「見慣れた街の景色さえごらん愛しさに満ちてる」
夜な夜な散歩しながら空を見上げると、珍しくたくさんの星が出ていた
こういった些細な喜びが、日常に彩りを加える
鬼束ちひろを愛してやまない自分は、常日頃「鬼束ちひろはもっと評価されるべき」と考えている。しかし、先日友達から受けた指摘には心ならずも頷いてしまった。
『鬼束が大ヒットする世の中は病んでるよ』
実際、自分の友人で音楽観を共有出来る友人は少ない。自分の友人は、比較的ロックを好み、音楽を聴いて、テンションを上げる方が多い。引き換え自分は、いわゆるノリノリな曲はほぼ聴かない。
基本的にメディアで取り上げられる楽曲は、いわゆるノリノリな曲であり、TVにかじりついている自分も、絶対的にそういった部類の曲の方を圧倒的に多く耳にしているはずだ。それでも、悲壮感漂う影のある曲を好むようになったターニングポイントはどこなのだろうか?そして、そういった曲を欲するようになった心理状態になったのはいつからだろうか?
人とは相容れない部分が多いこのろくでもない素晴らしき人生(GEORGIAかパー)を、自分でもまだ掴めていない気がする。楽しい生き方とは?
良い事なのか悪い事なのかは不明だが、自分の精神状態はその時に心が欲する音楽でわかる。元気な時は、よく飽きないなと自分でも思う程にラルクを聴き続け、くたびれるとミスチルに助けを求め、病み始めるとXか鬼束ちひろしか聴けなくなる。そして、ここ数日、案の定Xか鬼束ちひろしか心はリクエストしない。音楽と心の関係は実に深い。形は違えど、心の需要を満たしてくれるそれぞれのアーティストに感謝と尊敬