喫茶店では、なぜかよく頭が働く。
店内では、いろいろな人達が同じ空間で、個々にいろんなことをしている。
眼鏡をかけた男性は、簿記の勉強でもしているのか、ぱちぱち計算機を叩き続けている。
カラフルなタイツをはいた若い女性は、長いスプーンを器用に使い、目の前のパフェをほお張ると、下唇を満足そうになめた。
本を読んでいる中年男性は、歴史小説でも読んでいるのか、りりしい顔をしたまま微動だにしない。
大学生らしきカップルは、次から次へと話題が溢れて出るのだろう。二人の会話は途切れることがない。
同じ顔ぶれのまま時間が過ぎていく。
そうすると気づかないうちに店内に不思議な秩序みたいなものが出来上がっていく。
互いが互いの存在を感じながら、一つの雰囲気を形成しているように。
しかし、それはいつまでも続くことはない。
新しい顔ぶれの人が入って来るたび、また新たな場の秩序みたいなものが作られていくからだ。
時間とともに。
入れ代わり、立ち代り。
その繰り返し。
人間の顔(顔だけじゃなく存在すべて)は、すごい刺激媒体だと思う。
新しい顔ぶれの人が店内に足を踏み入れた時、自分の頭がよく働き始めるのがわかるから。
学校にいた頃を思い出してみて欲しい。
教室に転校生が入ってくると、自分が今まで持っていたクラスに対するイメージが、そのままでは通用しなくなり、大きく揺さぶりをかけられているあの感じ。
転校生をまじえた上での、新しいクラスのイメージというものを再び形成させるため、目の前に急きょ現われた人から、視覚や聴覚、五感を使って情報を読み取り吸収しようとする。それはそれは、すごい早さで。
体が勝手にそう働いてしまうのだ。否応なしに。
新しい顔ぶれを飲み込み、そのまま時間を過ぎた店内には、しばらくするとまた新しい秩序のようなものが生まれていく。
誰もが無言で、決して言葉を交わすこともないのだけれど、互いに場の空気を作っているという共有の感覚がそこには確かにあるのだ。
だからこそ、その場にいると心地いいのだ。特にうまく働いている時は。
私も無言で、あなたも無言。でも誰かがそばにいて。何をしているのか、よく知らないけれど、お互いにそれを妨げる気はないという、共有の感覚が心地いい。
どこかしら守られているような思いがするのは、私だけか。
店はその場にいる人によって完成させられる、というのは本当の話だ思う。
私も、ただこの席に座って、目の前の原稿にうんうん唸っているだけじゃないのだ。
その場の雰囲気作りに心ならずも貢献しているのだ。なかなかやるね。
おや、またそうこうしているうちに新しい顔ぶれが。
うっかりしていると気づかないうちに、人を見すぎてしまい目があってしまうことがある。
そんな時は、あくびをするフリをしてやり過ごすのだ。
「私はどこまでも無防備な人間です。すぐに手なづけられる愚鈍な奴です。どうかご安心を」
そんなメッセージを動きにこめて。
こんなことだから原稿は一向にすすまない。
【2010.1月27日 加筆・修正】