邪馬台国論争は、現在では畿内説が概ね支持されるようになったかと思います。
古墳は城の役割があったのではという説もあり、そうなると畿内説が有力なのかと思います。
例えば神社は古代の武器庫という説もあり、同じく古墳も軍事的な要素と祭祀的な要素を併せ持つという考えに違和感がないように感じます。
古代の日本では、祭祀は軍事を正当化し、軍事は政治を支え、政治は祭祀を組織する
という三位一体の構造がありました。
だから畿内には巨大古墳があるという構造で納得感も増します。
後は九州にも一定以上の政治勢力があったという可能性ですね。邪馬台国と定義しているのは中国側でしょうから、国内的には太宰府のようにヤマト政権の重要な出先機関であった可能性も高いでしょう。
魏志倭人伝に登場する「邪馬台国」は、あくまで中国側が把握した倭の中心であって、その先がどうなっているのかまではよく分からない。という解釈です。
あまり邪馬台国という言葉にこだわる必要はないのかなとも感じます。
この視点に立つと、次のような構造が浮かび上がります。
九州北部は中国・朝鮮半島との窓口であり、おそらくかなり太古の時代から交易は行われていたことでしょう。
こうした要素から、九州に強力な政治勢力が存在したのは自然なことです。
それが、九州で止まるのか畿内まで続くのかがポイントでしょうが、むしろ畿内の繁栄を支えていた構造もあるのかなと思います。
仲哀天皇 が九州南部勢力の熊襲と戦った伝承や、神功皇后の三韓征伐が信憑性に欠けるとしても、その頃には九州北部がヤマト政権の影響下にあった可能性が高いと読み解けます。遡って邪馬台国の時代にも筑紫のあたりにヤマト政権に連なる拠点があったとしても不思議ではない気がします。
邪馬台国が畿内勢力(ヤマト政権)だとして九州北部は大陸との交易拠点でありますので、畿内勢力を支える重要な場所で、ここを落とすと畿内の勢力も弱体化するほどの最重要拠点であったのではないかと考えます。(九州北部は古代から鉄・外交・情報の玄関口)
後世の太宰府がその構造を継承していると見れば、違和感がないでしょう。
畿内か九州かという二項対立ではなく、畿内の王権と九州北部の勢力が連合して倭国を構成していたという多中心モデルが、最も自然に歴史を説明します。
宇佐神宮に祀られる八幡大神、比売大神、神功皇后、のうち比売大神が最も古い神で地主神であるそうなので、畿内の王権、応神天皇(八幡大神)と地元九州北部勢力である卑弥呼(比売大神)を祀る国譲り的な意味合いの神宮である可能性を単純に感じます。
卑弥呼の時代には、九州北部の独立色が強かったものの、軍事的、通商的にはヤマト王権の影響を受け、応神天皇の時代には完全にヤマト王権の支配下になったという解釈です。