前報「和珥11 和珥氏諸族の活動時期2 彦国葺命と建振熊命を中心に」で、次の様に述べました。
・この(建振熊命一族の受けた)行賞の歴史的な意味は、敗者は退き勝者が入込む、既存領国の国境変更と支配者の
交代です。その余波は大きいので、次報「和珥12 忍熊王戦後の建振熊命一族」に論議を先送りします、と。
予定題名はやや変わりましたが、ご吟味下さい。
目次(1) 敗者の地
(2) 海上国の上古史略と分割
<1> 海上国上古史略
<1-1> 神門古墳群の人々は先駆か
<1-2> 姉崎古墳群の人々・・海上国の創始と継承
<1-3> 天穂日命から応神朝に至る海上国の国主を推定す
<1-4> 天穂日命裔の海上国とその周辺への展開
<1-5> 忍熊王戦後に海上国は分割され、その勢力は削がれた
<2> 海上国の分割
<2-1> 和邇臣の祖・彦意祁都命の孫・彦忍人命が武社国造になる
<2-2> だが、彦忍人命の「成務朝、武社国造定賜説」を否定する
<2-3> 新設の「武射国」は旧「海上国」を二分した
<3> 物部小事連は匝瑳郡を拠点に海上国を圧迫した
<3-1> 匝瑳郡を下海上国に新設
<3-2> 物部小事連公とその裔・匝瑳連
<3-3> 応神・河内王朝の新東国策
(3) 武社国新設の意味 ・・兵を興した五十狭茅宿禰の故国・海上国を制す
<1> 武社国における和邇氏諸族
<3-1> 武社国での和邇氏の祖神崇拝
<3-2> 和邇氏支族の遺名は遺ったか
<2> 武社国造の上古史における意味
(1) 敗者の地
ここで、忍熊王戦争*の敗者・忍熊王側の人物とその場所をリストします。
*「忍熊王戦争」: 四世紀末の「覇権をめぐる忍熊王と誉田別尊との戦争」は神功皇后・誉田別尊と籠坂王・
忍熊王側との王権争奪を巡る戦争です。
・「忍熊王の乱」とも云われますが、「乱」よりは「王位継承戦」の性格を重んじて命名します。
・その時期は4世紀末(390年頃)と推定します。
参照:和珥11 和珥氏諸族の活動時期2 彦国葺命と建振熊命を中心に
「敗者の地」を辿る目的は、敗者の地が戦後処理を受けて、どうなったか、を調べる為です。
「敗者の地」は二種類あります。
・第一「敗者の地」:忍熊王の宮居、及び、敗将・倉見別(犬上君の祖)、別将・五十狭茅宿禰の領国です。
・第二「敗者の地」:戦争中の忍熊王の転戦の地です。
・忍熊王らは仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石(明石市)に布陣した。
・上将・倉見別(犬上君の祖)を立て、別将・五十狭茅宿禰はを東国に兵を興した。
・菟餓野(大阪市北区兎我野町、神戸市灘区都賀川)での「狩り占い」は麛坂皇子の死を招く。
・そこで、忍熊王は住吉に後退す。
・神功皇后は瀬戸内海の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。
・忍熊王軍は更に退いて菟道(宇治)に陣立てした。
・武内宿禰と武振熊(和珥臣祖)の策により、忍熊王は敗走し逢坂(大津市逢坂)にて敗れた。
・忍熊王と五十狭茅宿禰とは瀬田川に身投げし、その遺体は菟道河(宇治川)で発見さる。
このうち、本報では次の二国を取上げます。
・海上国(上総国・下総国)・・敗将・五十狭茅宿禰の領国
・武社国(上総国) ・・勝将・和邇・彦忍人命の新任国
亦、後に、西国の「敗者の地」での出来事を取上げます。
(2) 海上国の上古史略と分割・・東国の兵を興した五十狭茅宿禰の故国・海上国の命運を制す
<1> 海上国上古史略
そこで、海上国の古史略をここで確認して置きます。
注 天穂日命一族史については「特論 天穂日命から五十狭茅宿禰まで系譜を辿る」を予定しています。
<1-1> 神門古墳群の人々は先駆か
神門古墳群は2世紀中葉から養老川右岸に築かれます。
それは少なくとも、2世紀初めにはこの部族がこの地に来住していた事を推定させます。
今、それは長平台遺跡・中台遺跡(神門古墳群)・南中台遺跡・蛇谷遺跡(東間部多古墳群)・天神台遺跡(諏訪台古墳群)等として遺っているのです。
「中台なかで遺跡」は、神門古墳群の人々の母村と見られており、弥生時代後期から古墳時代前期の竪穴建物跡350棟、独立棟持柱建物、区画溝を有していた、と云います。
注目すべきは、神門古墳から出土の土器には、在来の土器に混じり、近畿・東海・北陸地方の系統の様式土器が数多く含まれるている事です。
これは、近畿・東海・北陸の各地の人々がこの神門古墳域に来住していた証です。
出土土器は、様式は外部的でありながら、その制作素材は地元産だとされています。
その「様式は外部、制作は地元」の意味は明確です。「様式」を持った人々が当地に住み、地元産原料で「その様式の土器」を制作していたのです。
これらの土器は、手焙形土器や櫛描文装飾の壺形土器などで、弥生時代終末期の東海地方西部以西の特徴を持つ土器が含まれている由です。亦、その由来について、文献は、様々に記しています。
「近畿」、「東海西部」、「北陸南西部系」と記したり、「伊勢地方」と記す例もあります。
当ブログは次の様に理解します。
・少なくとも2~3世紀に当地に渡来した人々がいる。
・その人々は、土器分析から、次の各地から当地に渡来した事が推定されるのです。
・北陸南西部(福井県・石川県周辺系)、
・東海西部(愛知県周辺系)、
・近畿東部(滋賀県周辺系)
(出所) 市原市埋蔵文化センター報告書「南中台遺跡報告書」「長平台遺跡報告書」
古代における、これだけの多様な人々の移動来住には驚かされます。
<1-2> 姉崎古墳群の人々・・海上国の創始と継承
今、関心は天穂日命系の人々の渡来です。
天穂日命系の人々が神門古墳周辺に渡来・展開したとは必ずしも云えません。だが、その可能性は、勿論、あるかも知れません。
要は、養老川左岸に展開する「神崎古墳群は海上国の王者の谷」だと多くの人々が云います。
亦、姉ヶ崎神社は海上国造家の氏神社だとしています。
「国造本紀」よれば、天穂日命八世孫・忍立化多比命が初代上海上国造に定賜しています。
国造本紀:上海上国造・成務朝、天穂日命八世孫・忍立化多比命を国造に定められた。
参照:東国の神裔考3 天穂日命1 美都侶岐命 2021年08月09日
東国の神裔考3 天穂日命2 五十狭茅宿禰・伊狭知直 2021年08月17日
別に、「国造本紀」は美都侶岐命も天穂日命8世孫だとします。
・阿波国造:成務朝、天穂日命の八世孫・弥都侶岐命の孫・大伴直大瀧を国造に定めた。
・新治国造:成務朝、美都呂岐命の子・比奈羅布命を国造に定めた。
彌都侶岐命も美都侶岐命も天穂日命8世孫なので、二人は発音が同じなので同一人と見ます。
更に、本ブログは「彌都侶岐命・美都侶岐命と忍立化多比命は同一人か、同世代の兄弟・従兄弟」仮説の下に話を進めます。
・美都呂岐命の子が忍立化多比命(上海上国造)だとする見方(系図)もあります。これは取りません。
天穂日命8世孫・美都侶岐命は懿徳朝乃至孝昭朝辺りの人と見られます。
その見方は次の様に読んだ結果です。
・天穂日命3世孫・出雲建子命・伊勢津彦命、或いは、4世孫・建角身命が美都侶岐命の3~4世代前である事を念頭に
置くと、そうなるのです。
注1 「国造本紀」はその時期を成務朝としますが、例によって、これには疑義有りです。
注2 この推測は幅を付けて考える要があり、場合によっては、神武東征以前を想定することも許され、
二世紀から三世紀中葉まではあり得るでしょう。今後の推測の精緻化が待たれます。
参照:東国の神裔考3 天穂日命1 美都侶岐命 2021年08月09日
そこで、図表3「天穂日命から応神朝に至る海上国の国主を推定す」を作成しました。
初代海上国造は忍立化多比命です。養老川以南の市原市域を支配したようです。
これにより、海上国の発展を展望しましょう。
・忍立化多比命の子・兄多毛比命は武蔵国、弟武彦命は相武国の国造として展開しました。
・兄多毛比命の子達は特に広範囲に展開しています。
・天穂日命系の房総での展開(伊甚国・菊麻国・阿波国(=安房)・下海上国)は特に目に付きます。
・総じて、武蔵・相武・房総は天穂日系兄多毛比命が抑えています。
他に、建許呂命・神八井耳命系が常陸から東北にかけて広がります。
応神天皇の御世に上海上国造祖の孫・久都伎直を下海上国造に定められたとされています。
これは、忍熊王戦での海上国造・五十狭茅宿禰の敗滅を受けて、分割した下海上国の国造に忍立化多比命の孫を持ってきたものと見ます。
<1-3> 天穂日命から応神朝に至る海上国の国主を推定す
当初、海上国は一国で、養老川下流の市原市辺りに主勢力が展開し、利根川方面に前進境界地を
持っていたと思われます。
初代・下海上国造の定賜が応神朝になっている事は海上国が応神朝に海上国が分割された事を示しています。それまではなかった下海上国が応神朝に初めて設けられたのです。
国造本紀:下海上国造、応神朝に、上海上国造祖の孫・久都伎直を国造に定賜す。
<1-4> 天穂日命裔の海上国とその周辺への展開
天穂日命一族は上海上国を本拠として、房総半島に主勢力を置きつつ、武蔵・相模・常陸に勢力圏を広げたと見ます。その様は図表4に見て取れるでしょう。
若干説明します。青字は天穂日命系の人々を指し、赤字は房総半島に入ってきた異族です。
海上国はこの勢力により分断された、と読みます。この分断が本報の中心テーマです。
<1-5> 忍熊王戦後に海上国は分割され、その勢力は削がれた
ここに到り、忍熊王戦後に「海上国は二分割され勢力を削がれた」と推定するのです。
それが実際にあったと思われる理由は、
第一に、5世紀初頭の武佐国造の新定賜です。しかも、その国造は天穂日命系ではなく、
全く別な和邇氏族の彦忍人命の国造定賜であった点が第一理由となります。
第二に、その後の匝瑳郡の新設です。これは後述します。
図表5は、この縮退は古墳築造の時代推移を追えば、何らかの兆候を掴めるのではないか。と考えて、観察します。
忍熊王の敗戦は4世紀末で、応神朝は5世紀前半~中葉とすると、彦忍人命の武社国造就任は5世紀初めです。
図表5を観察すると、養老川沿岸には上海上国造の一連の古墳があるとされます。
・上海上国造墓は5世紀は天神山・二子山・の三古墳は隆盛の中に築かれています。
・5世紀の応神河内王朝は巨大古墳の築造で有名ですが、それに見合っています。
・6世紀になると、この傾向は一変しています。墳丘長さは大幅に減少します。
・然し、家系は7世紀まで維持されています。
総じて、武社国造の圧迫は見とれません。
・下海上国造の墳墓を語るネット記事を見出しません。
・武社国は5世紀初頭(400年過ぎ)に新設された筈ですが、5世紀に顕著な古墳造営がこの地に見られな
いのは不思議です。
忍熊王の敗戦は4世紀末で、応神朝は5世紀前半~中葉とすると、彦忍人命の武社国造就任は5世紀初めです。
だが、その5世紀に顕著な古墳造営が見られないのは不思議です。
三ノ分目大塚山古墳(千葉県香取市三ノ分目)は築造時期は5世紀中葉の前方後円墳です。
利根川下流域では最大規模、千葉県内でも屈指の規模。盾形周濠あり、と云います。
その石棺は畿内大王墓級の石棺である長持形石棺です。
関東で長持形石棺出土例は四古墳あり、いずれも最有力首長墓に限定的だと云います。
築造時期はいずれも5世紀中葉です。
・太田天神山古墳(群馬県太田市) 210m、 築造時期:5世紀前半-中期頃
・お富士山古墳(群馬県伊勢崎市) 125m 築造時期:5世紀中頃
・高柳銚子塚古墳(千葉県木更津市) 110m 築造時期:5世紀中頃
・三ノ分目大塚山古墳(千葉県香取市三ノ分目) 123m 築造時期:5世紀中頃
三ノ分目大塚山古墳は、国造墓に相応しいが、その場所は下海上国領域です。
この古墳は下海上国造・久都伎直墓の可能性が大でしょう。
武社国造墓は候補墓すら見当たりません。
注 下海上国造や武社国造の墳墓を語るネット記事を見出しません。
<2> 海上国の分割
忍熊戦争の敗者・五十狭茅宿禰の領国は房総の海上国です。
その海上国は、応神朝になると、上海上国と下海上国に二分され、その中間に武社国が新設され、その結果、海上族の勢力は衰退したと思われます。
果たして、この推理は当を得ているのか、お読みの方々は、ご検読の上、ご批判下さい。
<2-1> 和邇臣の祖・彦意祁都命の孫・彦忍人命が武社国造になる
彦忍人命の和珥邇氏系譜上の位置については二説あり、それは相容れません。
第一説は「国造本紀」の「彦忍人命は和邇臣の祖・彦意祁都命の孫」説です。
「国造本紀」には「和邇臣の祖・彦意祁都命の孫」として「彦忍人命」を位置づけます。
・彦意祁都命は、開化天皇妃の意祁都比売命の兄ですから、その孫は、常識的には、開化天皇の孫・垂仁天皇の
時代の人と考えるのが普通です。だが、仲哀・神功皇后期の忍熊王戦争に「垂仁朝の時代人」の参画は時代的に
無理です。
第二説は「ウイキペディア和珥氏」の「建振熊命の弟」説です。
このウイキペディア「和珥氏」が紹介する「和邇氏系図」には、彦押人命は「彦国姥津命の曾孫、武振熊の弟」として登場します。その出所は示されていないので判らないのです。
だが、この「弟」説は、忍熊王戦に勝利した建振熊命の弟と云う点では説得力があるのです。
武振熊命の弟(亦は子)だと見る時、この人事を忍熊王戦争と容易に結びつける事が出来ます。
そこで、本ブログは「彦忍人命は和邇臣の祖・彦意祁都命の孫」説を採らず、「和邇氏系図」説、即ち、第二の「弟」説に従います。
然し、ここに「謎」(未解決課題)が残る事を書き残したいと思います。
「国造本紀」が記す「彦忍人命は和邇臣の祖・彦意祁都命の孫」説に対する疑義は、転じて、
「国造本紀」の時代感の劣悪ぶりの指摘でもあります。
<2-2> 彦忍人命の「成務朝、武社国造定賜」説は否定する
更に、多くの新国造就任期を「成務朝」とする「国造本紀」にも疑義を感じています。
要するに、古史料は単純に受け入れると、歴史を見誤るのです。
その具体的な事例が、「彦忍人命の国造定賜は成務朝のこと」(国造本紀)です。
・忍熊戦に関する記紀史料はこの戦いは仲哀天皇没後に起こり、推定されるその時期は4世紀末です。
・応神朝前夜に忍熊王戦に戦勝した将軍・建振熊命の弟を国造に任命したのですから、その任命は応神朝だ、
と判断される筈です。
・成務朝の事とは云えないのです。
注 ここで注意すべきは「成務朝の出来事」とする記事です。
「国造本紀」では初代武社国造の任命は成務朝の事だとしますが、この時代は応神朝の筈で、実際の時代よ
り成務朝に時期がズレ上がっています。
「国造本紀」は大化の改新以前の情報を齎してくれて有用です。だが、初代国造の定賜時期については大雑把なのです。
所で、この彦忍人命の武社国造人事が忍熊戦争前の成務朝に行われたとするのを認めると、話(推理)は全然違って来ます。
・下海上国国造の五十狭茅宿禰は、二国を分断する様に武社国造を新設し、しかも、そこへ任命したのが今までの
天穂日命系とは筋違いの「和邇氏」系だと知る時、どのように感じるでしょうか。
・この場合、五十狭茅宿禰彼は怒り心頭に発して、この人事を止める様に成務天皇に求めます。
・だが、事態は変わらず、仲哀朝から神功皇后摂政期に移って、誉田別尊が誕生すると、異母兄・忍熊王が皇位継承
戦を企てる時が来ます。
・忍熊王は自分に味方すれば「武社国」問題は五十狭茅宿禰に有利に解決する、と約束します。
・五十狭茅宿禰は、神功皇后・応神側の「和邇建振熊命」を攻め勝てば、「武社国造」新設は取消しになり、和邇氏系
の彦忍人命の国造就任は取消せる、と判断して、忍熊王に味方する、と云うやや異なった「話(推理)」になります。
今回はこの推理は採らず、むしろ、彦忍人命の「成務朝の初代武社国造の就任」を疑い、「応神朝の就任」と判断します。
推定ですが、海上国は元々は房総半島のくびれ部分を横断するかたちで上総国から下総国にかけて展開し、一国を成していたのです。
それを、忍熊王敗戦後、この武社国の建郡により二分されたのではないか、と思われます。
<2-3> 新設の「武射国」は旧「海上国」を二分した
その結果、主力の上海上国は東京湾側に残り、九十九里浜・銚子側は切離されて、下海上国が新設された、と見ます。
応神天皇の世に久都伎直を下海上国造に定めたと云います。5世紀の初頭と見ます。
国造本紀:下海上国造:応神朝、上海上国造祖の孫・久都伎直を国造に定められた。
下海上国の管轄は、東下総の海上・匝瑳・香取三郡と常陸鹿島郡の南部とを包括する地域、だったとする見方があります。
五世紀までは上下の海上国を併せ、千葉県中部から茨城県、埼玉県、東京都にかけての一帯を支配した大勢力だったとする説すらもあります。それが忍熊王敗戦で変わる事になるのです。
<3> 物部小事連は匝瑳郡を拠点に海上国を圧迫
<3-1> 匝瑳郡は下海上国に新設された
物部小事連公は、仁賢・武烈の御世に節刀を賜わり、坂東を征し、その功により、初めて下総国「匝瑳郡」が建郡されます。武社国と下海上国の中間です。
(出所) 「続日本後記」835・承和2年3月16日条
物部小事連は、これにより小事匝瑳連を名乗ることになります。
注 「天孫本紀」によれば、饒速日尊10世孫・伊莒弗宿祢(履中・反正朝)の次男が物部布都久留連公(雄略朝に大連)
で、小事連公はその次男(長男は12世孫・物部木蓮子連公は仁賢朝の大連)です。
<3-2> 物部小事連公とその裔・匝瑳連
参考図表は物部小事連公の天孫系譜での位置を示しています。
時代を掴む為に、この図表の左側には物部氏の各世代が仕えた天皇名を記してあります。
小事連公は「志陀連・柴垣連・田井連の祖」(天孫本紀)とされていますので、常陸国信太郡にも繋がっていた節があります。
・786延暦5年10月21日条,外従五位下常陸信太郡大領・物部志太連大成(続日本紀)
亦、後世、物部匝瑳連を名乗る一連の鎮守将軍たちも小事連公の裔だと推定されます。
・811・弘仁2年3月20日条、「日本後紀」嵯峨天皇の御世のことです。
陸奥鎮守府副将軍、物部匝瑳連足継は、文室綿麻呂の蝦夷鎮圧に従った。
・834・承和元年、仁明朝の初頭、下総国人・物部連熊猪は、小事の子孫で、陸奥鎮守府将軍・外従五位下
勲六等に叙任されます。
・835・承和2年、連姓から「宿祢」を賜姓し、この時、本貫を下総から左京二条に移した、とも記す。
この小事連公の坂東での活躍は仁賢・武烈朝です。それは5世紀中葉だと思われます。
この時期は応神朝初頭の武社国造・彦忍人命の赴任、及び、下海上国造・久都伎直の定賜から数十年しか経っていないことに注目します。
<3-3> 応神・河内王朝の新東国策
応神・河内王朝は、新たな東国策を採り、これまでの勢力図に一石を投じる事にしたのです。
「国造本紀」が、応神朝に初めて国造を定賜した諸例がそれを物語っています。
応神朝の国造定賜は応神・河内王朝の新しい地方統治策を示唆する。
参考:応神朝の国造定賜の諸例
・明石国造 :大倭直と同祖・八代足尼の子の都弥自足尼
・下海上国造:上海上国造祖の孫・久都伎直
・印波国造 :神八井耳命八世孫・伊都許利命
・茨城国造 :天津彦根命の孫・筑紫刀祢
応神・河内王朝の新統治策は、先に、海部直の新設による海政策をご報告しています。
だが、新国造の任命に採る地方政治の改変策もあったのです。
・それが武社国を嚆矢とする国造の任免です。
・ここでは深入りしませんが、応神朝での吉備国の分割統治策は多くの小国造を生み出し、それにより 「分割して統治」したのです。房総も同じ小国造を産みだしています。
房総では、忍熊王戦争を契機に、下海上国を強く意識して、武社国を新設したのです。
・第一歩は応神朝です。海上国を分断し、その中間に武社国を新設・国造を定賜しました。
当ブログの追跡では武社国造の活躍はやや生ぬるく、歴史の中に埋没しています。
・第二歩は仁賢・武烈朝です。
下海上郡から匝瑳郡を分立し、物部小事連をその首長とすると共に、陸奥鎮守副将軍の 立場を与えたのです。この業績は歴史の中で明確に遺っています。
・尤も、体制側に組み込まれた下海上国造の事績は雷神社の祭祀に遺っています。
雷神社(千葉県旭市見広、下総国海上郡)
祭神:天穂日命、配祀:別雷命
由緒:景行天皇が東国巡幸の折、椿海の東端に一社を造営、東海の鎮護とした。
・その後、下海上国造定賜の久都伎直が祖神・天穂日命を奉祀した、と伝わる。
・793・延暦12年、賀茂別雷神社より別雷命を勧請・配祀、桓武天皇より「雷大神」を賜った。
物部小事連公の東国での活躍は神社祭祀の中にも遺されています。即ち、匝瑳大神・老尾神社は
式内社として遺されています。社伝は崇神天皇7年の創建とし、祭神別説に物部小事とする見方があるようですが、その場合は、仁賢朝以降の創建亦は追祀を考えないと意味すると見ます。
老尾神社(匝瑳市生尾)式内社、下総国 匝瑳郡鎮座
祭神:阿佐比古命(香取神宮の祭神・経津主命の御子神) (配祀)磐筒男命 磐筒女命 国常立命、
別説(下総國旧事考):物部小事
由緒:崇神天皇7年の創建と社伝にあり。
大中臣鎮宅を祖とする大中臣匝瑳氏(老尾神社神職系匝瑳氏)が生尾村に居住、その主流が代々
神職を勤めて明治四年に至り、神職の世襲廃止令により辞職す。
(参照)延喜式神社の調査、千葉まほろば神社
・建年代詳ならず、廷喜式神名帳、匝瑳郡一座に、老尾神社とあるは。蓋、当社なり、國人匝瑳明神と
称し、匝瑳一郡の総鎮守たり、伝云ふ、祭神阿佐比古命は、経津主命の御子にして、経津主建御雷の
両神、天神の命に依り天降、荒振神を揆平し、天神に復命せんとするの時、御子阿佐比古命を留のて
皇孫萬代の護として、此地に鎮座せしめんと。 (参照) 明治神社誌料(抜粋)
(3) 武社国造新設の意味
<1> 武社国における和邇氏諸族
<1-1> 武社早尾神社:武社国での和邇氏祖神崇拝
武社国の式内社を検しても、和邇氏の祖神崇拝の対象らしき神社は見当たりません。
祖神崇拝の原理は働かなかったのでしょうか。上総・下総両国の式内社には和邇氏祖神を祀った
形跡はありません。
これをどのように理解したら良いのか、悩みます。
苦労した挙げ句に見出したのは「武社早尾神社」と云う式外社です。
・式外社:武社早尾神社(山武市早船1386)
祭神:日本武尊・彦忍人命
由緒:日本武尊東征の折、早い流れの海流に乗りこの地・早船に上陸したと伝えられ、
早船には今でも日本武尊を祀った早尾神社が存在する。
神社記によると「日本武尊東征のおり此の地に臨まる故に神として祀る」と記録されている。
武社早尾神社を「武社国の早尾神社」だとすると、その大元は、「早尾神社」をネット検索して得た、大津市の早尾神社かも知れません。琵琶湖西南部の大津市は和邇氏の根拠地です。
参考:早尾神社(滋賀県大津市山上町)無格社
祭神:武速素盞嗚命 合祀 猿田彦命
摂社:児大友社「大友與多王」、蛭子社「事代主命」、稲荷社「宇迦御魂神」 白一大神、八大竜王
由緒:当社の創建は、今から千二百年の昔、坂本日吉七社の内、早尾大神を此の他に祀り、谷間に
不動像を刻み、寺門宗の守護神として崇敬したと伝えられていまる。
・日吉大社には壱百八社の摂末社があると言う。その中の日吉七社は上、中、下と二十一社あり、
そのうち中七社に早尾神社の名が見える。やはり祭神は素盞嗚尊。
この早尾神社の北部には和邇氏系の神田神社、更にその北には、小野神社・和邇地名群があります。
更に、この早尾神社は「山上の地」にあるのです。山上は和邇系春日氏縁の「山上臣」(山上憶良はその代表)に通じるのです。
それ故、この早尾神社は武社国の国造家の崇拝社の元社である可能性があります。
だが、無格社です。人々から敬意を持って扱われず、評価されていないのです。
物部匝瑳連の老尾神社の場合、式内小社扱いですが、武社早尾神社は式外社・無格社です。
老尾神社と武社早尾神社二社の取扱いの大きな隔たりは「武社国造・彦忍人命」に対する後世評価の低さに由来する可能性があります。
後裔が祖神崇拝を怠ったか、妨害があって上手くいかなかったのかも知れません。
<1-2> 和邇氏支族の遺名は遺ったか
武社国に彦忍人命の国造就任以後、和邇氏諸族が武社国に来住した痕跡は色々な人が報告しています。今はそれらを集めて一表にしてお届けします。
図表6 武社国と周辺に遺る和邇氏諸族の動向
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1「房総通史」によれば、和邇臣(彦忍人命)の後裔、小野・山上・知多・飯高の諸氏が山武郡周辺に住み、
これらに縁ゆかりの地名として下総の海上郡に小野郷、香取郡に山上郷、千田庄、飯高村がある由です。
2 和邇氏の支族(丈部、丸部、日下部)が上総・下総の各郡に、居住していると云われます。
・和邇臣系の丈部氏:印旛郡大領丈部直牛養
・丸子連:
・「和名抄」の下総国匝瑳郡日部郷は日下部氏の居住地と考えられている。
3「千葉市史」によれば、
・大化元年八月五日早くも東方八道に国司が任ぜられ,翌二年三月十九日には東国朝集使及び国造等を選ぶ。
「国司の治状を奏させ、過あるものは罰し、法にしたがえる者を賞している。次に評造には、「並国造の
性識清廉くして、時務に堪へたる者を取りて大領・少領と為せ、強幹しく聡敏くて、書を記し、数を
知るに巧みな者を主政、主帳と為せ。」
☆ 下海上国の国造は、いつの間にか、他田日奉部直に移行しています。最早、天穂日命系とは思われません。
・703・大宝3年7月、上毛野朝臣男足(守)が下総国司に任命さる。
・他田日奉部直神護 (748・天平20年に己の旧領の大領たらんとした申状)
・下海上国造・他田日奉部直神護、
・下海上郡大領・海上国造・他田日奉直春岳
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<2> 武社国造の上古史における意味
応神・河内王朝の新東国策は、(1) 応神朝に和邇氏系の彦忍人命の武社国造定賜で始まり、
(2) 仁賢・武烈朝に物部小事連公の東国派遣が成功して、軌道に乗った様に思われます。
武社国造の新定賜はそれ自身が画期であり、クサビ役は果たします。
だが、これ以後に述べる様に、和邇氏の祖神祭祀は廃れ、偉業を伝える伝承の少なさ故に、その新国造就任は抑えめに評価されます。






