礒部探しB 上野国碓氷郡の磯部郷
今回は「礒部」は一筋縄ではいかないことを学びました。 そこに「磯部郷」があるから住民は「礒部氏」だろう、「磯部神社」があるから「磯部の地」だろう、と単純に考えていました。だが、実態は単純ではないことを学びます。 上野国の「礒部」を中世まで下ると、予想もしない「礒部」の姿を学びました。ご覧下さい。目次 (1) 上野国碓氷郡(安中市)から山田郡(桐生市)にかけての俯瞰 <1> 上野国碓氷郡(安中市)から山田郡(桐生市)にかけての俯瞰 <2> 碓氷郡磯部郷 & 甘楽郡 <3> 安中・磯部神社 <4> 桐生・磯部明神 (2) 式内・貫前神社と咲前神社の伝承差異 <1> 貫前神社 <2> 咲前神社 <3> 「磯部氏は物部氏」説: (3) 古上野国人・磯部姓は地元豪族と結ばれた <1> 甘楽郡人への賜姓記事(称徳朝) <2> 「金井沢碑」の伝え <3> 「磯部氏は物部氏」説: (4) 佐々木盛綱とその裔孫の展開地 <1> 宇多源氏流れの人・佐々木盛綱 <2> 佐々木盛綱の裔孫から磯部氏が派生している (1) 上野国碓氷郡(安中市)から山田郡(桐生市)にかけての俯瞰<1> 上野国碓氷郡(安中市)から山田郡(桐生市)にかけての俯瞰 今回の検討対象を次の参考図表1に示します。古代の上野国碓氷郡はほぼ現代の群馬県安中市です。 浅間山の東麓とも云うべきこの碓氷郡には「倭名類従抄」に云う磯部郷があったのです。 物部公を賜姓した礒部牛麻呂は甘楽郡の人です。これは後述します。 右端の桐生・礒部明神は古代の山田郡に属しています。 従って、磯部郷だけが「古代磯部」の対象とはならず、広域を対象とする事になるのです。<2> 碓氷郡磯部郷 & 甘楽郡 今も、安中市には、磯部・上磯部・西上磯部・東上磯部・下磯部と磯部地名が広がっていますし、JR東日本・信越本線の礒部駅あり、磯部温泉あり、です。<3> 安中・磯部神社 ここで、安中市の磯部神社は、古社名ではなく、明治14年に28社の合祀に際して、新たに名付けられて生まれた事を確認します。 それまでの主な神社としては諏訪社(下磯部)と神明宮(上磯部)があったのです。 ・磯部神社(安中市下磯部字馬場): 祭神:健御名方命 合祀:1881・明治14年、次の28社が合祀され、「礒部神社」と社号を改称した。 ・下磯部字馬場「諏訪社」末社5社、同字水口久保「稲荷社」、末社神明宮、 ・大竹村字西前「八幡宮」末社4社、同字天神前「菅原社」末社2社、同「神明宮」、 ・東上磯部字神明「神明宮」末社11社 歴史1 神明宮跡地には、日本武尊が東征の折行在し、冠を掛けた「冠石」、御腰を掛けた「腰掛石」や 市指定天然記念物の御神木「ヒイラギ」があり、今も神明地区の氏子により行事が行われている。 2 当社は、慶長年間以前は鷺宮村の鎮守「諏訪大明神」でした。 ・1596・慶長元年、上諏訪社が現在地に遷座したと伝わります。 ・更に、元禄年間(1688-1704)、字馬場に下諏訪社を分祠した。 ・佐々木盛綱(本報のVIPとして後述あり)は、伊豆の流人時代から源頼朝に仕えた人です。 その祈願所・普門寺は、磯部城の麓にあった鷺宮村字文殊寺より移転したとの伝えあり。 この上野安中・磯部神社の新しさは、志摩・磯部神社の新しさと同じレベルであり、古代には存在していなかったことを確認します。 参照:礒部2 志摩・磯部神社の祭神由来考 2024年04月24日<4> 桐生・磯部明神 桐生天満宮は「磯部明神」とも云われていた由です。 ここでは「桐生・礒部明神」と表記して、碓氷郡の安中・礒部明神と区別します。 ・桐生天満宮(群馬県桐生市天神町1-3-4) 祭神:磯部明神 由緒:景行朝、上毛野国造が土師部の遠祖・天穂日命を奉斎した磯部明神から始まります。 その後、幾多の星霜を経て、1187・文治3年から当地を支配した桐生家が代々の守護神として 崇敬し、1350・観応年間には、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して「桐生天満宮」と改称し、 桐生領54ケ村の総鎮守と定められたと云います。 ・「桐生が岡公園」辺りは「磯部の岡」と呼ばれていた。 (出所・参照) 天羽々斬a.habakiri★gmail.com 群馬の磯部氏(1)&(2) その由緒は「景行朝、上毛野国造が土師部の遠祖・天穂日命を奉斎した磯部明神から始まる」とします。景行天皇の御代は日本武尊が東征した時代です。 初代・上毛野国造は実質的に御諸別王だと云えます。 ・「日本書紀」景行天皇56年8月条: 御諸別王に詔して「お前の父の彦狭島王は任地に行けず早死したから、お前が専ら東国を治めよ」 と云われた。御諸別王は天皇の命を承って、父の遺業を行うため、早速、赴任、善政をしいた。 蝦夷が騒ぐので兵を送り討った。蝦夷の首領・足振辺、大羽振辺、遠津闇男辺らが来た。 その領地をすべて献上した。降伏者を許し、降伏せぬ者は殺した。東国は久しく事なきを得た。 その子孫は今も東国にいる。 ・「国造本紀」:上毛野国造・崇神天皇皇子・豊城入彦命の孫・彦狭嶋命が初めて東方十二国を治め 平らげて、国造に封ぜられた。 ・下毛野国造・仁徳朝、毛野国を上毛野・下毛野に分け、豊城命四世孫・奈良別を初 めて国造に定めた。 これらの情報が真だとする立場を採れば、「景行朝に、上毛野国造・御諸別王が礒部明神を奉斎した」と読むことになります。 この読みには「出来過ぎ」説がありえます。 それに対しては、次の様に返すしかありません。 ・この由緒は「桐生・礒部明神」の創祀の古さを伝えるために、最大限に努力しているから、 と見るべきです、と。 桐生・礒部明神から碓氷・礒部明神までの距離は45kmで、かなり離れています。 二社間(安中市~桐生市)には、現在の市名で藤岡市・高崎市・伊勢崎市があり、そこは古代の「緑 野・・・・・」だと推定されます。 そこには二社を結ぶべき糸がある筈です。今は序論としての地図上にその位置を確認するだけですが、次報では、この桐生・礒部明神を別アングルから取上げて、その「結び糸」を探ることになるでしょう。(2) 式内・貫前神社と咲前神社の伝承差異 上野国一之宮・貫前神社は「物部姓磯部氏」が創建に関わったとし、その元宮・咲前神社に「磯部朝臣」が奉幣使となって「経津主命」を祀ったと云います。 社伝は6世紀の創祀と伝えます。 亦、磯部氏は、これより先に、碓氷郡から甘楽郡・にかけて居住していたと考えられています。 貫前神社と咲前神社とはその創設譚において一卵性双生児の兄弟ともいうべきと考えます。 然し、貫前神社が名神大社・上野国一之宮を名乗るのに、咲前神社は、何故か、式内社の待遇を受けていません。その創祀伝承では咲前神社が元宮と位置づけられ、貫前神社はその元宮からの移遷が伝えられているのに、です。 その創祀伝承に登場する人物の「姓カバネ」にも違いが生まれています。 「伝承差異」論はそこにも注目します。 それでは、二社を次にご紹介しますので、由緒説明を比較して下さい・<1> 貫前神社 貫前神社は上野国 甘楽郡に鎮座する名神大社で、上野国一宮と云う格式を誇る神社です。 ・貫前神社(群馬県富岡市一宮)貫前神社(名神大) 上野国 甘楽郡鎮座 祭神:経津主命・建国の祖神、物部氏の氏神、刀剣の神、武道の神 ・「日本書紀」などの国譲りの場面で神名が見え、葦原中国平定の功績を伝える。 ・『日本書紀』のみに登場し『古事記』には登場しない神です。 ・姫大神 ・養蚕と機織りの神、生産の守護神 ・姫大神は正確な神名も祀られた由緒も伝わっていない。 一説には綾女庄に住んでいた渡来の高麗人が養蚕や機織りを伝え、その人々が 奉賛していた古神だとも云います。 貫前神社の公式由緒にある「社伝」によると、物部姓磯部氏が祖神である経津主大神を奉斎したのが現在の咲前神社で、それが遷座したのが貫前神社だ、と云います。 ・貫前神社由緒(抄)・社伝 :鷺宮(碓氷郡東横野村、現安中市)に物部姓礒部氏が氏神である経津主神を奉祀。 次いで、鷺宮南方鏑川岸に至り、蓬ヶ丘綾女谷に社地を定め、奉祀したのが安閑天皇元年(西暦531年)と されています。 ・布都御魂を祀る石上神宮(奈良県天理市)は物部氏の奉斎社、兼、武器庫だとされているので、日本神話の 中で争ったと云う諏訪神・建御名方神への抑えの武器庫として、当地の物部姓を賜った石ノ上部(イソノカミ ベ・礒部氏・磯部氏)が貫前神社を創建したとも考えられています。 ・674・天武天皇白鳳2年3月15日、初の奉幣があり、醍醐天皇の延喜の制には名神大社 に列せられ、上野國 一之宮として朝廷や民間の 崇敬を衆め、明治四年國幣中社に列格されました。 (出所) 一之宮貫前神社公式ホームページ 尚、ここで用いられている「物部姓磯部氏」を支持するのが「続日本紀」の記事です。 「続日本紀」には「物部公」の賜姓が確認されるのです。 参照:続日本紀・766・天平神護2年5月甲戌: 上野国甘楽郡の人外大初位下礒部牛麻呂ら四人に物部公の姓を賜わる。<2> 咲前神社 貫前神社の社伝が、この社の奉斎者は「物部姓の磯部氏」だとするのは、「続日本紀」の上記の記事と対応します。だが、咲前神社の社伝は「礒部朝臣」を用いています。 咲前神社はその貫前神社よりも一足だけ先祀だとされるのは上に述べた通りです。 亦、咲前神社そのものは、式内社とされていませんが、論社と云う扱いではなく、式内社・貫前神社の元宮だとされているかの印象を受けます。 ・咲前神社(群馬県安中市鷺宮3308番地)上野国神名帳 従五位上・吉田神祇菅領宗源宣旨 正一位 祭神:經津主命 大己貴命 保食命 由緒:当鎮座地は神代、経津主大神が健御名方神を追って上野国と信濃国の国境の荒船山に御出陣の時の 行在地であると伝わる。 ・534・安閑天皇元年6月、初の申の日に神石「雷斧石」三柱の御出現を仰ぎ、時の朝廷に上奏したと ころ、奉幣使、磯部朝臣小倉季氏と共に高椅貞長、峯越旧敬を伴い上毛野国に御下向があり、抜鉾大 神「健経津主命」を祀る社を建て、以後、磯部朝臣が祭司を司った。 ・572・敏達天皇元年、第3代磯部朝臣・小倉邦祝は磯部郷小崎の里に居を構え、以降小崎を名乗る。 ・650・白鳳元年、第11代小崎邦平は、神託により抜鉾大神を神楽の郡(甘楽郡)蓬丘菖蒲谷に御遷座す。 ・供奉の道筋では、七五三原でまず神事があり、明戸坂で夜が明け、宇田で御旅所となり御遷宮された。 現在の一之宮貫前神社(宮司・尾崎氏)である。 ・磯部郷前宮跡は、先の宮として崇め、咲前神社(宮司・和田氏)が祀られた。この時、改めて香取神宮 より経津主大神を勧請し、大己貴命、保食命が祀られた。以後の祭祀を藤原姓和太氏が司る。 ・平安朝後期に成立したと思われる「上野国神名帳」には、「碓氷郡 従五位上咲前明神」と記され、 ご分霊として「片岡郡従五位上咲前明神」が見える。 ・1401・応永8年1月7日、足利満兼により新田庄平塚郷一町が寄進されている。 (出所) 宗教法人 鷺宮 咲前神社公式ホームページ この読みには「出来過ぎ」説がありえます。 それに対しては、この由緒は「桐生・礒部明神」の創祀の古さを伝えるために最大限に努力していると見るべきだ、と返すしかありません。 この桐生・礒部明神から碓氷・礒部明神までの距離は45kmとかなり離れています。 二社間(安中市~桐生市)には、現在の市名で藤岡市・高崎市があり、そこは古代の「緑野郡・・・・・」だと推定されます。 そこには二社を結ぶべき糸がある筈です。 今は序論としての地図上にその位置を確認するだけですが、次報では、この桐生・礒部明神を別アングルから取上げることになるでしょう。 (3) 古上野国人・磯部氏は地元豪族と結ばれた 上野国一之宮・貫前神社は「物部姓磯部氏」が創建に関わったとし、その元宮・咲前神社が「磯部朝臣」が奉幣使いとなって「経津主命」を祀ったと云います。社伝は6世紀の創祀と伝えます。 磯部氏は、これより先に、碓氷郡から甘楽郡・にかけて居住していたと考えられます。 その根拠は、磯部姓の古上野国人を伝える資料を集めると、全体として推定できるからです。 次にこれを見ます。<1> 甘楽郡人への賜姓記事(称徳朝) 第一が、「続日本紀」が伝える甘楽郡人への賜姓記事です。それは称徳朝の事です。 先ず物部氏が物部公を賜姓し、次いで翌年、磯部氏も物部公を賜姓しています。 ・765・天平神護元年11月戌牛朔:上野国甘楽郡の人中衛・物部蜷淵ら五人に物部公の姓を賜わる。 ・766・天平神護2年5月甲戌:上野国甘楽郡の人外大初位下礒部牛麻呂ら四人に物部公の姓を賜わる。 参考:この5月壬戌、上野国にある新羅人子牛足等193人に吉井連を賜姓す。ともあり。 これは、磯部氏の立場は物部氏と対等の立場なのに贈姓に漏れているとの注進があって、翌年、修正されて、磯部氏が物部公を賜姓したものと推定します。 「倭名類従抄」(承平年間931~938)で碓氷郡磯部郷の存在を知るものの、実際の賜姓者は甘楽郡の磯部牛麻呂であることに注目すべきです。「続日本紀」の記事(766年)はそれを明示しています。<2> 「金井沢碑」の伝え 第二が、「金井沢碑」の伝えです。 「金井沢碑」は726・神亀三年に三家氏が建立した「三家氏の祈願碑」(高崎市山名町)です。 三家(三宅)氏は、朝廷の屯倉(三宅)管理の伴造で、現・高崎市上佐野町・下佐野町辺りと考えられる地に住んでいたようです。 この碑文には、「上野国群馬郡下賛郷高田里の三家氏の子孫らが七世の父母と現在の父母の為に、仏に祈り、天地に請願し仕え奉る」という内容が刻まれています。 ・金井沢神亀碑((群馬県高崎市山名町、上野国群馬郡下賛郷、神亀三年二月): 碑文:上野国群馬郡下賛郷高田里三家子孫、七世父母、現在父母、現在侍る家刀自、他田君日頬刀自、 又児加那刀自、孫物部君午足、次に[馬爪]刀自、次に若[馬爪]刀自合せ六口、又知識結所人、 三家毛人、次に知万呂、鍛師礒部君身麻呂合せて三口の為、是の如く知識を結びて而して天地に 誓願し仕え奉る 石文 726・神亀三年丙寅二月二十九日 その上で、この「金井沢碑」に記された人名の中に物部君午足と磯部君身麻呂の名がある事に注目します。物部・磯部・三家の三氏は、血縁関係があるらしく、総じて一族と云えそうです。 この三氏は伴造氏族ではないかと考えられ、通婚を重ねていたと推測します。 これは古上野国人・磯部氏が在地豪族と通婚を重ねて結ばれていた事を推測させます。 尚、上野三碑は、国定特別史跡で、7世紀末から8世紀前半にこの地域に建立されます。 ・766・天平神護2年5月甲戌:上野国甘楽郡の人外大初位下礒部牛麻呂ら四人に物部公の姓を賜わる。 ・766・天平神護2年5月壬戌、上野国にある新羅人子牛足等193人に吉井連を賜姓す。ともあり。 ・山上碑(高崎市山名町)、681・天武10年、建立。 高さ約1.1mの墓標。 ・多胡碑(高崎市吉井町池字御門)、711・和銅4年、建立。 ・金井沢碑(高崎市山名町)、726・神亀3年、建立。高さ約1.1m。 この二つの記事(甘楽郡人・磯部牛麻呂への物部公賜姓記事と磯部君身麻呂を記す金井沢碑)は、碓氷郡・甘楽郡・郡馬郡は隣接して在り、磯部氏が地域社会に広く混淆していたことを推察させます。 一連の礒部探しの最後に、「礒部氏史年表(試論)」を纏める構想です。 その時のために年表メモを記します。 ・534・安閑天皇元年:貫前神社と咲前神社とが磯部氏により創祀された。 ・726・神亀三年:三家氏が「三家氏の祈願碑」(高崎市山名町)を建立した。礒部君身麻呂 ・766・磯部牛麻呂ら四人が「物部公」を賜姓した。 ・承平年間(931~938年):「倭名類従抄」が上野国の磯部郷を記していますが、それよりも 約150年前に磯部氏は物部公を賜姓し、約400年前に貫前神社と咲前神社とを創祀していた、 と理解します。 <3> 「磯部氏は物部公」説: 鷺宮・咲前神社の由緒に見る「磯部朝臣」は公式には存在しないのではないか、と思われます。 咲前神社が、自社の格式を上げるために、「朝臣」称号を用いたのではないでしょうか。 「磯部氏は物部公」説は「貫前神社の由緒」の「物部姓磯部氏」の記述に基づくものです。 引用:物部氏祖神は宇麻志麻遲命か饒速日命だが、咲前神社の由緒によれば、磯部氏は「物部氏の祖神である 経津主命」を奉斎しています。 ・経津主命は、元々、物部氏祖神だったが、中臣氏に奪われたとの推測もある由。香取神宮から勧請して いる事、中臣氏分流の和太氏が咲前神社宮司を務めているので、中臣氏の影響が大きい。 更に、これを支えるのが「続日本紀」の上述の記事で、766・天平神護2年5月、上野国甘楽郡の人・外大初位下礒部牛麻呂ら四人に物部公を賜姓していることが判ります。 続日本紀・766・天平神護2年5月甲戌:上野国甘楽郡の人外大初位下礒部牛麻呂ら四人に物部公の姓を賜わる。 再確認です。磯部氏は「物部公」の姓カバネを授かっているのです。 ここで認識すべき重要点は次の二点です。これは次報にも関係する事と思われます。 第一は、この経津主神の奉斎は「香取神宮」からの遷座だという事です。 第二は、その遷座は安閑天皇元年(=534年)で、磯部氏が貫前神社と咲前神社を創祀した。 この上野国の物部氏はどこから来たのか、よく判りませんが、次の様な古名が遺っています。 ・物部朝臣磯部建一霊神(祓紙), 切1枚, 尾崎忠男家文書1889, P8515, 1422-8、群馬県立文書館 目録検索 ・物部君万呂 木簡学会『木簡研究』4-14頁-3(10) ・物部鳥麻呂 上野国緑野郡小野郷 奈良国立文化財研究所『平城宮木簡』2-2781(4) 佐々木盛綱とその裔孫の展開地<1> 宇多源氏流れの人・佐々木盛綱 佐々木盛綱は宇多源氏流れの人です。集めた資料をメモ書き風にリストします。 佐々木盛綱:伊豆の流人時代の源頼朝に仕え、その挙兵に従い治承・寿永の乱で活躍。備前国児島の藤戸の戦いで は、島に篭もる平行盛を破る軍功を挙げた。能の『藤戸』、歌舞伎の『盛綱陣屋』にも登場する。 ・備前国児島荘、越後国加地荘、上野国磯部などを領した。 佐々木盛綱を祖とする佐々木党は、磯部の地に住んだことから、磯部氏を名乗ったと云います。 ・上野国碓氷郡磯部郷(群馬県安中市磯部)に住んだ、と伝わります。(出所)「吾妻鏡」・建仁元年5月14日条 ・上野 磯部城(安中市鷺宮新地字城山)遺構あり。JR信越本線磯部駅~徒歩約20分で山公園 ・遺構:曲輪・土塁・堀切・横堀、形式:山城 ・磯部城は、碓氷川右岸の河岸段丘に接する独立丘陵の西端部を利用して築かれている。 ・丘陵に東端部には狼煙台用の文殊寺砦があり、磯部城とは別城一郭とされている。 ・磯部城は、丘陵西端部の頂部に主郭を置き、その東側に二の曲輪が並列して配置されて いる。主郭と二の曲輪の間には堀切があり土橋が設けられている。 ・二の曲輪の虎口を守るように南北に長く突き出した帯曲輪となり、両端には櫓台あり。 ・二の曲輪南下には馬出曲輪、その南側には三の曲輪が配置されている。 ・三の曲輪の南から東へと曲輪下には横堀が囲繞し、城塁下に横堀を幾重にも巡らせた 縄張りは武田氏流の築城術と特徴を物語っている。 ・規模は比較的小城で大軍が駐屯する広さはない。極めて戦闘的な要素の強い城と云える。 歴史:磯部城は、築城年代や築城者については定かでないが、伝承では鎌倉時代の初めの 建仁元年に佐々木盛綱によって築かれたとの伝承がある。盛綱は宇多源氏の名門佐々木 秀義の三男で、源頼朝に仕え鎌倉幕府草創に貢献した有力御家人。晩年に碓氷郡磯部郷 の所領に在ったことが伝承の根拠となっている。 異説:現存する磯部城の構造からは戦国時代の築城と考えられている。 ・武田信玄は弘治3年より西上野へと侵攻を開始するが、西上野最大の在地勢力である箕輪 城主長野業正の抵抗により成果を上げられなかった。 ・永禄4年、長野業正が死去し嫡男業盛が跡を継ぐと武田氏の西上野侵攻が本格化する。 ・築城:永禄5年頃に武田氏が磯部城を築いたと推定されている。 ・武田氏は永禄7年に安中忠政の松井田城を攻め落とす。磯部城は安中忠政の嫡男忠成の安中 城を窺う拠点であった。 ・天正10年に武田氏滅亡後、信濃進出のため北条氏は松井田城を大改修している。 だが、磯部城に関する歴史は全く伝わっていない、と云います。 <2> 佐々木盛綱の裔孫から磯部氏が派生した 佐々木盛綱を中心に意識した系図を図表4に示します。 参考・この系譜はウイキペディア「佐々木盛綱」を中心に、その祖先・子孫をウイキペディアで検索、 部分的な系譜を接続して作成し、考察に不必要な部分を削除しています。 この人の裔孫を辿ると、次の様なことが判ります。 1 上野国磯部家は盛綱の嫡流とも云えます。 ・佐々木盛綱は、上野国碓氷郡磯部郷に領地を得ると、そこに磯部城を築城し、自らも磯部氏を名乗ります。 2 盛綱の孫・加地氏・新発田氏ほか越後に勢力を張る者あり、揚北衆(阿賀北衆)の地頭。 3 別に、六男・時基は佐々木氏の故地・近江国甲賀郡石部(現湖南市石部)の地に戻り、 近江国磯部家を開きます。盛綱の父・秀義は室町期に近江総追捕使となり、没後は贈近江権守 となった人です。 4 盛綱七世孫・秀実は神官職を安芸国に得たと云い、安芸国磯部家を開きます。 ・安芸国磯部家は周防国磯部家となったものと思われます。 安芸国領主・毛利輝元は関ヶ原の戦いを機に大幅に領地を削減され、長門・周防二国に減らされます。 配下の武士達全員を引き連れて減封の地に移るのですから、経済的には大変だった筈です。 安芸国磯部家は周防磯部家、亦は、長門磯部家となった筈ですが、探しても見当たりません。 5 周防・長門では別系統かもしれない磯部氏が見えますが、これ以上の調べは打切りです。 1 浄西寺 磯部家墓所編:開祖が磯部常安(是頓) ・磯部家縁起:磯部家はその始祖を遠く南北朝時代(1330)以前の菅原氏にまで遡れる由。 ・1578・天正6年、争乱を逃れた宗安はその子/常安を伴い此地に身を寄せ、 下松屋磯部の初代となる。 ・・「磯部家文書」はネット上にあり。 ・常安は出家して是頓と号し浄西寺の開基となった。 2 「忌宮神社宮司 礒部正昭」(山口県神社庁だより)の名あり。 3 現在、礒部姓は山口県に多く、広島県は少ないが相応にある、と云えます。 参考(名字由来ネットの磯部姓の数): 山口(周防長門)・620人、広島(安芸)・120人、群馬(上野)・80人、滋賀(近江)・90人 更に、次の図表5に図表4の*印を説明します。 図表5 図表4の*印の説明文──────────────────────────────────────────*1佐々木盛綱 :伊豆の流人時代の源頼朝に仕え、その挙兵に従い治承・寿永の乱で活躍。*2 加地信実 :佐々木盛綱の嫡男・佐々木信実。鎌倉幕府御家人。越後国加地荘地頭、備前国守護。*3近江国磯部家:盛綱父・佐々木 秀義は、平安末期の武将。兵部丞、近江惣追捕使、贈近江権守、 近江国蒲生郡佐々木荘(近江八幡市安土町)を領し、秀義の母方の伯母は藤原秀衡(説:藤原基衡に 嫁ぎ、自身は源為義の娘を娶って猶子となり、佐々木氏は有力武士だった。 ・加地信実六男・左衛門尉時基は近江国甲賀郡石部(湖南市)を賜り、石部と名乗らず磯部を名乗る。 ・吉御子神社(滋賀県湖南市石部西1-15-1) 祭神:吉彦命・鹿葦津姫命・吉姫命 創建:伝・崇神天皇68年、例祭:石部祭(5月1日) ・吉姫神社(滋賀県湖南市石部東8-4-1)祭神:木花開耶姫・上鹿葺津姫・吉比女大神、創建:不詳*4安芸国礒部家:芸藩通志、賀茂郡の条に、礒部氏、寺家村、先祖・礒部左近秀実、佐々木盛綱七世の孫にして 建武年中上野国磯部より此に来りて里社の奉祀となる。 ・また、この氏人ならむと思はるる礒部氏がこと、太平記巻の二十七に見ゆ。いはく。かかりし後は いよいよ師直権威重く成て、三条殿方の人々は面を低れ眉をひそむ。中にも右兵衛佐直冬は、中国 の探題にて備後の鞆におはしけるを、師直近国の地頭・御家人に相触て討ち奉れと申し遣はしたり ければ、同九月十三日、杉原又四郎二百余騎にて押寄たり。 ・にわかの事なれば防ぐべき兵も少なくて、直冬朝臣すでに誅せられ給ひぬべかりしを、礒部左近将監 が若党散々に防ぎけるが、いづれも屈強の手だれにて志ざす矢坪を違へず射ける矢に、十六騎に手負 て、十三騎馬よりさかさまに射て落としたり。────────────────────────────────────────── 一応の情報を得たので、ここで締めます。 1 古代磯部氏を追って、上野国に磯部郷を見つけました。 2だが、そこには思いも掛けない中世(鎌倉時代)の磯部氏を見出します。 その佐々木流れ・上野国・磯部氏の裔孫から、少なくとも、次の礒部家が分かれています。 ・近江国・礒部家 ・安芸国・礒部家 3更なる礒部家は、周防長門の礒部家、江戸幕臣の礒部家です。 ここで追求の調べを止めます。 次報は「礒部探しC 常陸国の「磯部」が上野国に及んだか」とします。