「欠史八代」最後の開化天皇の御世に至って、春日・和珥系女性の天皇家入内に変化が現れます。
    ここに「和珥」が登場したのです。それまでは、春日を名前のアタマに掲げる女性たちでした。

  開化天皇の別妃・沙本之大闇見戸売は 春日建国勝戸売の女と伝わり、「春日」は遺っています。
    だが、ここに至って、正皇后・意祁都比売命を和珥臣系から迎えた、とされるのです。
    この女性・意祁都比売命には「春日」の冠は付いていません。
  
  この後、開化天皇の御子・崇神天皇以降の百年、和珥氏は、時々、記紀に顕れる様になります。
  具体的には、先ず、崇神~垂仁朝の和珥氏祖・彦国葺、更に、垂仁朝の春日臣・市河です。ご覧下さい。

 
目次 (1) 和珥氏の登場
      <1>  和珥・彦国葺命:四世紀、崇神朝に登場する
         <1-1> 「新撰姓氏録」に見る彦国葺命一族
            <1-2>  神田神社
         <1-3>  彦国葺命の裔孫は国造になる
                       <2>  難波根子建振熊命は誉田別尊に戦勝を齎す
                      <2-1>  覇権争いの戦勝成果ー和珥氏の得たもの

                                    <2-2>  建振熊命一族への褒賞(その1) 応神天皇への二妃の入内

                                    <2-3>  建振熊命一族への褒賞(その2) 諸国造への任命

         <3>  5(応神・仁徳・雄略・仁賢朝)~6世紀(継体・安閑・宣化・欽明・敏達朝)の和珥氏の動向
    (2)  和珥女性の入内300年間を三期に分けて見る(後編) 
                <1>  5~6世紀の和邇・春日女性の入内
          <2> 応神~雄略朝の和珥女性の入内
        <3>   継体~敏達朝の春日和珥女性の入内

(1) 和珥氏の登場

   3世紀の「欠氏八代」期は前報しましたが、興味深い事に、この3世紀には「和珥」はなく、

  「春日」を見出すのみでした。多くのレポートは和珥が大元であるかの様に記すのに、です。
 これには注目して「和珥氏略史」のまとめの時まで留意すべきことです。

 ところで、4世紀に彦国葺命が五大夫の一人として登場し、5世紀には建振熊命が忍熊王戦争の鎮将として成果を上げると、和珥氏の新しい姿がクローズアップしてきます。

 <1>  和珥・彦国葺命:四世紀、崇神朝に登場する

   先ず、4世紀の崇神王朝に彦国葺命が登場するのです。

 この人の登場は特段の説明なしに図表1に示します。ご覧下さい。

 亦、和珥氏の登場は和珥氏系女性の天皇家入内の予兆です。
          注 この場合は「日本書紀」が中心ですが、「古事記」他2~3の史料も参照しています。

  図表1     和珥氏の登場・・四世紀の崇神王朝~神功皇后摂政期(日本書紀・古事記)
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 ・崇神朝:崇神天皇8年冬12月20日、天皇は大田田根子に大物主神を祀らせた
     ・大田田根子の父は大物主大神、母は活玉依姫
(陶津耳の女、別伝は奇日方天日方武茅淳祀)と云う。
      崇神天皇10年9月、大彦と和珥氏祖・彦国葺を遣し、山背の埴安彦を討たせた。
           「古事記」:崇神朝、日子国夫玖命の建波爾安王
(武埴安彦)追討伝承を記す。
 ・垂仁朝:垂仁天皇 2年春2月、狭穂姫を皇后とし誉津別命が生まれた。だが、兄・狭穂王は反乱し、
           ・上毛野君祖・八綱田に命じて、狭穂彦を討たせた。
      垂仁天皇25年春2月8日、五大夫(武淳川別
<阿倍臣祖>彦国葺<和珥臣祖>、大鹿島<中臣連祖>

                                                  十千根<物部連祖>、武日<大伴連祖>)に詔して云われた。
         「先帝、崇神天皇は賢聖であり、聡明豁達、政治をよくご覧になり、神々を救い、躬み
          を慎しまれた。それで人民は豊かになり、天下は太平であった。私の代にも神祇をお
          祀りすることを、怠ってはならない」と云われた。
    ・伊勢神宮の創立:「伊勢国は頻りに波が打寄せる、傍国の美国である。この国に居たいと思う」という

          言葉があった。そこで大神のことばの儘に、その祠を伊勢国に立てられ、斎宮を五十鈴川の畔

          に磯宮を立てた。天照大神が初めて天降られた処である。
           ・垂仁天皇26年10月甲子の日、神告により伊勢国の渡遇宮にお移しした。
    ・石上神宮の創立:垂仁天皇39年冬10月、五十瓊敷命は茅濘の菟砥川上宮で剣一千口を造らせた。
                          ・その剣・川上部を石上神宮に納められ、神宝は五十瓊敷命に司らせた。
                             その一千口の太刀は忍坂邑に納めた後、移して石上神宮に納めた。
         ・この時、神が「春日臣一族の市河に治めさせよ」と云われたので、市河に治めさせた。
                              これが現在の物部首の祖である。
・景行朝  和珥記事ナシ
・成務朝  和珥記事ナシ
・仲哀朝 和珥記事ナシ
・神功皇后期:「忍熊王の乱伝承」は「日本書紀」「古事記」+次の三史料にあり、そこに和珥記事ありです。

      → 参照・次節:忍熊王との覇権争奪戦における難波波根子建振熊命
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 別に、和邇氏祖・彦国葺命一族を史料により概観しましょう。

 これらは4世紀の出来事と見られますが、既に5世紀に突入しているかも知れません。

<1-1> 「新撰姓氏録」に見る彦国葺命一族

 「新撰姓氏録」を検すると、彦国葺命一族について次の事が判ります。
   1、彦国葺命の子は大口納命と伊富都久命を認めます。
   2、154番・右京皇別・真野臣の項では、彦国葺命の子・大口納命がおり、次いで、孫・難波宿祢、曾孫・大矢田宿祢

             に続くと読めます。
  3、彦国葺命からは、男・大口納命。男・難波宿祢。男・大矢田宿祢。と世代は続きます。
  4、彦国葺命は、天帯彦国押人命の3世孫、及び、4世孫だとする申告があり、その系譜上の位置は二説あります。

            尚、後述の「明治神社誌料」は3世孫説を採っています。
      ・彦国葺命は天帯彦国押人命3世孫説:154真野臣・155和迩部・156安那公
      ・彦国葺命は天帯彦国押人命4世孫説:94吉田連(塩垂津彦裔)
      5、崇神朝に、彦国葺命の孫・塩垂津彦は鎮守将軍として百済国に留まります。
     その子孫が聖武朝に吉田連を、弘仁朝に宿禰を、夫々、賜ったと新撰姓氏録にあります。
     6,大矢田宿祢は、神功皇后の新羅遠征に従い、凱旋の時、鎮守将軍として現地に留まり、国王の王女を娶り、兄佐久

            命と次武義命の二男を生みます。 
   ・その裔孫
(佐久命九世孫和珥部臣鳥。努大肆忍勝等)は近江国志賀郡真野村に居住し、庚寅年、真野臣を賜姓します。

                                                                                             注 庚寅年はこの場合、持統4年=690年と見ます。参考:「庚寅年籍」
     神田神社は真野村にあり、祖神・彦国葺命を祀るのはこのような関係によります。

<1-2>  神田神社は彦国葺命を祀る
     
    彦国葺命の孫に大矢田宿祢がいます。その大矢田宿祢の裔孫(佐久命九世孫和珥部臣鳥。努大肆忍勝等)が近江国滋賀郡真野村に住み、真野臣となり、式内・神田神社を祀ったようです。
    神田神社(滋賀県大津市真野普門)
                   祭神:彦國葺命、天足彦國押人命
               由緒:690・持統天皇4年、和邇部臣島務大肆忍勝(この地を開発した彦国葺命12世裔孫)が素盞嗚尊の分霊を

                                勧請したのが始まりと伝えられています。
                           ・島務大肆忍勝は、持統4年、真野臣の姓を授けられたとされ、以後、神田神社は一族と思われる真野氏

                               の氏神として奉斎された。
                          ・神田神社境内周辺には曼荼羅山古墳群(5群117基)や春日山古墳群(約200基以上)、和邇大塚山古墳な

                              ど和邇氏や真野氏のものと思われる古墳が数多く存在し、本拠地だった事が窺えます。
                          ・927・延長5年に編纂の延喜式神名帳記載の式内社で広く信仰されている。
         ・当初は浄地普門山に鎮座あるも、文亀年間(1501~1503年)、祭神に巡る対立が起り、現在地に遷座、

                               新たに彦国葺命と鳥務大肆忍勝を加え祭神としています。
             玄松子:当社は、式内・神田神社の論社で、当社から西へ1kmの場所にも神田神社が存在する。
                             「近江輿地志畧」:その神田神社は当社から勧請された。
        「滋賀県神社誌」:普門山の神田神社は当社から分離独立したとある。
        「近江式社考證」:三代実録の862・貞観4年の条、真野神田今雄に姓を賜り、大神田朝臣と称した。

                                                                    よって、大和大三輪氏と同族となし、大田々根子命の後孫、と記されているらしい。
             阜嵐健:「明治神誌料」縣社 神田神社 祭神 彦國葺命 天押帯日子命 
         ・天押帯日子命は第五代孝昭天皇の御子にして、近江の小野臣及び、和珥臣の祖なり、彦國葺は實に其の

                              三世の孫にして、祭神の朝武埴安彦の乱を平げての功ありし人なり、本社は嵯峨天皇の弘仁年中和珥臣

                              等、此地に祠を建てて其の祖を祀りしに始まる、されば初は和珥氏一門の氏神として、斎き拳るのみ

                             なりしが、漸く崇敬者の数を加へ、延喜の制に式内社に列せられてより社運益々隆盛に赴けり、
        然るに後柏原天皇の文亀以来、祭祀の事を以て氏子間に不和を生じ、為めに社頭の衰頽を見るに至りし

                             が、更に正親町天皇の元亀年中兵災に罹り社殿悉く烏有に帰せり、後八十余年を経て、後西院天皇の明

                             暦年間僅に再建せられ、以て明治に及びたり、(以下略)。

 

  和珥臣が其の祖を祀りしの記述をを重んじて、ここに「神田神社」を記します。

 彦国葺命を祖神として祀る神社は少なく、神田神社以外に、今の処、次の一社を見出します。

      ・野中神社(大阪府藤井寺市野中2丁目1)祭神:彦国葺命・素戔嗚尊

       ・新撰姓氏録:157右京皇別 野中          同彦国押人命之後也

 

 和邇春日系女性の入内は、この百年前に開化天皇妃となった姥津媛(和珥臣遠祖の姥津命妹)以来なかったのです。

 
<1-3> 彦国葺命の裔孫は国造になる

  「国造本紀」によれば、和邇臣祖の彦国葺命(彦訓服命)の裔孫三人は国造に定祝されています。

    先ず、彦訓服命の子・彦忍人命は武社国造、大直侶宇命は額田国造だと「国造本紀」にあり、彦汝命は針間国の国境を定めたと「播磨国風土記」は云います。
 この国境を定める役目は国造級以上の立場でこそ担える役目でしょう。
 亦、塩垂津彦は百済国鎮守将軍になった、と「新撰姓氏録」は云います。

 次に、彦訓服命の孫二人・大直侶宇命(額田国造)・八千足尼(吉備穴国造)も「和邇臣祖・彦訓服命孫」と国造本紀に明記されています。

   国造本紀:額田国造(成務朝):和邇臣祖・彦訓服命孫の大直侶宇命を国造に定められた。
         ・吉備穴国造(備後国安那郡、景行朝):和邇臣同祖・彦訓服命の孫・八千足尼を国造に定祝さる。


 更に、八代宿祢の子・都弥自足尼は明石国造とされ、その祖は大倭直と同祖として氏素性を明かしています。ここで「大倭直」の素性論議は後論に回しますが、これは春日氏系の人と推測して、ここに加えます。
   国造本紀:明石国造(応神朝):大倭直と同祖・八代足尼の子・都弥自足尼を国造に定められた。

 これら国造の定祝時期は景行・成務朝、及び、応神朝とされますが、この頃の資料の示す時代性はいつもの事ながら疑問を孕んでいます。

    今は、これだけしか記さず、後に「和珥12 忍熊王戦後の建振熊命一族、亦は、特論 忍熊王の敗戦はどのように領国を塗り替えたか」において「和珥系国造任地の歴史上の性格」を検します。

    神武朝前記には「和珥坂下の居勢祝」は登場しても、和珥氏自身は登場していません。

               神武天皇前記:添県の波哆丘岬に女賊・新城戸畔がおり、和珥坂下に居勢祝が尾り、臍見の長柄丘岬に、
                   猪祝がおり、その三土賊はその力を誇示して帰順しなかったので、これを討った。

  
その和珥氏が、開化朝の入内記事に次いで、この崇神朝に彦国葺命として本格的に登場したのです。                  開化天皇紀:和珥臣祖・姥津命の妹である姥津媛は、開化天皇妃として彦坐王を生んだ。

 

<2> 難波波根子建振熊命は誉田別尊に戦勝を齎す

    四世紀末の「覇権をめぐる忍熊王と誉田別尊との戦争」は神功皇后・誉田別尊と籠坂王・忍熊王側との王権争奪を巡る戦争です。

    その紛争の性格から云って、戦争の規模は判りませんが、実は古代史の中で屈指の覇権争いの戦乱だと見ます。その政治史上の影響も大きかったのです。
               参考の為、当ブログの見方に従って、古代の主な覇権争奪戦をリストします。
                ・倭をめぐる覇権争い<1> 神武東征       (1世紀後半~2世紀前半)
      ・倭をめぐる覇権争い<2> 忍熊王の覇権を巡る戦乱(4世紀後半)
      ・倭をめぐる覇権争い<3> 壬申の乱       (672・天武天皇元年6月24日-7月23日)

 

<2-1>  覇権争いの戦勝成果ー和珥氏の得たもの

   「忍熊戦争勝利が和邇氏の台頭を齎した」様子を、図表2にお示しします。
 図表2は、飽くまで、建振熊命の戦勝の論功行賞につながる「建振熊命の縁者」たちを示すもので、系図としては略した部分もあり、配置位置も変えたりしていますので、ご注意下さい。

 


  太字の人名をご注目下さい。

 

    「忍熊王との覇権争奪戦」で勝利した建振熊命への褒賞は次の様に顕れたと見ます。

            ・「海部氏系図は祖・天火明命から続く海部氏系譜19代目に健振熊宿禰を記します。
                ・応神朝、健振熊宿禰は海部直を賜り、国造となったとの記述があります。

 

 この二記事は、出所の確認を済ませていませんので、ここに記し、出所確認済みの記事は次項以下に記し、図表2を基に若干説明します。

  
 <2-2>  建振熊命一族への褒賞(その1) 応神天皇への二妃の入内

  忍熊王に対する戦勝は、応神王朝を齎し、和邇氏の台頭をもたらします。
  その最も顕著な顕れが、建振熊命の孫娘(和珥臣祖日触使主の娘・宮主宅媛・小甌媛)の入内です。
                     応神紀:二年春三月三日、仲姫を立てて皇后とす。妃・皇后の姉・高城入姫、皇后の妹・弟姫
                                                             ・宮主宅媛
(和珥臣祖日触使主の娘)・小甌媛(宅姫の妹)、他妃を略す。

 先ず、建振熊命の孫二女(姉・宮主宅媛&妹・小甌媛)は応神天皇妃として入内します。

 この和邇氏からの入内は開化天皇の時から約百年後の久し振りのことで、真に建振熊命の功績の

顕れなのではないか、と思わす一件です。
 日触使主は、40歳前後の壮年で、将軍・建振熊命の子です。丁度、応仁帝と同年位の娘がいたのでしょう。応仁帝は10代半ばを過ぎた姉妹を娶った、と推定します。

  尚、この二妃は日触使主の女ムスメです。記紀は日触使主の親を記しませんが、建振熊命の子とされていますので、今は、そのまま記します。
   参考:関係者の原典表記を示します。
                 古事記    :丸邇之比布禮能意富美、娘・宮主矢河枝比賣、弟・袁那辨郎女
                        日本書紀:和珥臣祖・日触使主、 女・宮主宅媛、  宅媛妹・小甌媛


<2-3>  建振熊命一族への褒賞(その2) 諸国造への任命

 次に、建振熊命の兄弟、子・孫への功賞です。

 この人々の忍熊王戦争に従軍の有無は不明ですが、行賞を受けたものと見て、リストします。

   1 建振熊命は、その業績の故に、「海部氏系図」に祖神として取込まれた、と推定します。
   2 建振熊命の兄弟・子等は、国造亦はその相当職に任じられています。

      兄弟・彦押人命  (成務朝:武社国造)
        ・彦汝命   (成務朝:針間国の国境を定む。葦占臣、根連、櫛代造祖)
        ・真侶古命  (成務朝:額田国造)
                    子等・大直侶宇命  (成務朝:額田国造)・・上記する真侶古命と同人か。
                             ・八千足尼   (吉備穴国造)
                                ・米餅搗大臣命(和邇部宿禰祖)
                                ・日触使主(応神天皇妃となった姉・宮主宅媛&妹・小甌媛の父)
                         ・大矢田宿禰命(神功朝、新羅国鎮守将軍、真野臣祖、後に裔孫が神田神社に彦国葺命を祀る)

      注 これらは敗戦した忍熊王側の領地、亦は、その隣接地で、忍熊王側を牽制する地ではないか、

         と思われますので、近日中に別論します。

 
 この行賞の歴史的な意味は、敗者は退き勝者が入込む、既存領国の国境変更と支配者の交代です。

 その余波は大きいので、次報「和珥12 忍熊王戦後の建振熊命一族」に論議を先送りします。
 

<3>  和邇池の謎

 

    5世紀は応神朝に始まります。応神朝の和珥氏の代表は建振熊命です。

 その後、6世紀に継体朝が始まるまで、約百年間、「和珥」は数度に亘り登場します。
 難波根子武振熊が飛騨国の宿儺を退治した伝承は忍熊王戦争のおまけとして、特に取上げず、  

 今は「和邇池の謎」のみを取上げます。

 

<3-1>  和邇池の造成時期

 処が、「和邇池」の所在地も、その造成経緯も、不明です。
    判っているのは「和邇(和珥池・丸邇池)」を冠した池が応神朝の次の仁徳朝(日本書紀)に造られた、と云う事だけです。
 「和邇池」の造池は崇神朝から続く、の一連の土木工事(図表4参照)の一環だ、と思われます。

 「日本書紀」は、4世紀前半の崇神朝末の依網池の造池を記し、5世紀の仁徳天皇13年10月の和珥池の造池を記します。 

 「古事記(仁徳天皇段)」は「秦人を役ちて、茨田堤また茨田三宅を作り、丸邇池・依網池を作り、」とあり、応神朝の次の仁徳朝に秦人たちが造成した、としています。

  和邇池の造成時期が仁徳朝である事は一つの推測を生みます。
   ・建振熊命の勝利で応神朝が発足し、次の仁徳朝に至り世情は安定し、国土開発への弾みがついたのではないか。
       ・優秀性が知られた「秦人たち」の土木技術活用の機運は高まり、有力豪族は競って「秦人技術」 を使ったのでは  

           ないか。
      ・その先駆は「依網池」の造成だったのではないか。
          「日本書紀」は「崇神天皇62年冬十月に依網池を造った。」と伝えています。

  ・この推測の先にあるのは「和邇池」も同様な事由で造成されただろう。

          和邇氏の強大が依網氏の強大相当であれば、それは可能だっただろう。



 図表4    4世紀前半の大規模な土木事業の中に和珥池あり
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日本書紀:崇神・仁徳朝は、多くの池の造成が報告されています。
       ・崇神天皇62年秋7月2日、詔して云われた。

                    「農業は国の本である。人民のたのみとして生きるところである。今、河内の狭山の田圃は水が少い。 

              その国の農民は農業を怠っている。そこで池や溝を掘って、民の生業を広めよう」
                   ・冬10月、依網池を造った。
                   ・   11月、荊坂池、反折池を造った。
                ・仁徳天皇11年冬10月、宮の北野を掘り南水を導き、西海(大阪湾)に入れた。「堀江」である。
                                             ・北の河の塵芥を防ぐために、「茨田堤」を築いた。
                                         ・山城の栗隈県(宇治市大久保)に、「大溝」を掘って田に水を引いた。
              ・13年秋9月、初めて茨田屯倉を建てた。舂米部を定めた。
              ・  冬10月、「和珥池」を造った。この月に「横野堤」も築いた。
              ・14年冬11月、「猪飼津」(大阪市生野周辺)に橋を渡した。「小橋」と云う。
              ・   この年、「大通り」を京の中に造り、南門から真直に丹比邑(羽曳野市丹比)に及ぶ。亦、

                     「大溝」を感玖(河内の紺口)に掘った。
                     石河の水を引いて、上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦、四ヶ所の原を潤し、
                                              四万頃(頃とは、中国の地積単位で百畝を指す)の田を得た。
古事記  ・崇神天皇段(最終部):この御世に依網池を作り、亦、軽の酒折池を作りき。
     ・応神天皇段
(髪長比売との歌の応答の時):天皇の返歌
                      水溜る 依網池の 堰杭打ちが、挿しける知らに、蓴菜を取る人が手を延へける知らに
                      我が心しぞ いや愚かにして、今ぞ悔しき(四五)
                                      ・剣池、百済池も造る。      
                                      ・阿知吉師、和邇吉師も各種文物と共に渡来し、知識奔流の第一期となった。
     ・仁徳天皇段:秦人を役ちて、茨田堤また茨田三宅を作り、丸邇池・依網池を作り、また、難波の堀江を掘

                               りて海を通はし、小椅江を掘り、墨江の津を定めたまいき。
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<3-2>  アナロジー依網池

  和邇池の情報が少ないのに対して、依網池は比較的情報に恵まれています。
     引用:依網氏一族は、摂津国住吉郡に大依羅郷を、河内国丹比郡に依羅郷を、夫々開拓し、勢力圏を形成し、

                  依網池の開拓、依網屯倉を管理するなどの土木事業の実績を挙げ、大和朝廷へ貢献した事実は否めません。                       ・しかも、その勢力圏には「八十島祭」を抱えて、朝廷の神祭にも深く関わっています。
                ・依網(依羅)氏の祖は「扶余・依羅王」であるかも知れないの
                                                                                                          (出所) 依網氏論4   依網氏の祖を探る 2019年09月16日


  この依網池の事例を参考にして「和邇池」を考察して見ます。
  1 依網池は依網氏に通じ、和邇池は和邇氏に通じると読めます。
  2 和邇池は、その所在が不明ですが、和邇氏がその支配領域内に造成した池でしょう。
    注 粟ヶ池(大阪府富田林市粟ヶ池町)は、記紀記載の、仁徳期の丸邇池(古事記)・和珥池(日本書紀)に

        比定されることが多いと云うが、確証はないようです。 参照:ウイキペディア「和邇池」
    3 「古事記」も「日本書紀」も崇神朝に依網池を造り、仁徳朝に和珥池を造ったとします。
    4 そこで、「アナロジー和邇池」は次の様になります。
  ・依網吾彦男垂見は、神功皇后の韓半島親征に際して、大貢献し、住吉神を祀り、海路の安全

             を祈り、海船造りに関わり、住吉大社の創建には鎮座地を提供し、祭祀を司るなど、様々に

              貢献した人です。
  ・依網池は河内国住吉郡依網郷にあり、住吉大社の創建に関わる、依網氏の池です。
        参考:依網氏論1 「田裳見宿禰は依網吾彦男垂見である」説 2019年08月31日
           依網氏論2 津守氏祖に関わる諸伝承の吟味      2019年09月01日
                                   依網氏論3 大依羅神社の謎              2019年09月09日
                                          依網氏論4 依網氏の祖を探る                                                   2019年09月16日
                     依網氏論5 建豊波豆羅和気王の謎           2019年09月30日

  ・依網池は,少なくとも、応神朝には出来上がっていた節があります。
           ・応神天皇が髪長比賣への返歌に「水溜る 依網池の・・」(図表4)とあるので、少なくとも応神朝には

       依網池はあったのです。
                ・これは、「日本書紀」が「崇神天皇62年冬十月に依網池を造った。」とする伝えと符牒があっています。

                          ・だが、神功皇后摂政期はその後ですから、年代的に合致しません。 
    ・和邇池は依網池と同様な大型事案だとして、しかもそれが富田林市の粟ヶ池だとすると、

            大和盆地の外になり、そこが和邇領域だとすれば、可成り広い和邇地を推定させるのです。

   ・この場合、和邇下神社のある大和国添下郡周辺を和邇地とする想定は大幅修正が要ります。
   ・このアナロジーは諸処で綻びます。
   ・だが、依網池と和邇池との比較はアナロジーとして和邇氏の強大を依網氏のそれと比べられ  

    るのではないか、と云う淡い期待を抱かせるのです。
 そう云う推理で良いのか。「和邇氏の謎」の一つがここにあります。
 重要な事は「和邇」の名を冠した池の造成が記されている事実が和邇氏の強大を示唆するのです。
 
 (2)  和珥女性の入内300年間を三期に分けて見る(後編) 

<1>  5~6世紀の和邇・春日女性の入内

     確かに「3世紀の欠史八代」の時代は「春日氏」からの入内が目立ちます。
 だが、4世紀になり、応神朝には「春日氏」は登場せず、「和珥氏」となるのです。

 天皇家への入内は、この後、5世紀の応神朝から、反正・雄略・仁賢・武烈・継体(安閑・宣化)の各朝を経て、6世紀の欽明・敏達朝(ここではまたしても春日女性たち)に及びます。
 そして、敏達朝以後、和邇春日の入内はなくなります。

     図表3に「5~6世紀の和邇氏女性の天皇家への入内」を総括し、図表4にはそれを系図化して示します。  確かに「3世紀の欠史八代」の時代は「春日氏」からの入内が目立ちます。
 4世紀になると、応神朝には「春日氏」は登場せず、「和珥氏」となるのです。

 そして、5世紀は「和珥氏」と「春日氏」が混じって顕れます。

 

 

 

  これらの二図表を次に解説します。

<2> 応神~雄略朝の和珥女性の入内

    初めは応神朝です。
 応神天皇は和珥臣祖・日觸使主の二姉妹(宮主宅媛・小甂媛)を娶り、妃としたのです。

 [五世紀]
  1 五世紀の「和邇女性の入内」の最大の特徴は「春日臣」の女性ではなく、「和珥臣」の    

   女性が入内している事です。複姓の「和邇春日臣」もいる事も留意します。
  2     天皇の世代別に見ると、略、毎世代に和邇・春日氏女性が入内しています。
      系図の示しはやや表現が誤解を招きかねませんので、再掲をいとわず。次を示します。
                 <世代1>応神天皇妃・宮主宅媛&小甂媛の二姉妹は和珥臣祖・日觸使主の女です。
                 <世代3>反正天皇妃・和珥津野媛&和珥弟媛の二姉妹は和珥氏の出身ですが、大宅臣祖・和珥木事女だと
                 <世代4>雄略天皇妃・童女君は春日和珥臣深目の女です。複姓である点を留意します。
             <世代5>仁賢天皇妃・后・春日大娘皇女  ・妃・糠君娘は和珥臣日爪の女
                 <世代6>・25武烈天皇:后・春日娘子


  「和邇・春日系女性を娶る天皇家」という視点からは、応神天皇妃・和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛とその妹・小甂媛の入内は、開化天皇妃・意祁都比売命(和珥臣祖・日子国意祁都命の妹)以来、実に百年ぶりです。

     五百城入彦皇子(父・景行天皇と母・八坂入媛命)の子・品陀真若王の三女(高城入姫・仲姫・弟姫)が応神天皇の后妃となっています。・仲姫命の父)

   「古事記」によれば、和珥氏の遠祖・和邇日子押人命の娘であり、兄弟には彦国葺命の父・彦国姥津命や許々止呂命、向日娘命がいるとされ、日子坐王の妃となり、山代之大筒木真若王や比古須泥王、伊理泥王を生んだとされます。

 仁賢天皇は、石上広高宮(奈良県天理市)にて天下を治められました。
 仁賢皇后・春日大郎女は、雄略天皇の皇女で、その母は春日和珥臣深目の女・童女君ですから、春日和邇系の人と云えます。
 仁賢天皇と春日大郎女との間に生まれた子・小長谷若雀命が第25代・武烈天皇となります。
 だが、武烈天皇の皇后は春日娘子としか伝わらず、詳細は不明ですが、春日系である事はその名前が示しています。

  図表5        5世紀の和邇氏の天皇家への入内
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・応神朝・2年春3月3日、
        ・皇后・仲姫、荒田皇女、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)、根鳥皇子を生む。
       ・妃・高城入姫(皇后の姉)  生・額田大中彦皇子、大山守皇子、去来真稚皇子、大原皇女、澇来田皇女
         ・妃・弟姫  (皇后の妹)                   生・阿倍皇女、淡路御原皇女、紀之蒐野皇女
         ・妃・宮主宅媛(和珥臣祖・日触使主の娘) 生・蒐道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女
           ・妃・小甌媛(宅姫の妹)     生・蒐道稚郎姫皇女
                 ・妃・河派仲彥女弟媛、                        生・稚野毛二派皇子。派、此云摩多。
         ・妃・櫻井田部連男鉏之妹糸媛、            生・隼總別皇子。
       ・妃・日向泉長媛、                              生・大葉枝皇子・小葉枝皇子(深河別之始祖)
・反正朝:瑞歯別天皇は履中天皇の同母弟。履中天皇の二年、皇太子となる。
     天皇は淡路島で生れ、多遅比瑞歯別皇子とも云い、6年春3月、履中天皇が亡くなられた。
          ・反正天皇元年春1月2日、瑞歯別皇子が天皇に即位された。
      ・秋8月6日、大宅臣祖・木事の娘・津野媛を皇夫人とされた。子:香火姫皇女、円皇女
             妃・弟媛(夫人の妹)は財皇女と高部皇子を生む。
・雄略朝:童女君(春日和珥臣深目女)を妃とし、春日大郎女を生む。
・仁賢朝:春日大郎女は仁賢帝の皇后となり、仁賢帝は別に、和珥糠君娘も妃とする。
     仁賢帝と春日大郎女の二皇女の内、春日山田皇女は第27代・安閑天皇の皇后に、橘仲皇女は第28代・

               宣化天皇の皇后となる。
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<3>   継体~敏達朝の春日和珥女性の入内

 武烈天皇に皇子はなく、天皇家の家系は、一端、25代で途絶えるのですが、遠戚を探して、継体天皇が26代天皇となります。

  すると、継体天皇は、皇位継承の正当性を高める為、前王朝の皇女・手白香皇女を皇后に迎え、二人の間に生まれた皇子を欽明天皇とします。

 [六世紀]
  1 六世紀の「和邇女性の入内」の最大の特徴も、「春日臣」の女性の入内ではなく、

          「和珥臣」の女性が入内している事です。複姓の「和邇春日臣」もいる事も注目です。
      <世代7>・・26継体天皇・后・手白香皇女、     妃・和珥荑媛は和珥臣河内の女
         ・27安閑天皇・后・春日山田皇女
                     ・29欽明天皇・后・石姫皇女、     ・妃・糠子は春日日抓臣の女
                   ・30敏達天皇・妃・老女子は春日臣仲君の女


  ここで、重複を恐れず、6世紀の和邇女性の入内を図表6に分割再掲します。

 

 

  これで、本報を締めて、次報は「和珥12 忍熊王戦後の建振熊命一族、または、特論 忍熊王の敗戦はどのように領国を塗り替えたか」(仮題)とします。