「魔法」が生きていた時代、あるいは手前勝手な演技論 | 雷人の部屋

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催眠・潜在意識から見たココロとカラダ、ときどきタマシイの話。

これから話すことは、同業者にとって耳の痛い話かもしれない。
またこれは私の独断と偏見にしか過ぎないことも、最初に言っておく。

 

職業マジシャンが自分のことを「魔法使い」と言って、やっていることを「魔法」と称しているのをしばしば目にする。

 

より不思議を感じさせるためのスタンスとしては悪くないと思うのだが、いかんせんやっていることはただの「手品」で、「じゃあ他のマジシャンと何が違うの? ただの手品じゃん」と言われると(言わないけど)多分一言も言い返せないんじゃあないかな、と思うのだ。

 

ただの手品、と思ってもらえるうちはまだいいんだけど、単なる「痛い人」になったら、エンターテイメントとしてはちょっと難しいかもしれない。

 

 

先日、江戸川乱歩の『黒蜥蜴』を読んだのだが、鮮やかなトリックを「魔法のように」とか「まるで魔術師のように」というように表現していた。しかもこの文脈では「魔術=手品(この時代だと奇術か?)」として扱われているのだ。

 

つまりこの時代、おそらく1930年代だと思われるが、魔術師(奇術師)は本当に魔法を使えると信じられていた(半信半疑だとしても)のだ。

この時代のマジシャンは普通の人間ではない異形の者、あるいはあの世とこの世の境界線上に立つマージナルな存在、少なくとも一般社会からははみ出た者だった。

だから魔法が使えると信じられていたのかもしれない。

 

今ははみ出し者の存在が許されにくい時代だから、昔のスタイルの「魔術師」を演じるのはちょっと難しいだろう。

1970年代にユリ・ゲラーがやった「超能力」というのは、もしかすると「魔法」のモダンなスタイルだったのかもしれない。

それですら、徐々にリアリティを失いつつあるが。

 

魔法にリアリティのない時代に、どう魔法を信じさせるのか?

もし真剣にマジックに関わっているのなら、避けては通れないテーマだと思うが、いかに?