これは将来に予定している「和邇氏略史」の前段階になります。次の三要点にご留意下さい。
・第一に、断片的に集めた資料から、ワニ氏諸族の活動時期を一表にまとめて全体像を確認すること、
・第二に、和邇諸族別の女性たちの天皇家への入内も一表にまとめ歴史推移の中での登場状況を確認すること、
・第三に、開化天皇は和珥氏祖・彦国姥津命の妹・姥津媛を娶ったこと、
目次(1) 和珥氏略史のための予備年表
<1> 和珥氏諸族の活動時期
<2> 大和国の俯瞰・・春日の地は何処いずこ
(2) 和珥女性の入内300年間を三期に分けて見る(前編)
<1> 天皇の后妃となった和珥系諸族の女性たち
<2> 「欠史八代」期の春日女性の入内
(3) 日子坐王は和邇氏女系裔
<1> 開化天皇は和珥氏祖・彦国姥津命の妹・姥津媛との間に日子坐王を生む
<2> 開化天皇の別妃・沙本之大闇見戸売は春日建国勝戸売の女
(1) 和珥氏略史のための予備年表
<1> 和珥氏諸族の活動時期
図表1は、これまでの検出した「主要な和珥氏人を所属氏族別にどの時代に活動したか」を眺望します。これは、「和珥氏諸族の活動時期」について、現在の調査レベルでの総括です。
悉皆的、且つ、網羅的ではありませんが、代表例を用いているので、全体の流れを把握していると確信して、完成は目指さず、このままで終えます。
一番上には3世紀から10世紀までの区画あり、夫々の世紀区画に歴代天皇を記しています。
縦欄には、和珥氏祖・和珥氏と [基幹和珥七氏](春日臣・小野臣・粟田臣・羽栗臣・大宅臣・柿本臣・壱比韋臣)を配し、[基幹和珥七氏]に属する著名人を、時代区分別に記してあります。
但し、悉皆的ではありません。
この図表1は次の事を示します。
1 基幹和珥七氏は、5~6世紀に登場し始めること、
2 盛んに登場するのは7~9世紀ですが、
3 その姿は10世紀には見られなくなります。
この図表1を上から順に読んで行きます。
1和珥氏祖(天押帯日子命・彦国姥津命・和邇日子押人命・彦国葺命・難波根子建振熊命)は本ブログ「和珥」
編の主対象ですが、その検討は「和珥略史」(後報)に譲ります。
・5~6世紀については、記紀伝承のみでは明確ではなく、後の系図分析により推定します。
・日子坐王は開化天皇と和珥・意祁都比売命の皇子で、叔母・和珥邇袁祁都比売命をも娶り、
和珥を名乗らないが、和珥と密接だと判断します。
だが、日子坐王は図表1には入れず、参考図表に独立してご案内します。
2 3~4世紀に天皇家入内の記紀伝承を持つ春日和邇系女性につては図表2で取扱います。
3 基幹和珥七氏の内、
・春日氏は、天皇系に入内した女性の関係者のみを図表1の春日&和邇の欄に記しました。
・大春日朝臣は春日氏の後継者と見られます。春日氏の中に入れるべきかも知れません。
ここでは図表1の最後に記しています。
・天皇家に入内した和珥系女性については、次の図表2で取扱います。
・基幹和珥七氏の内、柿本氏の枠を設けませんでした。
唯一著名な柿本人麻呂をこの図表1に入れるとすれば、飛鳥時代(7~8世紀)の枠内でしょう。
4 記紀及びその続紀の伝承に基づく限り、和珥氏系の小野・粟田・葉栗・大宅・櫟井の各氏の名前
を7・8・9の三世紀に亘り確認します。
・これらは既にこれまでの本ブログで報告済みです。
参照:和珥5 基幹和珥七氏その1 春日氏 2025年01月18日
和珥6 基幹和珥七氏その2 大春日朝臣 01月21日
和珥7 基幹和珥七氏その3 小野氏 02月03日
和珥8 基幹和珥七氏その4 粟田氏&羽栗氏 02月11日
和珥9 基幹和珥七氏その5 大宅氏・櫟井氏・柿下氏 02月20日
・3~6世紀に和珥氏諸族が登場しないのではなく、
・その名前の記述が遺されていない、亦、当ブログが捉えていない可能性があります。
・これは、次の和珥氏系后妃リストにある出自説明情報が補っくれる事になります。
<2> 大和国の俯瞰・・「春日和珥の地」は何処いずこ
もう一つ、事前に把握すべきは「春日和邇の地」があったと云う「大和国」の全体地勢です。
ここでは、春日和珥氏の動向に影響・関係ありと見る式内社を中心に、宮殿・古墳・神山などを「図表2大和国の俯瞰」の中に図示し、後報での考察の準備とします。
図表2を地区別に説明すると、次の通です。
A春日地区:ここは「春日の地」(狭義)です。
今は、春日大社・宅春日神社・本宮神社あり、春日地区は中臣・藤原氏に乗取られた
憾がある地域です。
・赤⛩二社は添御県坐神社です。古代の添下郡(和名類聚抄930年代)に春日郷・大宅郷
が記されてあり、式内・春日神社と共に、春日氏の残影を見ます。
・率川神社の奉斎は注目されます。
率川神社(奈良市本子守町18)式内社(小)・大神神社境外摂社
祭神:媛蹈韛五十鈴姫命 、狭井大神(御父神)・玉櫛姫命(御母神)
由緒:593・推古天皇元年2月3日、大三輪君白堤が勅命により神武天皇皇后・媛蹈韛五十鈴
姫命を祭神として奉斎した。
・ 天皇は本殿右殿に媛蹈韛五十鈴姫命の父神・狭井大神を、左殿に母神・玉櫛姫命が祀ら された。本殿の様式:一間社春日造
・注目は、この地は大神神社や三輪山から16km離れた地なのに、態々、ここに大物
主神や事代主神を祀ったのは何故か、と云う問いに対する説明がないのです。
狭井大神は大物主命・大三輪神のことです。神武天皇の岳父、綏靖天皇の外祖父と
され、三輪氏祖神です。
・表記:「古事記」は坐御諸山上神、美和之大物主神、意富美和之大神とも記す。
「日本書紀」は大三輪之神、大三輪神とも記し、大己貴神の幸魂奇魂とする。
・境内の式内・率川阿波神社は事代主神はを祀ります。
・注目の理由は「当初から大神祭祀は三輪山から春日地区まで及んでいたのか」それとも
「歴史推移の中で大神祭祀が春日地区へ北上したのか」です。
・春日率川宮(春日伊邪河宮・率川神社境内)は第9代・開化天皇(稚日本根子彦大日日天皇)の宮居です。
開化天皇は欠史八代の最後の天皇で、その后妃には和邇系の女性が入っていますの
で、春日地での宮居には道理があるのです。
・次に別項「日子坐王は和邇氏女系裔」を立てました。日子坐王は開化天皇の皇子です。ご参照下さい。
B 和邇珥地区:ここは「和邇町」が現存し、「和爾坐赤阪比古神社・和爾下神社二社・和邇坂伝承
地」がありますから、「和邇地」と云える地域です。
・赤⛩二社は山邊御縣坐神社です。
・石上神宮は「布留宿祢」(和邇市河臣命裔)が神主を務め、和邇氏縁の神社です。
・崇神朝:石上神宮奉斎の時、市川臣は神主として物部氏に協力し、裔孫はこの石上神宮の神職を継ぐ。
・天武朝:社地名に因み布留宿祢と名付けた。
・斉明朝:宗我蝦夷大臣が武蔵臣を物部首・神主首と名付く。
C崇神・景行陵:特記ナシ
D磯城地区:三輪地区とも云うべく、磯城と三輪は実質的に重なっています。
・三輪山は、神奈備として三輪明神 大神神社、大直禰子神社・神坐日向神社を囲繞させ
ています。
・赤⛩三社(志貴御縣坐神社・十市御縣坐神社・高市御県神社)は「大和国御県六社」(久米御県神社を加えれば、
七社)の主流です。
・「十市県主家は春日県主家の後継氏族」説があります。
・ネット上の「十市県主今西家の歴史:原住豪族 磯城彦 十市県主 志操のあゆみ」は示唆が多いです。
・「和州五郡神社記」には「孝昭天皇御世春日県改名云、十市県、詔五十坂彦為県主」とあり、その儘
受け入れれば、これは孝昭朝の政治変革を推定させます。後に寸考します。
・「古事記」によれば、第七代・孝霊天皇皇后の十市県主の祖・大目の娘・細比売命が第八代・孝元
天皇を生みます。
・他方、「磯城県主家の娘・細媛命」とする「日本書紀」の表記は、十市県主=磯城県主となり、
・これは両県主家の近親性故に、混同表記してしまった故だろうと思われます。
・十市県主の本拠地は、大和国十市郡の式内社・十市御県坐神社の鎮座地(奈良県橿原市十市町)とされ、
一帯は、多氏の本拠地とも重なります。
・故に、太田亮先生は「十市県主は磯城県主から分れた」(姓氏家系大辞典)と記すのです。
・これら諸説を総合すると、「十市県主家は磯城県主家と同祖であり、春日県主家の
後継氏族」説が成り立ちそうです。
磯城地区はそう云う想定を内含する地域なのです。
E葛城地区:初期の天皇達の宮居は葛城地区に頻見します。今、この地区は調べを進めません。
・初代 ・神武天皇・橿原神宮
・第2代・綏靖天皇・高丘宮跡
・第5代・孝昭天皇・掖上池心宮跡
・第6代・孝安天皇・室秋津島宮址
・第8代・孝元天皇・軽境原宮趾
・葛城地区は剣根命が国造に任命され、祖神を祀った地域です。
そこには事代主命を巡る親族集団の祭祀社が群を成す、と云う特徴があります。
参照:弥生神代考4「宗像女神は高皇産霊命の女」説は謎を解く
(はじめに) 神代・神道の謎 2017年11月25日
(その1) 事代主神の系譜 2017年11月25日
(その2) 「宮中八神殿」に事代主命が祀られている理由 2017年11月25日
(その3) 葛城に出雲神が高皇産霊神と共祀されている理由 2017年11月26日
(その3・続き)葛城に出雲神族が高皇産霊神と共祀の理由 2017年11月26日
(その4) 葛木氏祖:剣根命の系譜 2017年12月03日
──────────────────────────────────────────
(2) 和珥女性の入内300年間を三期に分けて見る(前編)
<1> 天皇の后妃となった和珥系諸族の女性たち
・天皇后妃となった和珥諸族の女性たちは図表3で赤字で示します。
・これら后妃は、春日氏及び和邇和珥氏から出ています。
・その入内の初めは綏靖天皇妃となった春日縣主・大日諸の娘・糸織媛です。
・和珥氏系氏族からの入内は敏達天皇の妃となった 春日老女子を最後に途絶えます。
図表3では、和珥・春日氏の女性達の天皇家入内は3世紀に始まり、6世紀に終わっています。
ところが、本ブログの最初二ご紹介した 図表1では、基幹和珥氏の活躍は大凡7世紀に始まり、10世紀に終わる事を示しています。春日・和珥系の女性の入内の世紀が終わる頃、春日・和邇の氏人たちは朝廷で活躍し始めたのです。
興味深い入れ替わりをここに観察します。
図表3の観察事項は次の通りです。
・天皇家への和邇和珥氏女性の入内は3世紀に始まります。
・春日県主の女・糸織媛が第二代綏靖天皇の妃となったのが肇めです。
・欠史八代は春日・和邇の女性たちの入内
・天皇家への和邇氏和珥女性の入内は6世紀で終わります。
・第30代敏達天皇妃・春日老女子
・その間、約300年(260~572)間、春日・和邇氏から8皇后・11妃が天皇家に入内したのです。
そこで、和珥女性の入内300年間を次の三期に分けて見ることにします。
Ⅰ 3世紀(天皇家の初期)
Ⅱ 5世紀(応神天皇~) 応神朝は5世紀初めとしますが、正確には4世紀末からかも知れません。
Ⅲ 6世紀(継体天皇~) 継体朝は6世紀初めとしますが、正確には5世紀末からかも知れません。
図表4は「春日和珥系女性の天皇家入内リスト」です。収載漏れがあるかも知れません。
<2> 「欠史八代」期の春日女性の入内
三世紀、天皇家へ入内した最初の和珥系女性・絲織媛は春日県主・大日諸の娘だと「綏靖天皇紀」は伝えます。しかし、そこに「和珥」はなく「春日」があるのみです。留意します。
この大日諸は、神八井耳命が神籬・多神社を奉斎する時、祝として奉仕しています。
・神八井耳命は綏靖天皇二年春、春日縣(後の十市縣)に大宅を造り、神籬磐境を立て、自ら皇祖天神の「主神事之
典」り、縣主の遠祖大日諸神を祝として奉仕せしめられたといふ。
(出所)「多神宮注進状草案」、「式内社調査報告」
神武天皇皇子・神八井耳命(多氏)は多坐弥志理都比古神社を氏神として奉斎した時、その領域を支配していた春日県主は「祝」役を演じているのです。
二者の関係を見ると、多氏(神八井耳命)の地位は春日県主よりも上位にあったと思われます。
・多坐弥志理都比古神社(磯城郡田原本町多:大和国十市郡多村・「和名抄」の飯富郷)
尚、「古事記」は「師木県主祖・河俣毘賣が綏靖天皇に娶られて安寧天皇を生んだ」と伝えます。これは「日本書紀」の安寧天皇紀「五十鈴依媛爲皇后。一書云、磯城縣主女川派媛。一書云、春日縣主大日諸女絲織媛也。卽天皇之姨也、后生磯城津彥玉手看天皇。」とは異なります。
上古の時代の伝承は不確かで、異説あり、混同あり、伝承ズレあり、部分伝承のみで全体像を伝えない場合あり、です。それを踏まえた上で、古代を眺望するのです。
亦、ここで二つの問題に直面していますが、これはそのままにして先に行きます。
第一は「春日県」或いは「春日」の所在論です。これは「和邇氏略史」の基幹的な問題ですので、別に取上げます。
第二は記紀の伝承間にも大幅なに相違がある事です。欠史八代の事ゆえ、遺伝がぼけているのです。
<2-1> 「十市県主系図」・・『和州五郡神社神名帳大略注解』巻4補闕所収
大いなる救いは、1446・文安3年に成立したと云う「和州五郡神社神名帳大略注解」です。
その巻4補闕所収の「十市県主系図」は「十市県主の始祖は事代主神だった」と云います。
「十市県主系図」を宮内庁書陵部(ネット上)から借用し「参考図表」としてご紹介します。
これを書き改めて当ブログ風に系譜化したのが図表5です。
図表5の右欄には、上の「十市県主系図」に幾つかの情報を追加してあります。ご参照、ご吟
味をお願いします。
十市県主は「倭国六県」の一つ・十市県(大和国十市郡)を本拠地とした氏族と考えられています。
この「和州五郡神社神名帳大略注解(巻4補闕所収)」の「十市県主系図」によれば、十市県主の始祖は事代主神、その子は鴨主命亦曰天日方命です。「山辺の道」は地祇氏族の居住地なのです。
鴨主命を鴨王に換えれば、凡そ「日本書紀」の内容と同じです。
但し、「日本書紀」と「十市県主系図」とは異なる点があります。
「十市県主系図」の場合、春日県主の肩書き名称は、初代・大日諸だけではなく、その子・大間宿祢、孫・春日日古、曽孫・豊秋狭太彦まで引継がれていることです。
玄孫やしゃご五十坂彦の代に至り、春日県主から十市県主に名称は改められ、五十坂彦は十市県主になったと云います。この場合、それが孝昭天皇の御代だと云う点が重要です。
「和珥論」は孝昭朝に始まっているのですが、「春日論」はそれより先に展開しているのです。
参照:日本書紀・孝昭天皇(觀松彥香殖稻天皇)
六十八年春正月丁亥朔庚子、立日本足彥國押人尊、皇太子、年廿。天足彥國押人命、此和珥臣等始祖也
亦、「日本書紀」が記さなかった事を「十市県主系図」は記しています。
「日本書紀」は「天足彥國押人命、此和珥臣等始祖」と記しますが、「十市県主系図」には「和珥臣・和邇氏」を記しません。これは和珥氏が春日・十市県主氏とは違う系統であることを示唆している様に思われます。後に「和邇氏略史」で再検討します。
さて、情報の突合わせにより情報量は増え、孝昭朝の重要性が一段と明らかとなりました。
「孝昭朝」に大きな政治変革があり、春日県は十市県となり、孝昭帝の二皇子の内、天足彥國押人命が和珥臣の始祖となった、と云う伝承が生まれたのです。
それと同時に、「春日」と「和珥」とを混同してはならず、基本は別物と見るべきだとする見解
が強まります。 次の参考図表「開化天皇皇子・日子坐王の和邇氏関係略系図」は春日大日諸が孝昭朝の天足彦国押人命より先で、或いは、開化朝の丸邇臣祖の日子国意祁都命より先だという点を明示しています。
(3) 日子坐王は和邇氏女系裔
ここで、「欠史八代」における春日女性の入内史の最後に、「開化天皇の皇子・日子坐王は和邇氏女系裔」を若干説明します。
そこでは近江国とその周辺での「和邇氏・日子坐末裔諸氏」の活動を捉えられる筈です。
「日子坐王」論は次報・「和珥12 日子坐王」で取上げますので、ここでは日子坐王と和邇氏との関わりを参考図に示して、寸言を添えるに留めます。それは次報の予告でもあります。
<1> 開化天皇は和邇氏祖・彦国姥津命の妹姥津媛との間に日子彦坐王を生む
彦国姥津命・彦国葺命は和邇氏祖とされています。
それ故に、日子坐王は、次の二事由により和邇氏の女系裔だと云えるのです。
・開化天皇紀:開化天皇と和珥臣遠祖の姥津命の妹の姥津媛との間に彦坐王が生まれたとします。
・開化天皇記:日子坐王は開化天皇と丸邇臣祖の日子国意祁都命妹・意祁都比売命との第三皇子
とされています。
姉・姥津媛は日子坐王の母で、古事記では、和邇・意祁都比売命の表記となっています。その兄は、丸邇臣(和珥臣)祖の日子国意祁都命であり、妹・袁祁都比売命は日子坐王の妻となります。
この一男二女(日子国意祁都命・意祁都比売命・袁祁都比売命)の親の名は記紀にはなく、別に、「和邇日子押人命」とする情報があり、ここでは未検討の侭、暫定的に系図に入れています。
この参考図表の見方を解説します。
・左上に[欠史八代]における春日系女性の入内状況を示し、
・左・中程に[開化天皇・日子坐王]の系図を示し、
・右には孝昭朝における[和邇]氏の登場とその略系図を示します。
参考図表で明確に読取れる事は次の通りです。
・欠史八代の天皇は「春日県主(倭・十市を含む)」の女性を娶っています。
・だが、懿徳天皇と孝元天皇は春日系女性を娶りませんでした。
・懿徳朝の次の孝昭朝には政事上大変化が起きています。
・第一:春日県主は十市県主と改名したとの伝承が伝わります。
・第二:「倭国」の豊秋狭太媛(亦は、彦)が登場し、春日系だとされます。
・「倭国」は孝霊帝に入内の女性たちのアタマにも付けられています。
・「倭真舌媛」(十市県主系図)は「十市県主等祖女真舌媛」(孝霊紀)とあり、倭は十市県と
重複乃至類同が見られます。
これは春日県の領域が拡大し、十市県・倭国等は分割された事を示唆します。
・第三:記紀は孝昭帝の二皇子の内、天帯彦国押人命は丸邇臣祖=和珥臣遠祖とします。
ここで、和邇氏が明確に春日氏から分化し、歴史に登場した、と読みます。
・孝元朝でも春日系女性の入内が途切れます。
この天皇は「武内宿祢とその一族」を生み出す大元となるのですが、論は展開しません。
・欠史八代最後の天皇・第9代開化天皇と子・日子坐王が娶ったのは和邇氏でした。
即ち、開化天皇は意祁都比売命、皇子・日子坐王は袁祁都比売命を娶ったのです。
<2> 開化天皇の別妃・沙本之大闇見戸売は春日建国勝戸売の女
開化天皇の別妃・沙本之大闇見戸売は 春日建国勝戸売の女と伝わりますので、断定はできませんが、その「春日」が春日和邇氏系を指している可能性が大なのです。
・沙本は佐保と同音ですので、添上郡春日郷・大宅郷の北の佐保丘陵を指すと考えると、それは
春日和邇と地理的に近接しています。或は、この佐保丘陵は春日の域内なのかも知れません。
「春日建国勝戸売の女」が沙本(佐保丘陵)に住んでいたとの推定が許されると、「沙本之大闇見戸
売は春日系女性」説は有力となります。
参考:彦坐王の四妃の内、春日系二妃を赤字で示します。
・妃:山代之荏名津比売(苅幡戸辨) - 山代県主祖の長溝命の女
・妃:沙本之大闇見戸売 - 春日建国勝戸売の女
・妃:息長水依比売命 - 天之御影神の女
・妃:袁祁都比売命 - 彦坐王の母の意祁都比売命の妹
こうして「欠史八代」の最後の開化天皇に至って、春日・和邇系女性の天皇家入内に変化が現れたのです。これまでは春日系の女性だったのですが、ここに至って、正皇后・意祁都比売命を和珥臣系から迎えたのです。
開化天皇の別妃・沙本之大闇見戸売は 春日建国勝戸売の女と伝わり、「春日」は遺っています。だが、「和邇」が登場したのです。
ここで、突然ですが、中途の侭、本ブログは終わります。
残り「応神朝~敏達朝」における春日・和邇系女性の天皇家入内は続報に委ねます。
尚、「日子坐王」論は次報・「和珥11 日子坐王」で取上げます。
そこでは、近江国とその周辺国での「和邇氏・日子坐王の末裔諸氏」の活動を捉える予定です。






