という気遣いや遠慮を感じさせない対応を考えて表すことです。
名著ナイチンゲールの「看護の覚え書」の中に「患者は内気」と書かれ「患者が自分で身体を動かさないですむために看護師は存在する、と一般的に 考えられているようであるが、私はむしろ、患者を自分について思い煩うことから開放するために看護師が存在するべきであると言いたい。すなわち、身体を動かす努力のすべから免れるのではなく、自分自身について思い煩うことのすべてから開放されていれば、患者は良くなっていくに違いないと私は確信している。」と言います。
つまり、看護師の接し方によって患者の不安が増減し、それが回復過程にも影響することを肝に銘じておきましょう…とナイチンゲールは説明しています。
先ほど例にあげた、著しい視力低下がある患者さんはこんな事を言っていました。
「段々、見えなくなっていく。面倒なことも看護師さんに頼んじゃってごめんね。」「こうして世話になっているのに…世話してくれているあんたの顔も見えなくて分からないんだよ。情けないよな。」とその方にしか分からない心境を語ってくれました。
しかしそれだけで話は終わらなかったんです。
患者さんのお話にお返事をすると私に気付き「この声はFさんだね。この声、声だよ。俺はこの声を聞くと元気になるんだよ。」と、はじけるような生き生きとした声に変化しました。
看護の力は凄い。
この方の訪問看護を担当して二年の間、私はあの生徒手帳に書いてあった、一頁目の言葉を思い出して「相手が頼みにくいことこそ喜んでするように接すること」を心掛けてきました。
そして、
私は訪問看護は面白いなと心から思いました。
住み慣れた家では、病院より患者さんは
ちらほら本音が表れやすい。
その姿に寄り添うしかない訪問看護は
本当にやりがいある仕事です。
まだ私も学生ではありましたが、その言葉の通りだと思いました。
「人生には日が当たる陽気な楽しく明るい時期と、そうでない孤独で日の当たらない時期がある」という解釈を看護を通じて感じましたから。
その生徒手帳の言葉を知ってから、いくつかの場面で、この言葉を思い出し気持ちを新たにして看護にあたりました。
それは私が訪問看護に携わる今もです。
この生徒手帳に書かれた言葉は、歳を重ねながら治らない病気を背負い、今まで自分で出来ていた当たり前なことが出来なくなり、それを人に頼まなければならないとき、看護師としては当たり前に、そして時に喜んで自ら看護を担当する事だと思いました。
私の日常的な看護の場面でいうと
例えば、
病気で目が見えなくなり自分の爪を切ることも出来なくなった患者さんから「爪を切ってもらえませんか?」と言われれることがあったら、喜んでそれを担当し、相手に「頼んでしまい悪いな」という気遣いや遠慮を感じさせない対応を考えて表すことです。
名著ナイチンゲールの「看護の覚え書」の中に「患者は内気」と書かれ「患者が自分で身体を動かさないですむために看護師は存在する、と一般的に 考えられているようであるが、私はむしろ、患者を自分について思い煩うことから開放するために看護師が存在するべきであると言いたい。すなわち、身体を動かす努力のすべから免れるのではなく、自分自身について思い煩うことのすべてから開放されていれば、患者は良くなっていくに違いないと私は確信している。」と言います。
つまり、看護師の接し方によって患者の不安が増減し、それが回復過程にも影響することを肝に銘じておきましょう…とナイチンゲールは説明しています。
先ほど例にあげた、著しい視力低下がある患者さんはこんな事を言っていました。
「段々、見えなくなっていく。面倒なことも看護師さんに頼んじゃってごめんね。」「こうして世話になっているのに…世話してくれているあんたの顔も見えなくて分からないんだよ。情けないよな。」とその方にしか分からない心境を語ってくれました。
しかしそれだけで話は終わらなかったんです。
患者さんのお話にお返事をすると私に気付き「この声はFさんだね。この声、声だよ。俺はこの声を聞くと元気になるんだよ。」と、はじけるような生き生きとした声に変化しました。
看護の力は凄い。
この方の訪問看護を担当して二年の間、私はあの生徒手帳に書いてあった、一頁目の言葉を思い出して「相手が頼みにくいことこそ喜んでするように接すること」を心掛けてきました。
そして、
私は訪問看護は面白いなと心から思いました。
住み慣れた家では、病院より患者さんは
ちらほら本音が表れやすい。
その姿に寄り添うしかない訪問看護は
本当にやりがいある仕事です。