こないだの都アート巡りは、とても巨きなものを自己内部にもたらした。

 

 

 

アートの第1歩、いや「0歩」目、とでも位置付けるべきか。

が、片方で思うのは、「ようやくそれだけの蓄積が自分の中にできたのだな」ということだ。

 

実際問題、「お金」もそうである。そして「時間」もまたそうだ。

(特に都内の)美術館は、入館料もそれなりのところはあるし、そこに、「貴重なお金を割けるかどうか」だ。

(自分の場合は、1日で何館も周ろうという「逆・貧乏性」も物を言うのだが)

「アートにかけるカネ」というのは、「趣味の最後の極地点」と言えないか。

自分の生活では、それだけで「贅の極み」を尽くしているな、とやはり実感せざるを得ない。

 

そして、「視点・視座・視角」(「知識」も含まれるがそれだけではない)である。

「分かるし、理解できるな」ということに、アート巡りをしながら気づけた。

それだけでなく、深められるし、もっと深めてもいきたい。そうした前向きな、積極的な気持ちをはっきり自覚した。

「理解できる」というのは、クリエイターの問題意識と表現手法両面に対して言える。

が、これには、自分の中に(そうした類縁のテーマやプロダクトに何がしか接してきた)「蓄積」があるからだ。

 

特に大きいのは、「建築」というものを(体系的と言えるかは不明だが)学び始めたことが大きい実感がある。

「自分なりにアプローチの仕方を知っている」というだけで、「現代アート(理解)へのパスポート」を得た気がしたわけだ。

 

次に、「やりたいこと=つくりたいもの」である。

これは、「アートの発見」と表裏一体だった。

自分は、そもそも「アート」(特にその制作)とはあまり縁がない、となぜか勝手に決め込んでいたのだが、その思い込みは、いきなり破壊されてしまったし、またそのことを実に自然に受け入れられた。

というより、「アートという表現方法」に気づけたことで、自分自身をすごくラクにできることに気づいたのだ。

(ここでは当面、「表現の才能・センスの有無」などは問題にしない)

 

こうした「予感」自体は別になかったのだが、「アートやデザインは、余裕が出来てから」と、はっきり「先送り」にしていたのは間違いない。

 

 

「アート」、特に「現代アート」は、知識面でも、実践=制作面でも(言語表現を除けば)蓄積は0に等しい。

(近代までの芸術は、割と好んで見てきたものもある。それ故の素地というものもあるだろう)

それだけ「理解できない」「縁のない」ものとして忌避していたとも言える。

しかし、だからこそ、今は「完全な0」で、スポンジのように何でも吸収できそうな気がしている、まるで学ぶ楽しみを覚えた子供のように。

 

「アート」は単に「学ぶ」ものではない。

が、今は、できるだけたくさんのものを、しかも歴史的に取り入れていきたい。

各地や色々なスポットの「アート巡り」も連続的に行っていきたい。

まだ、好き嫌いも、自分のセンスの有無や方向性も十分に分かっていない状況なのだ。

その積み重ねの中で、「制作」への蓄積やインスピレーションも徐々に得られていくだろう。