欠史八代後期2 孝霊天皇の御世(1)
孝霊天皇の御世は二つに別けてご案内します。目次 (1) 孝霊天皇の系譜 <1> 孝霊天皇の后妃 <2> 孝霊天皇に関する古史料の記述に相違あり (2) 伯耆国における孝霊天皇所縁の伝承 <1> 孝霊天皇一族の祭祀・・日野郡を中心とする分布 <2> 楽楽福伝承 <2-1> 孝霊天皇の幼名・・樂樂清有彦命 <2-2> 細媛命の御所 ・・「宮内の里」 <2-3> 福媛命伝承 <3> 嫐打(うわなりうち)神事 ・・上杉神社の伝承 <4> 鬼退治伝承 ・・ 孝霊天皇・大矢口宿祢・鬼伝説・伯耆溝口 (3) 「孝霊天皇の御世」の実在性(1) 孝霊天皇の系譜<1> 孝霊天皇の皇子達 先ず、記紀の伝える「孝霊天皇の系譜」の基本に抑えます。 図表1は「日本書紀」・「古事記」・「天皇本紀(先代旧事本紀)」の三者の比較です。 これは、飽く迄、参考です。今はことある毎に、ここに立ち返って考察します。 図表1 第七代孝霊天皇の御世・・古事記・日本書紀・天皇本紀──────────────────────────────────────────[古事記] 大倭根子日子賦斗邇命は黒田廬戸宮で天下を治めた。 1 十市県主の祖・大目の娘・細比売を妻に御子・大倭根子日子国玖琉命を得た。 2 春日千千速真若比売を妻に御子・千千速比売を得た。 3 意富夜麻登玖邇阿礼比売命を妻に御子・夜麻登母々曾毘売命、次に日子刺肩別命、 次に比子伊佐勢理毘古命(亦名は大吉備津日子命)、次に倭飛羽矢若屋比売の四柱を得た。 4 阿礼比売命の妹・蝿伊呂杼を妻に御子・日子寤間命、次に若日子建吉備津日子命の二 柱を得た。 ・この天皇の御子たちは合わせて八柱で、皇子五柱、皇女三柱である。 ① 大倭根子日子国玖琉が天下を治めた。 ② 大吉備津日子と若建吉備津日子は、二柱とも播磨氷河の埼に斎瓮を据えて神祭し、 播磨国を入口として、吉備国を平定した。大吉備津日子は、吉備の上道臣の祖。 ③ 若日子建吉備津日子は吉備の下道臣、笠臣の祖。 ④ 日子寤間は、播磨牛鹿臣の祖。 ⑤ 日子刺肩別は、越国利波臣、豊国国前臣、五百原君、角鹿済直の祖。 ・天皇の御年は百六歳。御陵は片岡馬坂上にある。──────────────────────────────────────────[日本書紀]大日本根子彦太瓊天皇は孝安天皇の太子で、母は押媛(天足彦国押人命の娘)とされる。 天皇は孝安天皇七十六年春一月、皇太子となられた。 百二年春一月、孝安天皇は亡くなられた。 秋九月十三日、孝安天皇を玉手丘上陵に葬る。 冬十二月四日、皇太子は都を黒田廬戸宮遷した。 孝霊天皇元年春一月十二日、即位、先皇后を尊んで太后とす。この年、太歳辛未。 二年春二月十一日、細媛命を皇后とし、大日本根子彦国牽天皇(孝元天皇)を得た。 妃・倭国香媛は倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命、倭迹迹稚屋姫命を生む。 妃・絚某弟は、彦狭島命、稚武彦命(吉備臣の祖)を生む。 三十六年春一月一日、彦国牽尊を皇太子とす。 七十六年春二月八日、天皇は亡くなられた。──────────────────────────────────────────[天皇本紀]孝霊天皇:諱は大日本根子彦太瓊尊。孝安天皇の皇太子で母は皇后・押媛命と申上げる ・治世元年・癸未年の春正月、皇太子は天皇に即位、先皇后を皇太后とされた ・二年二月、細媛命を皇后とされた。 皇后は、一皇子・大日本根子彦国牽皇子命(孝元天皇)を生む。 妃・倭国香媛(亦名・紐某姉)は三御子(倭迹迹日百襲姫命、次に彦五十狭芹彦命[亦名・吉備津彦命]、 次に倭迹稚屋姫命)を生む。 次妃・紐某弟は四御子(彦狭嶋命、次に稚武彦命、次に弟稚武彦命)を生む。 ・三年春正月、宇摩志麻治命の子孫の、大水口命と大矢口命を共に宿祢とされた。 ・二十六年春正月、彦国牽皇子を立てて、皇太子とされた。[太子の年は十九歳] ・七十六年春二月、天皇は崩御された。 ・次の天皇の治世四年に、片岡馬坂陵に葬った。 天皇は、五皇子をえた。 ① 大日本根子彦国牽尊=孝元天皇 ② 彦五十狭芹彦命[亦名・吉備津彦命。吉備臣らの祖] ③ 次に、彦狭嶋命[海直らの祖] ④ 次に、稚武彦命[宇自可臣らの祖・・牛鹿は宇自可・宇自賀・宇自加とも書く] ⑤ 次に、弟稚武彦命。────────────────────────────────────────── この図表1に若干のコメントがあるべきかも知れません。 次に述べます。<1> 孝霊天皇の后妃1 孝霊天皇の皇后・細媛命は、「古事記」によれば、十市県主祖・大目の女だとされています。 即位2年、磯城県主(亦は十市県主)大目の娘・細媛命を皇后とし、彦国牽尊(第八代孝元天皇)が生まれ た、と云います。2「古事記」は春日千乳早山香媛を妃にした、とも記しますが、これは「古事記」だけです。3 淡路島の御井宮で、安寧帝皇子・磯城津彦の許で育ったと思われるのがその娘二人(倭国香媛とその 妹・紐某弟)です。 ・倭国香媛は彦五十狭芹彦命と倭迹迹日百襲姫命を生みます。 ・彦五十狭芹彦命は吉備津彦命とも云われ、崇神朝(御間城天皇の御世)、四道将軍となったと 「日本書紀」は伝えます。 ・倭迹迹日百襲姫命は疫病や反乱を治めるのに重要な役割を果たした、と云います。 ・この倭国香媛とその妹は、特に、第三回の別報でも考察しますので、ここは簡略に述べます。 ・注目点の一は、この姉妹は淡路島育ちと考えられ、大和生れの皇后・細媛命とは対照的です。 しかも、この姉妹の子達は、伯耆国日野郡の賊退治に活躍し、吉備国平定後に「吉備津彦」の 名を遺しているのです。伯耆・吉備・淡路に股がる生涯を推測させます。 ・一つの可能性は、孝霊天皇は即位前に倭国香媛姉妹を娶り、既に皇子が生まれおり、即位後、 皇后・細媛命を娶り、後の孝元天皇を生んだ、とする家族形成順序です。 この推測は後に「孝霊朝推史」で援用する事になるでしょう。<2> 孝霊天皇に関する古史料の記述に相違あり 「日本書紀」、「古事記」と「天皇本紀」(先代旧事本紀)とでは記述に違いがありますので、注意すべき参考事項として図表2に載せます。 名を表現する為に用いる漢字は異なるものの表音法ですから、通例に従い「同じ」と判断します。 ・大日本根子彦国牽= 大倭根子日子国玖琉命 ・彦五十狭芹彦命 = 比子伊佐勢理毘古命 ・彦狭島命 = 日子寤間命 ・稚武彦命 = 若日子建吉備津日子命 省略法もあります。 ・「意富夜麻登玖邇阿礼比売命」(記)は「倭国香媛」(紀・本紀)と同じです。 ・絚某弟=蝿伊呂杼で、倭国香媛の妹です。 亦、次の四点に違いを見ます。これは重要です。 1 妃・春日千千速真若比売とその女・千千速比売を「古事記」のみが記します。 だが、他の二書はこれを欠きます。 2 皇子・日子刺肩別命を「古事記」のみが記しますが、他の二書はこれを欠きます。 3「古事記」は、3比子伊佐勢理毘古命の別名は大吉備津日子命とします。 だが、「日本書紀」は別名を記さず、「天皇本紀」は別名を吉備津彦命とします。 このため、大吉備津日子命は吉備津彦命とは同一人(神)と見えますが、後に見るように、 神社祭神では別人(神)扱いになっています。 4「天皇本紀」が記す7弟稚武彦命は「日本書紀・古事記」にはありません。 しかし、後に見るように、菅福神社の祭神の一には「弟稚武彦命」が記されています。 これは、「弟・稚武彦命」と読むべきかも知れません。ならば、7ではなく6番目です。 亦、次の四点に違いを見ます。これは重要です。 1 妃・春日千千速真若比売とその女・千千速比売を「古事記」のみが記します。 だが、他の二書はこれを欠きます。 2 皇子・日子刺肩別命を「古事記」のみが記しますが、他の二書はこれを欠きます。 3 「古事記」は、3比子伊佐勢理毘古命の別名は大吉備津日子命とします。 だが、「日本書紀」は別名を記さず、「天皇本紀」は別名を吉備津彦命とします。 このため、大吉備津日子命は吉備津彦命とは同一人(神)と見えますが、後に見るように、 神社祭神では別人(神)扱いになっています。 4「天皇本紀」が記す「7弟稚武彦命」は「日本書紀・古事記」にはありません。 しかし、後に見るように、菅福神社の祭神の一には「弟稚武彦命」が記されています。 これは、「弟・稚武彦命」と読むべきかも知れません。ならば、7ではなく6番目です。(2) 伯耆国における孝霊天皇所縁の伝承 古代の「伯耆国」は7世紀に設置された六郡四十八郷からなる令制国で、出雲文化の影響が濃い地域とされています。 伯耆国造は伯耆国(現・島根県安来市・鳥取県米子市周辺)を支配したと見られ、4世紀中葉の成務朝、无耶志国造同祖・兄多毛比命の子・大八木足尼を国造に定めた、との記録(国造本紀)はありますが、今、関心はその百年前の孝霊朝です。これを3世紀中葉と見ます。 孝霊天皇一族を祀る神社は伯耆国日野郡(鳥取県西部)にあり、その領域は現在の鳥取県米子市、倉吉市、境港市、東伯郡、西伯郡、日野郡に当たります。 その内、日野郡は最も西寄りの山間部で平野部は少なく、現在の人口密度は下記のように小さく、上古も同様だったと思われます。 伯耆国六郡:東伯郡(三朝町・湯梨浜町・琴浦町・北栄町) 人口49,049人、面積508.36km²、人口密度96.5人/km²。 西伯郡(日吉津村・大山町・南部町・伯耆町) 人口37,209人、面積447.42km²、人口密度83.2人/km²。 日野郡(日南町・日野町・江府町) 人口8,394人、 面積599.46km²、人口密度14人/km²。 日野郡は比較的急流とされる日野川とその支流域に展開しています。<1> 孝霊天皇一族の祭祀・・日野郡を中心とする分布 孝霊天皇一族を祭神に含む神社12社が伯耆国日野郡・西伯郡を中心に出雲東部にも鎮座していますが、確認した12社の何れも式内社ではありません。(図表4) 参照:「日野郡史(上巻)」(国会図書館デジタルコレクション)大正14年刊注 明治大正期の合祀神を除いてあります。 「日野郡史」(大正期編纂)は、日南町宮内在の東西の楽々福神社について、「日野郡の大社・楽々福神社の社殿は宏壮、郡内、否、県内にその比を見ず。両社とも神職ありて奉仕す」と記します。 この二社は、多分、日野郡の楽々福神社群の中心なのでしょう。 亦、「日野郡史」はこの二社が式内社にならなかった理由を「郡司が不在だった為」と態々推定説明している点は興味深いです。 宮内の東楽々福神社式内社ではありませんが、明治の社格制度では「県社」の社格を得ています。 注 「県社」は明治の近代社格制度の諸社(民社)の中で、府県社・郷社・村社に分類された中で、最上級の社格とされ たが、今はこの制度はない。 この図表4の諸社の「祭神は誰か」を集計し、寸考します。 1 孝霊天皇(孝霊天皇5,大倭日本根子彦太瓊命6)が対象12社の内11社に祀られてます。 2 孝霊天皇が祀られていない一社は「印賀樂樂福社」です。 印賀社の由緒によれば、この社は不幸にも夭逝された福媛命の冥福を祈る為の神社でした。 印賀社由緒:当社主祭神・媛姫命は宮内の樂樂福神社の福姫命と同神であり、孝霊天皇皇女とされる。 幼くして薨去され、社背の山林中に御陵墓と伝わる所がある。 御歳十五の一日、薗豆採取 の折、竹枝にて片目を突かれ程なく薨去されたという。 以来、村中に竹を植えず、竹箸を使うことをはばかったと伝える。 3 后妃 ・皇后・細媛命は7社に祀られ、遠征する孝霊天皇を追って当地に来た由です。 ・妃・阿禮姫命は、 ・妃・絙某弟命 4 皇子・大日本根子彦国牽(孝元天皇)はこの12社に祀られていません。注目すべきです。 ・祭神に彦五十狭芹彦命(妃・国香媛命の皇子)の名を日谷神社に見出しますが、他にはなく、 その代わり「吉備津彦命・大吉備津彦命」の祭祀2件があります。 ・稚武彦命(妃・絙某弟命の皇子)は4社に祀られ、三皇子中で最多祭祀数です。 ・彦狭嶋命(妃・絙某弟命の皇子)は2社に祀られています。 5 景行天皇&押別命 ・景行天皇が「大足彦忍代別命」の名で9高杉神社に祀られています。 ・押別命(記)は景行天皇の皇子で、忍之別皇子(紀)と同一人と思われます。(別論あり) 6 女神たち: ・皇女:百襲姫命 稚屋姫命は母の妃・倭国香媛と共に8菅福神社に祀られています。 ・皇女:福姫命は、記紀に名はなく、3印賀社&10高杉神社に祀られています。 ・現地妃:松姫命、千代姫命は 、記紀に名はないが、高杉神社の「嫐打神事」に登場す。 7 境内社に祀られている諸神 ・若宮神社(東西楽々福神社の境内二社) <東>若宮神社:(祭神)欝色雄命、大水口命、大矢口命、今宮神社:(祭神)磯城県主大目命 <西>若宮神社:(祭神)磯城縣主大目命(細媛命の父)、欝色雄命・大矢口宿禰命・大水口宿禰命 ・木野山社:(祭神)大山祇命・木花開耶姫命、相殿:鬱色雄命・大水口命。大矢口命 尚、図表5は「孝霊天皇の足跡か・・日野郡中心の樂樂福伝承」として、図表4の地図表示です。 今回は弥生遺跡群を考察の対象に入れていません。 だが、一言、記し遺します。 ・妻木晩田遺跡出土の傷つきの遺骨群は戦闘を示唆します。 ・それを「倭国大乱」と結びつける見方があります。 ・だが、孝霊朝が三世紀半ばに伯耆国足跡を残し、今に「楽々福伝承」を伝えるのは、 この妻木晩田遺跡の「傷つき遺骨」と関係しないか、との疑念が残ります。 <2> 楽楽福伝承 ここでは、「日南町宮内の樂樂福神社の由緒略記」の読みを中心とします。 楽楽福伝承は孝霊天皇一族の日野郡での活動記録とも云えます。図表6に箇条書きして、話を簡略化します。ご覧ください。 図表6 宮内樂樂福神社の由緒略記─────────────────────────────────────────────1当社は大日本根子彦太瓊尊(第七代孝霊天皇)を主神とし、皇后、后妃、皇子及び其のご一族を 奉斎する。2天皇はご幼少の御時「樂樂清有彦命」と称し、また「笹福」と号された。3古くは砂鉄生産の守護神として厚く崇敬され日野郡開拓鎮護の総氏神として日野大社笹福大明神 と尊称された。ご祭神の原初的な祭祀は、古代まで遡ると考えられるが、神社としてのご創建は 仁和2年(西暦886年)との口伝がある。4孝霊天皇が当地に巡幸された折に鬼林山に蟠踞する「牛鬼」の名で恐れられる一団が里人を悩ます 由を聞し召され、皇子神達や随従の神々を率いて彼の凶賊を悉く退治された。 現今、境内近くにある鬼塚はその首魁を埋めた場所と伝わっている。5一方、細媛命はご巡行中の天皇の御跡を慕ってお尋ねになる途中、お産のお悩みがあり日野川のと ある石の上にお憩いになる。時節は五月の中葉にして雨が多く降り里人は畏みて菅の蓑と笠とを奉 った。また増水した川の水音が高く聞こえた為、皇后が「水音喧」と仰せになると水の音が忽ち止 んだと伝わっている。 よって日野川のこの流域(日野町上菅)は「音無川」と呼ばれるようになった。6そして其の地をお立ちになる時「むら雨の露のなさけの名残りをば此処にぬぎ置く菅の蓑笠」と御 歌を詠まれた。そして更に川上に上られて天皇とお逢いになり、宮内の里は良い宮処なりと御所を 定めて多くの年月を過ごされたと伝わっている。7即ち当社はご祭神の偉大なる御治績を追慕尊崇して鎮斎された古社でその宮処こそ「内裏」と尊称 された現在の社地である。爾来、人々の崇敬は変わる事無く開運招福・願望成就の福神として遠近 よりの参拝者が今日も絶えることは無い。8明治元年「樂樂福社」と改め同5年縣社に列格され同7年「樂樂福神社」と改称、同40年神饌幣帛 料供進神社に指定された。亦、大正8年には近隣鎮座の村社6社・無格社1社を合祀した。9昭和15年には皇紀 2600年記念として本殿を新たに造営し同年11月に正遷宮祭を斎行した。10戦後は神社本庁の包括神社となり例祭(春季大祭・5月1日) には本庁より献幣使が参向して幣帛料を奉る────────────────────────────────────────────若干のコメントは次の通りです。<2-1> 孝霊天皇の幼名・・樂樂清有彦命 楽楽福(ササフク)と云う神社名は考霊天皇の御幼名が[楽々清有彦命]であることに因む、と「宮内樂樂福神社の由緒略記」にあります。 それは直ぐには「考霊天皇が当地で育った事」を意味しませんが、孝霊天皇の「当地育ち」の可能性を僅かに示唆します。 孝霊天皇の母は孝安天皇皇后・押媛です。 押媛は和邇臣祖とされる天足彦国押人命(孝昭天皇皇子) の女です。 押媛が伯耆国に育ち住んだとすれば、孝霊天皇も当地に所縁が深いと推測出来るのですが、 ・「樂樂福神社の社名は、孝霊天皇の幼名・樂樂清有彦命に由来し、その音には「砂鉄」と 「ふいご」の意が含まれていると云われています。 ・孝霊天皇が樂樂福神社の周辺に仮宮を置き、伯耆谷の統治に当たった期間は11年に及ぶ とされます。<2-2> 細媛命の御所 ・・「宮内の里」 細媛命は孝霊天皇を追って後から伯耆国へ来て、「宮内の里」を御所にした、と「略記」は次の様に伝えます。 略記抄:宮内の里は良い宮処なりと御所を定めて多くの 年月を過ごされたと伝わっている。 だが、後来の細媛命は不快な事件もあったようです。後の「嫐打ち神事」をご覧下さい。<2-3> 福媛命伝承 皇女・福姫命は、記紀にその名はなく、3印賀楽々福神社、及び、10高杉神社に祀られています。伝承は、福媛命は幼くして亡くなり、印賀楽々福神社に祀られています。 ・印賀楽々福神社の主祭神・媛姫命は、孝霊天皇の皇女・福姫命と同神とされ、宮内の樂樂福神 社に帝親征されるや、皇后・細姫命幸を共にし給ふ。 ・産月に成りて此の郷に到り給ふ。時に河の辺りに大なる石有りて是を高御座となし、小菅を苅 り薦と成し御鏡を石の上に置き給ひ、姫御子御降誕、福姫命(阿禮姫命)と云ふ。 ・幼くして薨去され、社背の山林中に御陵墓と伝わる所がある。御歳十五の一日、薗豆採取の 折、竹枝にて片目を突かれ程なく薨去されたという。以来、村中に竹を植えず、竹箸を使うこ とをはばかったと伝える。<3> 嫐打(うわなりうち)神事・・高杉神社の伝承 高杉神社はやや異質な要素を備えています。異質性は二つあります。 ・第一が、孝霊天皇の他に景行天皇とその一皇子・忍別命(押別命)を祀っていることです。 ・第二が、「嫐うわなり打ち神事」と云う皇后・細媛命に関わる珍しい神事を抱えている点です。 嫐打:前妻が後妻を襲撃し、後妻も応じて双方打ち合いを行い、仲介人が折りを見て引揚げさせる習俗。 ウイキペディア「後妻打ち」は、次の如くその定義を記し、大いに参考になります。 ・「うはなり」(うわなり) とは後妻のことで、嘗ては妻がいる上に更に迎えた女性(妾)を「うはな り」と云ったが、後に先妻と離婚して新たに迎えた女性を「うはなり」と云った。 ・この「うはなり」を先妻が打擲する事を古くは「うはなり打ち」と云った。 ウイキペディアは「後妻打ち」諸例を次の如く紹介しています。 1 最古の記録として『権記』寛弘7年(1010年)2月18日条を挙げます。 2 祭主・大中臣輔親の前妻(藤原教通の乳母)が、教通の随身や下女等30人ばかりで、後妻のい た鴨院の西対を襲撃させ、内財雑物が損壊されたと云う。 3 武家の例:北条政子は夫源頼朝の愛妾・亀の前に後妻打ちをしたことで知られる。 4 元亀元年(1570年)頃、鍋島直茂の館に先妻が度々「うわなり打」にやって来たが、後妻・ 陽泰院の説得により退散したとの記述が、直茂の曾孫・光茂に仕えた山本常朝の談話を 記録した「葉隠」にある。 だが、高杉神社の「嫐打ち神事」についてはウイキペディアは触れていません。 多分、高杉神社の「嫐打ち神事」は、地方的な存在としてしか知られていないのでしょう。 図表7 高杉神社と嫐打ち神事────────────────────────────────────────── 1 高杉神社(鳥取県西伯郡大山町宮内88番) 祭神:[主神] 大足彦忍代別命・大日本根子彦太瓊命・忍別命(押別命) [合祀] 細姫命(本媛no之命)・松媛之命・千代姫之命 ・小葉枝皇子・大葉枝皇子・根鳥皇子・天照御大神 ・武速須佐之男命・譽田別命・素盞嗚命 2 嫐打ウワナリウチ神事:4年に一度の閏年、旧暦9月15日に執行。 社伝:476年(雄略天皇丙辰年)に郷の人々に不幸が続いたので託宣してもらうと、官女・松媛 命と千代媛命が妃・細媛命に嫉妬の念を燃やして祟っていると出たため、女神の社殿 (本殿・仲殿・末殿)を創建して同神事を行うようになったと伝わる。 嫐打神事(後妻打ち): ・松姫命(中殿)・千代姫命(末殿)の二官女は孝霊天皇の現地妻だったが、その霊魂が 後来の皇后・細姫命(本殿)に対する嫉妬の念から、茅束を使い、細媛命を打ち叩 いたらしい。 ・当然、細媛命は反撃して打ち返したと思われ、その行為が嫐打ウワナリウチである。 ・嫐打神事は、このウワナリその行為を和らげようとして、仕人三人が物忌して 神懸かりになり、幣帛(茅を束ねた打杖)をもって打合せを行い、最後は細媛命(本殿) が残るカタチを採る。 由緒:創立年代不明。 ・明治初年に高杉大明神の旧廃し高杉神社と改称した。 ・大正元年、宮内の一ノ御前社(細姫命)と二ノ御前社(松姫命)相殿三ノ御前社(千代姫命)を合併、 大正二年、平の平神社(もと若宮社 小葉枝皇子外三神)と宮内の荒神社(素盞嗚命)を合併した。 平神社は戦後に分離した。現在は宮内集落のみの氏神である。<4> 鬼退治伝承・・孝霊天皇・大矢口宿祢・鬼伝説・伯耆溝口 楽楽福神社の鬼退治伝承は余りにも有名です。「日本伝承大鑑」にも収載されています。 鬼退治伝承は「鬼林山の牛鬼」と云う事で、樂樂福神社に語り伝えられている由です。 引用:「日本伝承大鑑」 ・伯耆の国日野郡溝口村の鬼住山に悪い鬼 が沢山住み着いていました。 ・この鬼達は近くの村々に出ては人をさらったり、金や宝物・食べ物を奪って人々を苦しめ ていた。これを聞かれた孝霊天皇は、自ら軍勢を率いて鬼住山南の、これより少し高い笹 苞山(さすとさん)に登り、鬼住山の鬼達を悉く退治されました。 ・天皇が山に登り布陣された時、人々は笹巻の団子を献上し、士気が大いに上がったので、 この山を笹苞山(さすとさん)と呼ぶようになりました。 ・鬼を誘き出す為、山麓の赤坂の地に団子を三つ並べた処、弟の鬼「乙牛蟹」が出て来たの で、これを討ちました。 ・兄の「大牛蟹」は大いに怒り、手下を束ね一層暴れ、容易に退治することが出来ません。 ある晩 眠っている天皇に 「笹の葉を刈って山のように積上げなさい。そうすると風が吹い て、それらを舞い上げ、鬼を襲い退治出来るでしょう」とのお告げがあった。 これを聞いた天皇がその通りにすると、三日目の朝、猛烈な南風が吹き、積上げた笹を「あ れよあれよ」と鬼の住処の方へ、巻き上げて行きました。 天皇はここぞとばかり、全軍を叱咤して、舞い上った笹の後を追い、鬼退治に向いました ・笹の葉に巻きつかれ、枯葉が燃え、鬼達はなすすべも無く、麓に逃げて降参 しました。 ○人々は大変喜んで 麓宮原の地に笹で社殿を吹き天皇を祭りました。 これが楽楽福神社の謂れです。 ・この時、鬼を殺したのは物部四世孫・大矢口宿禰でした。 大矢口宿禰は樂樂福神社神主・蘆立家の始祖だと云われます。 現在の「鬼住山」「笹苞山」などの地名は、これらの伝承に由来する由です。 この伯耆の鬼退治伝承は、但馬・丹波の「陸耳御笠の乱」とも対比されるでしょう。 残念ながら、「鬼住山の牛鬼退治伝説」は、潤色の度合いも低い地方説話として残され、記紀には採用されず、内容は「但馬故事記」の如くには伝わらなかったものでしょう。 この鬼退治伝承は、現実には、古代社会に起きた「不服従の異族・異分子の退治を意味する」、と推測・解釈します。(3) 孝霊天皇の世紀の実在性 伯耆国における孝霊天皇一族の祭祀や伝承はその限りで実在性を示唆します。 孝霊天皇一族の祭祀には、祭神構成に潤色を推定さす部分もありますが、それを認めても尚、実在を推測させると云えそうです。 その実在性を推測させるレベルは、「陸耳御笠の乱」に比べると、劣る面があるものの、可成り有望です。決定打は「嫐打ち神事」(次報)かもしれません。 いずれ、「実在性判断の尺度」を導入して、推測のレベルを向上させていきましょう。 「孝霊天皇の御世」の調べは未だ序の口です。 この後は、三、四報を続けてから、「孝元天皇の御世」に移ります。 予定:欠史八代後期3 第七代孝霊天皇の御世(2) 嫐打ち神事 欠史八代後期4 第七代孝霊天皇の御世(3) 吉備国の孝霊天皇 欠史八代後期5 第七代孝霊天皇の御世(4) 四国(愛媛・讃岐)の孝霊天皇 欠史八代後期6 第七代孝霊天皇の御世(5) 欠史八代の天皇后妃