前報「和珥12 忍熊王敗戦後、 武社国造新設の意味」では応神朝に房総の旧体制にクサビが打ち込まれた、と述べました。そのクサビの中から陸奥に分岐した一群があった事を本報でご案内します。

  今回、それが嘗て取上げた「道嶋宿祢シリーズ」に繋がっていた事を知ります。

 

目次 (1) 陸奥に分岐した和珥氏裔
              <1> 「続日本紀」に見る「陸奥国人への叙勲」・陸奥大国造・道嶋宿祢の推挙
           <1-1>     陸奥国での大規模な賜姓
                         <1-2> 陸奥における武社国の投射
                         <1-3>   「丸子、丸子部、丈部、春日部」は和邇氏一族の裔孫
                         <1-4>    物部小事連は匝瑳郡を拠点に海上国を圧迫する
             <2> 陸奥に分岐した和珥氏裔 丸子・丈部・牟邪・武社・武射・春日部
       (2) 付:道嶋宿祢の人となりとその生涯

(1) 陸奥に分岐した和邇氏裔

<1>  「続日本紀」に見る「陸奥国人への叙勲」・陸奥大国造・道嶋宿祢の推挙

 武社国造裔には分岐して陸奥へ行った者がいます。後に、牡鹿連を賜る丸子連らです。

 他の同族も協同行動を採ったと思われます。

<1-1>  陸奥国での大規模な賜姓

 神護景雲三年は西暦769年、称徳天皇の御世のことです。
 この年、陸奥国大国造・道嶋嶋足は、陸奥国の役人達全84人を賜姓推薦し、それは彼のヤマト朝廷での功績の高評価の故にヤマト朝廷に認められたのです。図表1がその内容です。

 最後を「神護景雲三年三月辛巳、是大国造道嶋宿祢嶋足之所請也」と締めくくっている点もお見逃しなく、チェックして下さい。

 

 

  原文は読み難いので、書写・整理して、原文の下にリストしてあります。

 この「陸奥国の賜姓」事件は、当時、可成り有名になった話だろう、と思われます。
 兎に角、陸奥国の役人を総なめにして、陸奥国大黒造・道嶋宿祢の請願し、その叙位・賜姓を

朝廷が認めたのですから、おおきぼとなりました。

   お陰様で、現代の私たちは、遺された史料により、色々な事を学べるのです。

   この図表1では色々な事が目に付きますので、古代世界を覗見します。
  ・先ず、八世紀人・道嶋嶋足の人柄に想いを致すことも出来るでしょう。
  ・東北の地に広く展開していた中堅地方官たちの昇叙を喜び祝う姿を歴史の一コマとして     

   想像するのも一興ではないでしょうか。
   例えば、今までは大伴部と云っていた人が大伴行方連とか大伴苅田臣とか称するのです。

      ・上毛野名取朝臣、下毛野朝臣、のような高貴性を漂わせる「朝臣」姓もあります。 
      ・上毛野陸奥公も「上毛野」+「陸奥公」と云うスゴイ姓です。

 
<1-2> 陸奥における武社国の投射

 この図表1の見方の第二は「陸奥における武社国の投射」です。
     武社国造・彦忍人命は和邇氏ですから、和邇部・丸子部・春日部などの部民も随行して武社国の統治に一役を果たしたでしょう。

 5世紀からの時代推移の中で、その一部の武社国人が陸奥国へ分派したと思われるのです。

 先ず、一点「牡鹿郡人外正八位下の春日部奥麻呂等三人が武射臣を賜姓した」を指摘します。

 牡鹿郡人春日部奥麻呂ら三人に「武射臣」の賜姓が記されたことの意味を次の様に解読して見ま

したが、お読みの皆さんはどう見られますか。
 ・武射臣とは武社臣と同義で、武社国造や伊甚屯倉ゆかりの人々です。
 ・「武社国」とは、応神朝に、五十狭茅宿禰の故国・海上国が忍熊王の敗戦後、領域を縮小され、  

  下総と上総の二分国にされ、その中間に設けられた国です。
                                                                                                          参照:和珥12 忍熊王敗戦後、 武社国造新設の意味
    ・和邇臣祖・彦意祁都命の孫・彦忍人命がその新郡・武社国造に任じられたのです。

            注 この人の系譜上の位置は「建振熊命の弟」説の方が理解し易い事を前報で述べています。 

    ・この新国造赴任は一族の人々の同行があった筈だと推測します。
  ・新国造は敵地(敗将・五十狭茅宿禰の旧国から分割した新設国)に乗込むのですから、それなりの覚悟

              と下準備が要ります。和邇氏一族は、この時以降、房総に到来したのです。

         ・その人達には丸子氏・丈部氏などの和邇系支族や丸子部・春日部などの部民も加わっていた

   でしょう。


 武社国の諸事は陸奥国牡鹿の地につながります。

  ・牡鹿丸子連の活躍は、先行する丸子氏の武社からの北上を推定させます。

  ・春日部氏の「武射臣」賜姓は、春日部氏が武社国~伊甚の地を経ての牡鹿移住、と読みます。

  ・丈部氏の陸奥での中堅官人として活躍は丈部氏が和邇氏支族である事を確認して納得です。

 

 それは、「丸子、丸子部、丈部」も、次の「新撰姓氏録」情報を検すると、「和邇氏一族の裔孫」と見るのが妥当だからです。

 

<1-3>  「丸子、丸子部、丈部、春日部」は和邇氏一族の裔孫
 
  「新撰姓氏録」は、「丸部」は彦姥津命の男・伊富都久命の子孫だとし、「丈部」は天足彦国押人命孫の子孫だとします。

 彦姥津命は比古意祁豆命と同義なので、二支族「丸部・丈部」は歴とした和邇氏一族なのです。
        新撰姓氏録: 95左京皇別 丸部 和安部同祖 彦姥津命男伊富都久命之後也
                 96左京皇別 丈部       天足彦国押人命孫比古意祁豆命之後也


 申し添えれば、道嶋宿祢の元の姓は「丸子亦は丸子部」だったと云われています。
 そこで、ブログ文「道嶋嶋足5 丸子氏を追跡する」では、特に「丸氏・丸子氏・丸子連」に焦点を当てて、牡鹿半島から房総半島までの海岸部における古代丸子氏の活動状況をレビューして、武社国と東北の牡鹿国とのつながりを明らかにしています。
               参考:東国の神裔考(3)  道嶋嶋足5 丸子氏を追跡する 2021年07月30日

  そこから「図表3 丸&丸子氏の都道府県別人数」を引用し、それを図表2として参考に供します。 この場合、千葉(武社国)と宮城(牡鹿郡)とが関心の対象です。

  「姓氏由来ネット」は厳密に地域別の姓氏をカウントしている訳ではありません。
 しかし、それが概数で捕らえている姓氏分布は過去を探る上で貴重です。
  この「姓氏由来ネット」に依存して、現代の丸氏・丸子姓の人々を総覧します。ご覧下さい。

 


 

  図表2の要点:
    1  宮城・山形に丸子氏多し。福島・いわき市に丸部郷あり、それ相応の丸子氏おり。
 2  関東・常陸の沿岸部に丸子氏あり。
 3  甲信・東海地方では、浅間神社宮司家が和邇部氏裔と云いながら、丸・丸子姓が少ない。
 4  房総(千葉)の丸姓・丸子姓の多さに注目し、次の図表3に特記する。
 5  中国地方は広島・山口の沿岸部に多く分布する。

    沿岸部に丸・丸子氏の多い理由は、俄には云えないが、丸子氏が海神祭祀と関係する事が一理由となるかも知れません。沿岸部に丸・丸子氏の多い現象は、房総(千葉)でも観察できます。

     特に、房総の古代国名別の分布を図表2の住吉社の鎮座状況との比較で、図表4で見ますと、
    1 須恵国:富津市の丸姓300は住吉社3社の鎮座と対照されます。
 2 伊甚国:いすみ市・勝浦市の合計丸姓300が長生郡の住吉社3社の鎮座と対照されます。
 3 武射国:茂原市の丸姓500と印旛国:成田市の丸姓300は香取国住吉社2社の鎮座と対照                                されます。やや、分散性が大きく、更なる考察を要します。
 4 上海上国・菊間国:市原市200は
 5 丸子姓は意外と少なく、その分布をコメントするレベルにはないと思われました。
   また、その他の都市地域についてはコメントを省きます。



 

<1-4>  武蔵国・房総の丈部氏
 
    春日部奥麻呂等三人が武射臣を賜姓した一事は、それに先立って行われた「春日部・武射臣」の陸奥行きの反映なのです。

 図表1では、「春日部」は三人ですが、「丈部」は頻出していることを確認できます。
 これは、武社国のお和邇氏系「丈部氏」が陸奥国に出向いた、と見ます。

     亦、話は武蔵国に飛びますが、次の様な「丈部直」も見出します。
  ・767・神護景雲元年、丈部直・不破麻呂は武蔵宿禰を賜姓し、武蔵国造に任じらる。

  図表4    東国の丈部氏の諸例
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 ・丈部造智積・相模国足上郡人。715・霊亀元年、君子尺麻呂と共に孝行を表彰され、鄕里で無税とされた
 ・丈部路忌寸祖父麻呂。720・養老4年、漆部司の役人・父・石勝が漆を盗み、流罪にならんとした時、兄
            弟共に官奴に身を落とすことで、父親の罪を購おうとした。
           ・元正天皇は、勅命により、父親の流罪を免じ、強大は望み通りに官奴にされた。
            だが、翌月に兄弟は元の良民に戻された。
  ・上総国:丈部大麻呂。749・天平感宝元年、黄金を獲得して無位から従五位下へ昇格
             759・天平宝字3年、斎宮頭に任官
             783・延暦2年、元の従五位下に復す

             784・延暦3年、造長岡宮使に任命 - 造営の功で、従五位上に 
             785・延暦4年、織部正に任官
             787・延暦6年、隠伎守に任命。
      ・丈部路忌寸波倉、764・天平宝字8年、正六位上から外従五位下に昇格。恵美押勝の乱で功績
               があったらしい。
 ・丈部細目       765・天平神護元年、恵美押勝の乱での活躍、正七位上から従五位下へ昇格
 ・丈部造広庭      767・神護景雲元年、私財貢献により外従七位上から外従五位下へ昇格
 ・丈部善理       789・延暦8年、阿弖流為との戦いに征東将軍紀古佐美の別将として参加、戦死
 ・丈部直牛養:下総国印旛郡大領。781・天応元年、蝦夷征討の兵粮を進上、外正六位上から外従五位上に

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<1-5> 陸奥の丈部氏 

  和邇系氏族が武社国の建郡に際し、新国造・彦忍人命に同行した事は容易に推測出来ます。
 更に、その一部が、歴史時間推移の中で、この東北の地に移住・活動していたのです。
  それは、多分、武社国から北上した結果です。

  図表2は特段の説明は致しませんが、丈部&春日の項を縦に読めば、この二族が何処に展開していたかを知る事が出来るでしょう。

 

 

<1-6>  陸奥の吉称侯部氏

  吉称侯部氏の陸奥国進出はそれなりに理由があります。

  この一連の叙位・賜姓で吉称侯部氏が上毛野公・下毛野公を名乗っている事から推理を働かせます。
 先ず、上毛野氏支族は、元々、和邇氏系諸族と武社国で共住していたのです。
 その後、武社国から陸奥国への北上期にも、和邇系支族と行動を共にした、と推定します。

 その背景(根拠理由)としては「続日本紀」の記事を挙げられます。
  ・603・大宝3年7月甲午に「正五位上上毛野朝臣男足を下総守と為す」の記事が見え、これは

              文武天皇の御世です。下総は海上郡の属する国です。
  ・759・天平宝字3年11月丁卯条に「従五位下池田朝臣足継を下総介と為す」とあります。
                   これは淳仁天皇の御世です。
    ・房総半島では、上総国武射郡に下毛野君が居住していたようです。

         従って、陸奥の吉称侯部氏は上総・下総から移住したと推定出来るのです。

<2> 陸奥に分岐した和珥氏裔・・丸子・丈部・牟邪・武社・武射・春日部

  ここはまとめです。東国から陸奥国まで和邇氏支族が展開したのは色々な事件がきっかけだったと思いますが、次の陸奥国各氏が「和邇氏」裔だと云えます。

      東国・陸奥国での和邇氏支族
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  丸子:道嶋宿祢は丸子連の出す。丸子連は東国(特に上総国長柄郡)に多い。
        新撰姓氏録: 95左京皇別 丸部 和安部同祖 彦姥津命男伊富都久命之後也
  丈部:             96左京皇別 丈部       天足彦国押人命孫比古意祁豆命之後也
  牟邪=武社=武射:彦忍人命の統治、古事記(孝昭天皇段)に「牟耶臣」とあり。
  春日部:春日氏の部民
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<2-1> 今回の叙位・賜姓における特長

  陸奥国大国造の道嶋宿祢の官位は「正四位上・近衛中将、勲二等」です。
 通常の国造・国司は高々「正五位上」ですから、格段の上位なのです。
 
 今回の陸奥国の授位内容により、次の事が判ります。
  ・授位者たちは陸奥国各郡の上級(郡司級)~下級官人たちです。
   具体的には・次官すけ級(正六位上下)が       10人
        ・判官じょう級(正七位~従八位)  7人
        ・主典さかん級(初位)       2人

 

 

  図表6を理解する為に「地方官の位階」を作成し、参考にしました。

 

 
 

     図表6は特段の説明は致しませんが、丈部&春日の項を縦に読めば、この二族が何処に展開していたかを知る事が出来るでしょう。

 道嶋宿祢は牡鹿郡の出身で、元は牡鹿連・丸子連でしたから、この春日部奥麻呂と近縁であることを推測させます。それは和邇氏支族の出である事すら示唆しています。

 

 この地域には、武社国の西北隣に匝瑳郡が新設され、物部・小事連とその子孫・物部匝瑳連も鎮守将軍として派遣されてきています。

(2) 房総と陸奥とのつながり

     以上は、推理を含めて、陸奥国への和邇氏裔の移住を述べたものです。

 考古学界では、この房総と陸奥とのつながりは両地に見つかった「横穴墓」が共通するとして重視されています。

 

 図表7には関係する情報を総合して表示します。

 

 

(3) 付:道嶋宿祢とその生涯

 道嶋宿祢については、当ブログでは4年前に記しています。ご参照頂ければ幸いです。
          参照:東国の神裔考(3) 道嶋嶋足5 丸子氏を追跡する       2021年07月30日
             東国の神裔考(3) 道嶋嶋足3   陸奥国の式内社          2021年07月16日
                              東国の神裔考(3) 道嶋嶋足2   道嶋同族の人々       2021年07月12日
             東国の神裔考(3) 道嶋嶋足                2021年07月05日


    和邇氏支族の東国から東北へ展開した軌跡の締めが、道嶋嶋足宿祢の陸奥国大国造につながるとは思いもしない事でした。

 道嶋宿祢は、丸子連の出ですから、和邇氏族に縁ユカリがあるのでしょう。

    上述の本文ではそうだと断定しています。
        
  次の参考図表は四年前のブログ文から要約縮小、転記・整理したものです。ご参考まで。

  参考図表     道嶋宿禰の生涯
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 [孝謙朝・称徳朝]
     ・753・天平勝宝5年、丸子から牡鹿連に改賜姓される。
     ・764・天平宝字8年9月、藤原仲麻呂の乱に際し、孝謙上皇の勅命を受けて、嶋足は坂上苅田麻呂
                                                  と共に訓儒麻呂を襲いこれを射殺した。この武功により従七位上から 
                                                  一足飛びに十一階昇進して従四位下に昇叙、宿禰を賜姓した。
     ・765・天平神護元年、勳二等を受勲、近衛員外中将に任じられる。後、道嶋宿禰に改姓。
     ・766・天平神護2年、正四位下次いで正四位上に叙せらる、
     ・767・神護景雲元年、陸奥国大国造。近衛中将に任ぜられる。称徳朝に異例の昇進
 [光仁朝] 近衛中将を務める
      ・778・宝亀9年、下総守、・・・武社国は上総にあり、その北接の地が下総です。
      ・780・宝亀11年、播磨守、内厩頭を兼務した。
  ・道嶋氏の出自である丸子氏は、相模、武蔵方面から現在の北上川流域への移動ともからむ、
   牡鹿郡と房総地方との関係は深いとされています。 
 [重要メモ]
    1嶋足の奏請により牡鹿郡の春日部氏に武射臣が賜姓された。
                    武射臣と春日部は、共に、武佐国造一族の後裔です。
    2応神朝(成務朝)に武社国造に任ぜられたのは和邇氏の彦忍人命である。
    3丸子嶋足の祖が上総から陸奥に移住した時期は牡鹿柵造営以前の古墳時代だったでしょう。
    4横穴式古墳は東北地方としては異質と云える。それが矢本町赤井にだけある。
    この矢本町赤井の横穴式古墳群は千葉県茂原市押日の横穴墓群と同質性が見出されている。
     ・上総武射郡(武佐国の後身)は、山辺郡を介して長柄郡と隣接している。
      その長柄茂原にある横穴墓群と東北では異質な横穴式古墳(矢本町赤井、丸子氏域)と

                           共通性がある、と考古学者たちは云います。
    5丸子氏一族の居住地(上総国長柄郡)は、和邇の彦忍人を祖とする武佐国に近接している。
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