Are are, Arue?

Are are, Arue?

デクノボー万歳!

Amebaでブログを始めよう!
今年も宜しくお願い致します。

と、堅苦しい挨拶から始まったのには理由がありまして、
本年度はかなりインの時間が限られてくる感じなのです。
正直な話をすれば、お世話になっていたイベント
およびコミュニティの停止も含め、
もうピグに残っている理由も無くなったようなものなので、
アカウントを消そうと思っていたのですが、
今日たまたまお風呂で読んでたからくりサーカスに
「出来事に深く関わった者は、望む望まないに関係なく、
どんなに辛くともそれを最後まで見届けなければいけない」
と言う一文が出てきまして、
なんだかんだいいつつ「先生はお前の方だ、藤鷹ジュピロ」
とテンション急上昇してしまい、結局アカウントは残しておくことに決めた次第です。

大事なことは、自分の人生の主人公は自分自身で、
さらに脚本兼舞台兼役者=世界全ては、
自分の意志によって創り出されているという事を、
片時も忘れないことであり、感情に流されることなく、
自分の役を最後まで演じきるという事だけです。

皆さんもご自分の役割を、最後まで華麗に演じきってくださいませ。
未だ先は長いですが、来年が終われば一段落と言う感じです。
ともに楽しい一年を過ごしていきましょう。
久しぶり且つ今年もあと残り僅かとなりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
此方は色々と激動の2014年を送っておりました。
一言で表現すると自立するための一年と言うことだったのですが、
無論、人間が一人でできることには限りがありまして、
仲間と協力して目標を達成しつつ、且つそれでも尚一人の個人であり、
存在するという責務を己一人で担うための訓練機関であったような気がしています。

その中で一点、非常に印象に残ったフレーズがありました。
タイトルにもなりました「赦して愛して感謝して」です。
結論からいえば、つまるところ、私=宇宙の道理としての神=存在としての他者であり、
故にこの世界と言うのは、全て愛からなっており、その観点に立った時、
身の回りに現れてくるもの全ては気づきの為の助けであり、
また宝探しゲームのようなものであるわけですが、
人間は感情に流されやすい動物でもあります。
その感情を上手く御することができるようになるまでのステップアップとして、
今まではホ・オポノポノを利用していたわけですが、
それ以前に、「赦して愛して感謝して」が、
この宇宙の全てであるという事を看破した人がいた、
という話をうかがう事が出来ました。

赦してないものを愛することはできない。
愛してないものに感謝することはできない。
そして、他者=自分である以上、それは自分と他者、
つまり目の前に現れる世界そのものをともに受け入れる為のメソッドである。
非常に理に適っている考え方だと思います。

2015年はまた今年以上に激動の、今までの総決算となる年になるでしょう。
その時に、過去のトラウマや現在進行形のドラマに巻き込まれないためにも、
「赦して愛して感謝して」が全てであるという考え方は、
非常に役に立つと感じております。
宇宙の理は非常にシンプルです。あとは実践して下さい。
それでは、今年も色々とあったと思いますが、
来年も更に実り多い一年をお過ごしください。
知識というのは、独占すれば支配の為の道具になりますが、
共有すれば全体を幸福にし、更なる発展を促す道具にもなります。
丁度、一厘の秘密の祝詞について、公開の許可が出たので、
この場を借りて公開する事にします。
しかし、そうやって公開しながら、
この祝詞の由来や意味については全く判っておりません。
もし知識のある方がいらっしゃいましたら、なんでもかまいません。
御教授願いたいと思います。
またこの祝詞、気が向いた方は、是非聖地や神社で
奏上していただければいいかと思います。
場の雰囲気が一瞬で変わります。でも気が向かなければする必要はありません。
出所も意味も分からないものですから、誰かがやらなければ! 
みたいな義務感では、是非しないで下さい。
啐啄同時という言葉があるように、
タイミングがずれれば孵る雛も孵らなくなります。
こういうものがあるという事だけは知識として押さえておいて、
是非心の奥底、無意識に委ねてください。それで全てうまくいきます。

あまたまぬ
めぐるかむはら
おほとまべ
うつりまとまり
まりあまな
まわりかむなの
ともむすひ
おもだるまりみ
あられはえ


追記:
一部訂正しました。どうもカタカムナ祝詞だったようです。
 人間にできる事と言うのは本当にたかが知れていて、
誰かが心の底から苦しんでいる時に、一体何ができるだろうかと考えると、
思ったより何もできないことに気付く。
 例えば、励ましの言葉も、逆にその言葉で、
人を傷つけた経験があれば言えなくなる。
お金を渡すというのはシンプルだが、
それで解決できない問題もある。
そっと寄り添うというのも、物理的な距離が近くなければできない。
 結局、そこまで分かってしまうと、
苦しんでいる本人自身も、周りの人に助けを求める事が出来ずに、
酒に魂の安息を求めることになってしまう、
というのは意外とよくある話だ。

 しかし、そんな状況でも、誰でも確実にでき、
しかも誰かの負担にならないことが存在する。
 それは祈りだ。
 苦しむ人の安らぎと幸福を、自分の心の中で祈ること。
 その祈りが届くかどうかまでを考え出すと、
無意味にしか思えない行為だが、残念ながら、
本当に救いようのない、絶望の中で苦しんでいる人間に対して、
他人ができる事は、突き詰めて考えていくとそれしかないのだ。
 これは、本当にささやかな、自分の心の整理に過ぎないが、
同時に、本心からの、かつ間違いのない、
他人のためにできる最大の、そして、
見返りを一切求めないという意味で、純粋な利他的行為でもある。

 そこから一歩踏み出すと、例えばこうして僕が書いているように、
自分の存在を駆使して、誰かに何かを伝えようとする行為になる。
 勿論、そう言った行為が功を奏して、状況が改善する事もあるだろうが、
逆に悪化する事もある。
自分と他人は違う。自分にとっての励ましが、
相手にとっての侮蔑になることだって、ある。
他者に関わろうとするものは、その一点を忘れてはならない。
 その上で、全ての責任を自分の背に負うと決めたうえで、
己に為せる行為をもって、自分の知る真理を伝えようとする。
それに形を与えていく。
どんな形であれ、これが創造=creationである。
これもまた、ひとにできる事である。

 その、創造の一番簡単な形。
それは、生きるという事だ。
 自分と言う存在を駆使して、自分と言う存在を、
この世界に表現していく。人間が、ただ生きているというだけで、
これは立派な創造行為なのだ。
 勿論、生きるという事も創造である以上、
それに伴う結果は自分で背負わざるを得ない。
その過程に苦しみも生まれるだろう。
だが、他人のために祈れる人は、この時に、
自分の外側にも祈りが満ちていることに気付けるのだ。
自己完結の祈りが、そこから踏み出し、生きるための支えになる。
 祈り自体が持つ力は無に等しくとも、
それが集まった時の事を想像すれば、祈るという行為自体の意味が、
自分が生きていくための意味づけと重なって、力を持ってくるだろう。

 まずは祈る。そして生きる。最後にそれを意識する。
一人間という存在には、これだけの事ができるのだ。
ひとまずはそれで十分なのだ。