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最晩年の山口淑子さん


 山口淑子さんに誘われてシャンソンを聴きに行った時のことを、このブログに書いたばかりだった。亡くなったのは今月の7日だというから、一ヶ月もたっていない。
 初めてお会いしたのは、新潮社の伊藤貴和子さんが「李香蘭 私の半生」を編集していた時だった。その頃、週刊新潮編集部に在籍していた私に、伊藤さんから相談があった。李香蘭の自叙伝を作っているのだけれど、週刊新潮の誌面を使って資料探しができないかということだった。その時から、山口さんとお会いするようになった。なにしろ、山口さんの人生は文字通り波乱の人生だったから、中国時代の彼女の記憶に不確かなところがあり、原稿作成は難航していた。そこで、満州生まれの藤原作弥氏が「助っ人」として登場することになった。藤原さんは後に日銀の副総裁になった人だが、その頃は、時事通信の記者をしていた。、藤原さんに山口さんの李香蘭時代の足跡を追体験する形で、旧満州に取材に行ってもらうことになった。その取材結果を原稿に反映させることで、本を出せる見込みがでてきた。
 本が出版できたのは、それから2年くらい後のことだった。発売されると、たちまちベストセラーになった。私は、その頃、社長によばれ、メディア室という社長直属の部で新しい出版の開発を担当してほしいといわれて、週刊新潮を離れていた。アメリカに新しい出版の勉強に行き、音声出版といっって、CDのソフト(初めはカセットテープだった)を書籍のように書店流通させるプロジェクトをスタートさせていた。その新規事業の中で、ベストセラーとなった「李香蘭 私の半生」を山口さん自身に朗読してもらうという企画を立てたら、社長も「すぐにやろう」と乗り気になった。FM東京でもその一部を放送することにした。その頃始まった「メディアミックス」のお手本になるような企画にしようと私も意気込んでいた。
 参議院の議員会館に山口さんを訪ねると、山口さんは、「やってもいいわ」といった。彼女が、そのとき、「前から思ってたけど、あなたは○○さんに似ているのよね」といった。その○○さんの名前を知らなかったが、新東宝の社員で、軍に招集されて南方に行き、戦死した人だといった。後でわかったことだが、彼女はその人が好きだったらしい。直接,私にそういわなかったが、後にどこかの新聞のインタヴューで、その人のことを語っていた。当時の大スターになった自分と新東宝の社員とでは、恋愛や結婚に発展させることは難しいのではないかと考えているうちに、その人は召集されてしまったということだった。私にその人の面影を感じるといっていたが、それで、彼女からコンサートや食事にお誘い頂くことになったのか・・・・・。
 ラジオで放送し、カセットテープで出版するための朗読台本は、本をベースにして私が書き上げた。その台本を山口さんに読ませたら、彼女が考え込んでしまった。ラジオで朗読が上手くできなかったらどうしようかしら・・・・・・。悩んでいる風で、「少し考えさせて」ということになった。本を作るときも、彼女は迷いに迷い、行きつ戻りつし、印刷がはじまってからも、「出版をやめられないかしら」と言い出し、伊藤さんを困らせたこともあった。結局、悩み、迷った末に、私の企画はやめたいと謝ってきた。
 本が出てまもなく、劇団四季の浅利慶太さんが舞台化したいと言い出した。浅利さんは仏文学者、白井浩司先生の門下で私とは同門の先輩でもあり、入魂にしてもらっていたから、その話は浅利さんからも聞いていた。舞台化までには、本の刊行から2年もかからなかった。その青山劇場での初日に、ちょっとしたハプニングがあった。劇場ロビーで私は山口さんとお会いした。そこに、劇団四季の役員で音楽評論家の安倍寧さんもいた。安倍さんは浅利さんの同級生で、やはり同じ白井浩司門下の先輩でもあり、旧知の方だった。いよいよ開幕の時間が迫ったとき、山口さんが急に顔を両手で覆い、「私、やっぱり見られないわ。怖いの」と言い出した。私と安倍さんは顔を見合わせ、「山口さん、何をおっしゃるんですか?」と同時に同じことをいった。それでも、彼女は首を横に振っている。劇団のスタッフがやってきて、来賓の中曽根総理も着席されました、と告げた。浅利さんは山口さんが着席しなければ、幕を上げられない。私と安倍さんは、黒いオーバーを着たままの山口さんに「大丈夫ですよ、山口さん」と声をかけながら、抵抗する彼女の背中を強く押して劇場の扉を入った。2階席の客たちが、何事が起こったのかという顔で一斉にこちらを見た。中曽根総理も、後ろを振り返り、山口さんに会釈をした。総理の一列後ろに彼女の席があった。幕が開いた後も、私は山口さんの後ろの席で、時折彼女の様子を見たが、ちょっと怖い顔をしてじっと舞台を見つめていた。
 李香蘭から山口淑子になった後、ワイドショウの司会者になり、参議院議員にもなったのだから、そんなにいつも優柔不断であッたとは思わない。しかし、こと李香蘭にかかわることになると、彼女は極端に慎重になり、優柔不断になってしまうように思えた。何も知らずに軍部の満州経営に加担してしまったという悔いがよほど強いものだったのだろう。最後にマスコミに登場したのは4年前。そのとき、驚くほど若くきれいな90歳だと思った。