数年前のブログになるのですが、「社会の底辺の人とは関わってはいけません」なる女性ブロガーのブログが話題になったことがあります。話題といは言っても、ネット用語でいう「炎上」というものでしたが…。

 

 現代社会の原則として、人間はその出自に関係なく平等であるのは言うまでもありません。この事について異議を唱える方は現代社会においてはいないでしょう。

 しかし、社会とは人間によって構成されている以上、そこに「格差」というものがどうしても存在してしまいます。

 

 身体の特徴、資産の有無、職業や学歴など、社会には様々な他者との比較対象となる差異が存在しますし、人間社会では特に資産の有無による「格差」という差異は過去の歴史から見ても明らかなように人間という生物が存在する限り、無くなるものではありません。

 

 格差…特に資産関連の格差は「持つ者」と「持たざる者」という差異を作り、社会に「階層」という目には見えませんが、それぞれがその生活形態によって形成される小規模な社会を作ります。いくら人間が本質的に平等であるのだと声高に唱えても社会から格差が存在し続けるのは、それが人間の本能だからなのでしょう。

 

 野生動物はその個体力の差で、餌場となる縄張りを得たり、子孫を残せます。人はその個体力が「資産」であると言っても過言ではありません。人の歴史で「持つ者」と「持たざる者」という関係を解消できた時代は無かった訳で、恐らくこれからも無いでしょう。

 

 現状、自分が属する階層の中で、自身の境遇について、本当の意味で達観できる方はごく少数だと思います。人には「欲望」という本能があり、また「欲望」がなければ社会は発展し得ないからです。

 

 小難しい話を続けるつもりはありません。

 つまり、いくら理想論を掲げても、社会にはれっきとした「階層」があり、「格差」は存在し続けるものであるということです。

 前述の女性ブロガーさんのブログの意味することも、この現実を踏まえた上で、再度読み返せば、少々暴走モードな部分は否めないのですが、それでも彼女が言わんとしたことが理解できると思います。

 

 彼女のブログを「差別」と断ずるのは簡単です。

 しかし、恐らく彼女はその意識の中にも「差別」しているという気持ちは持っていないのではないでしょうか。これは彼女のブログを読んでの自分の所感ですが、彼女は「差別」ではなく、「区別」をしているのでしょう。

 ブログ自体も万人向けではなく、御自分と同クラスの階層に属する人々に向けてのものであると推測します。とはいえ、不特定多数の人間が目にすることができるブログという体をとっているということはどこかで、目線の高い特権的な意識がチラホラしてしまうように感じてしまう方も多いようです。

 

 いくら人間の「平等」を唱えても、人には個別の能力の差異があります。

 さらに出自の「平等」を唱えても、生まれた境遇の違いは巨大な「差異」となって、その後の人生に影響を与えるものです。

 「持たざる者」の階層から「持てる者」の階層に成りあがった人間を評価するのは、「持てる者」として生を受けた者より、その道程が遥かに厳しいからなのでしょう。

 逆に「持てる者」の側で生を受けたにも関わらず、受け継いだものを越えられない方の評価は「二代目は〇〇社長」なる言葉に代表される通り、社会の目は厳しいものです。

 

 我々はともすると現在の日本という国に生を受けれたこと自体が「幸運」なのかも知れません。「格差社会」や「貧困社会」と呼ばれて久しい日本ですが、それでも他の国々と比較すればその実態は同じ貧困や格差には大きな差異があります。

 確かに下をみればきりがありません。しかし様々な側面から比較すれば世界の中で「恵まれている国」に違いはありません。

 このように書くと、「いやいや他の先進国は…」的に仰る方もいらっしゃるでしょうが、そのメンタリティーとは実は日本国内で「格差」を声高に述べることと大差ないものです。

 

 極論ですが「生きてさえいれば何とかなる」というのが日本という国です。

 以前のブログで「ネットカフェ難民」について、あれこれ書きましたが、彼らとて、生活の再建を行うことは決して不可能な話ではありません。

 実際にホームレスやネットカフェ難民のような立ち位置から生活を再建できた人間は少ないありません。だからこそ、彼らに対し同情する声がある一方、それ以上に厳しい意見が飛び交う理由はそのようなところにあるからでしょう。

 

 我々は子供の頃から事あるごとに「差別はいけない」という教育を受けてきました。

 しかし、現実問題として「差別」は無くならない。

 人間という生き物は「誰かの成功」より「誰かの不幸」の方により琴線を刺激される側面があります。それはどこかで他者と自分の間に「格差」を見出し、自身の心の平穏を保ちたいという本能からくるものかも知れません。

 

 確かに「差別」というものをその言動や行動に表すことは社会的に問題があります。しかし、だからと言って、本能ともいえる「差別」は現実社会においても、人の心の中からも消し去ることはできない。つまり、いくら科学や文明が進歩しても「差異」や「格差」が無くならないのは人による社会には「差異」や「格差」が必要不可欠なものであると結論付けられるのではないでしょうか。

 

 ネットやTVに新聞、雑誌。あらゆるメディアで「平等」が叫ばれていますが、先にも書いた通り、「人の本質としての平等」以外には個別の差異が生じるのはごく自然なことです。

 これを強制的に排除することは人間性の否定にもつながります。

 何度も同じ話を繰り返して恐縮ですが、「差異」や「格差」は社会の常態なのです。

 

 なので我々は自身と他者の「差異」や「格差」、己の属する「階層」をして卑下する必要もないし、嘲笑を受けるいわれはありません。逆に自身と比較して、他の階層を羨望や蔑みから、誹謗中傷する必要もないのです。

 今の自身が置かれている現状に不満があるのなら、今の現状を変えたいのならば、自分自身がまず変わることです。それが出来ないのならば口を閉ざす他にありません。

 社会は同情してくれこそすれ、結局は誰も助けてはくれません。信じられるのは自身の能力だけです。それでも最低限の生存が保証されているのが日本社会です。

 飛ぶか、それとも飛ばないのか、それも個人の自由。

 

 選ぶのは本人次第です。