エル・グレコ(El Greco、1541年 - 1614年4月7日[1])は、現在のギリシアクレタ島イラクリオン出身の画家。本名はドメニコス・テオトコプーロスΔομήνικος Θεοτοκόπουλοςラテン文字転写:Doménikos Theotokópoulos)で、一般に知られるエル・グレコの名は、スペイン来訪前にイタリアにいたためイタリア語で「ギリシャ人」を意味するグレコにスペイン語の男性定冠詞エルがついた通称である[2]マニエリスム後期の巨匠として知られる。マドリードにあるプラド美術館には、グレコの作品が多数展示されている。 

 

ヴェネツィア共和国統治時代のクレタ島のカンディア(現イラクリオン)に生まれ、イタリアを経てスペインに渡り、トレドに暮らした。 ギリシア人でありながらフェリペ2世に仕えようとしたが、グレコの作品はフェリペに評価されず、宮廷画家になることは叶わなかった。グレコは晩年に至るまで自身の作品にギリシア語の本名でサインをしていた。 グレコの現存する作品のおよそ85%が聖人画を含む宗教画であり、10%は肖像画となっている[3]。グレコは絵画だけではなく、彫刻や建築の構想も手掛け、特にスペインにいた時期は建築に強い関心を寄せたが、実際に建物の建築をすることは無かった[4]。一方でグレコは自分が描いた油彩画が収められる祭壇衝立の設計、工房の彫刻家の人物像の原案の素描、建築家と共に祭壇衝立の設置される礼拝堂の建築、採光の考案なども手掛けた[5]。 

 

グレコは、1541年に当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレタ島の首都であり港市であるカンディアで生まれた。ビザンティン帝国は1453年オスマン・トルコによって国としての歴史に幕を下ろした[6]。しかし旧支配地域ではビザンティン美術の伝統であるポスト・ビザンティンが残っていた。それはカンディアでも変わりなく、宗教祭事及び図像学的にカトリックとは異なった世界が形成されていた。グレコはその影響を受けて育った面もある。当時のグレコの作風にはポスト・ビザンティン美術の影響が見られる[7]。カンディアではこのように後期ビザンティン美術の伝統を継ぐ画家となり、同時に独学で部分的にイタリアルネサンス美術の手法を取り入れたと考えられている。1563年にはイコン画家として独立していた[4]1566年に親方であるグレコがカンディアで金地に書いたキリストの受難図があり[8]、それをくじで売却するための査定の許可を求めている[4][9]。また同年、トマス・バレストラスによりテオトコプーロス兄弟が何らかの形で苦しめられていたことに対して、バレストラスがそれをやめなければガレー船送りにするというヴェネツィア政府の公文書による警告が残っている[8]。1561年から1565年はギリシアの技術でイタリアでのやり方で働く予定だったらしく、ヤコボ・バッサーノイタリア語版の門下の関係にあったことが指摘されている[10]。 グレコは1567年の春か夏、遅くとも1568年の春か夏にギリシャ系クロアチア人ジュリオ・クローヴィオ英語版の推薦を受けてヴェネツィアに渡っていた[11][注釈 1]。その際ティツィアーノ・ヴェチェッリオに弟子入り、もしくは工房の外でその様式を学んだ可能性の方が高いことが指摘されている[4]。これによりグレコはビサンティン方式の一切を放棄したわけではなかった。しかし色彩遠近法解剖学、油彩技法の使用などの点でヴェネツィア・ルネサンス方式を習得していった。他にもヴェネツィアで西欧流の技法や図像、地図製作の知識を習得した[11][12]。当時ファルネーゼ家は教皇パウルス3世を輩出して以来、美術の建築のメセナ[注釈 2]として世に知られていた。グレコは移住の際当時のスペイン人聖職者や人文主義者などがしばしば訪れていたアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿知的サークルと交流を持ち、パラッツォ・ファルネーゼ(ファルネーゼ宮)に自由に出入りができた。また、それゆえに同家のカプラローラにあるパラッツォ・ファルネーゼの装飾にも参加したと考えられている。1570年までヴェネツィアに留まった。 1572年7月6日、突然グレコはファルネーゼ枢機卿に突然の解雇についての釈明の要求と撤回の嘆願を請う手紙を出しており、この頃には既にグレコが解雇され、その上嘆願も届かなかったことが分かっている[13]。同年、サン・ルーカ画家組合[注釈 3]に「ピットーレ・ア・カルテpittore a carte(紙に描く画家という意味)」として登録され、加入している。当時イタリア労働組合の構成員は親方に限られていたことから、この時までにグレコは親方として自分の工房を持っていたことが分かる。これ以降グレコの絵画はイタリアの影響が色濃く反映されており、主に個人の顧客向けの肖像画や小型の宗教画を描いた。当時のイタリアの絵画の主流はヴェネツィアからローマに移っていったため、30歳を迎えようとしていたグレコも、ジュリオ・クローヴィオの推薦を受けてローマへ移動し、1576年から1577年の間定住した。ローマでのグレコの主なパトロンはフルヴィオ・オルシーニ英語版であった[14]。後に勉強のためイタリア各地(パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、パルマ、フィレンツェ)を放浪し、その後にスペインへ渡ったと言われる。 

 

グレコがスペインを目指した理由は明確ではないが、1577年の春にはマドリードにいたことが記録されている[4]。グレコが到着した時代のスペインは、レコンキスタでの勝利とコロンブスによるアメリカ海域での新世界の侵略、そしてカール5世の国王就任により急激に力を強めていた。仕事以外ではトレドに定住するようになったが、この時期彼は作品の査定額や技術的問題、図像上の問題でグレコ自身やその顧客による訴訟が起こされたことが記録に残っている。 トレドにグレコが向かった理由は、当時神のごとき存在であったミケランジェロをローマで酷評したことが原因と言われる。グレコはローマにいられなくなったという伝説が残るほど辛辣は評価をミケランジェロの絵画に下した。一方でミケランジェロのデッサンに対してはグレコは絶賛している。 当時スペインの芸術家たちは視覚芸術を「自由学芸」、もしくはアカデミックな知的活動であるという認識は広がってはいなかった。そのためフェリペ2世の支援があったにもかかわらず、芸術家たちの社会状況はイタリアと比べてひどく劣ったものであった[15]。 スペインでの初仕事として大聖堂から《聖衣剥奪》、サント・ドミンゴ・エル・アンティーグォ修道院スペイン語版からは3つの祭壇衝立を依頼された。《聖衣剥奪》の完成後、作品を受け入れた大聖堂は「キリストに対する冒涜」を理由に報酬を踏み倒そうとした。グレコは裁判で争うが、大聖堂はグレコを異端審問にかけると仄めかし、結局調停案(当初グレコが提示していた額の約三分の一の支払い)を受け入れた[16]。1582年には異端審問所で隠れイスラム教徒の嫌疑をかけられた、ギリシャ人少年の通訳を務めている[17]

 
グレコによるオルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像

フェリペ2世に依頼された《聖マウリティウスの殉教》がエル・エスコリアル修道院の聖堂を飾る祭壇画の一つとして描かれたが、1584年にヒエロニムス会士に受け入れを拒否された。これ以降グレコは次第に工房を広げ、主な仕事として修道院、教区聖堂、礼拝堂の祭壇衝立の一括制作をしつつ、トレドの町とその大司教区にあたる修道院や教区聖堂のための制作も引き受けるようになった。この時期様々な礼拝堂の依頼を個人で、または息子と連名で契約を結んだが、それらの中には実現しなかったものもあった。1603年、グレコはイリェスカス英語版カリダード施療院スペイン語版と祭壇衝立の制作契約を結んだ。しかし1605年8月にその評価額を巡って施療院と対立した。施療院側は祭壇衝立全体で2436ドゥカートとし、《慈愛の聖母》の画中に描かれているひだ襟を付けた肖像画を、施療院にふさわしい人物像に描き変えることを要求した。最終的に1608年に1666ドゥカートがグレコ側に払われることで決着した[18]。1612年から1614年にかけて、グレコは自身の墓碑のためにサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ聖堂に《羊飼いの礼拝》を制作した[19]。本作はプラド美術館に所蔵されている[19]。1614年3月31日に遺言状を作成し、その中でホルヘ・マヌエルを相続人、ルイス・デ・カスティーリャと修道士ドミンゴ・バネーガスをその執行人としたグレコは、同年の4月7日にカトリックの臨終の秘蹟を受けこの世を去った。その際友人で修道士、詩人でもあるパラビシーノ英語版は、以下の墓碑銘を捧げている[20][21][注釈 4]