亡くなった車谷長吉さん 先日、「山海塾」の公演に誘われて観にいった。昔、麿赤児の舞台を紀伊国屋ホールで観て、興奮したのを思い出したが、実は、天児牛さんの山海塾の舞台は初めてだった。麿赤児の時代より、ずっと洗練された舞台になっていた。
20年くらい前に、宮川久美さんのバーで天児牛さんに会ったことがある。彼は久美さんのパリにあったバーの常連だった。何の話だか忘れたが、彼とちょっと議論になった。舞踏家だけれど、肉体派という感じはしなくて、華奢な身体のインテリという印象だった。山海塾はパリを拠点に活動している間に変質したのだろうか? それとも、もともと天児牛さんの体質のせいなのか?
「山海塾」を観にいった日の何日か前、作家の車谷長吉が死んだ。ショックだった。69歳、若すぎるよ。少し年上だが、同じ70年代初めに文学を志していた仲間意識がある。何年か前、立松和平が62歳でなくなったときも、同じようなショックを受けた。和っぺいちゃん(我々は彼をそう呼んでいた)には亡くなる前の年にも、京都で山折哲雄先生と面白い対談をしてもらった。ある雑誌に頼まれ、私が司会をした。ショックを受けたのは、懐かしい昔話に花が咲いたすぐ後だったこともあった。
立松和平も、車谷長吉も、「三田文学」で出会った。立松は早稲田文学を拠点にしていたが、三田文学でも原稿を書いてもらった。彼がインドを放浪していた時期だ。編集部員だった私も、そのころ遠藤先生の許可をもらって小説を発表していたが、自分の才能に早々と見切りをつけ、編集者の道を歩くことを決めて、新潮社に入った。
入社してまもなくのころ、文芸雑誌の「新潮」編集部でゲラの校正をしていたら、車谷さんに、また会った。編集部の坂本忠雄さんが、三田の独文科の後輩でもある車谷さんの才能を早くから見つけ、育てようとしていた。その日も、彼は坂本さんに原稿を持ってきていた。彼は三田文学で会った私が「新潮」にいることが少し意外だったのか、「あれ・・・」といって驚いた。立ち話だったが、彼のそのときのいでたちは、すでに無頼な物書きのかっこうだった。作務衣のような上着に坊主頭。履物も下駄だったような記憶がある。それでいて、腰が低く、にこにこして、その態度が、無頼作家風の風貌といでたちに似合わなかった。
少し前に「新潮」に発表した「なんまんだあ絵」は評判をとって、新潮新人賞の候補作にもなっていた。その短編を読んだとき、「なかなかやるな」と思った。文章にも力があった。なんといっても、浮き草のような都会生活者の頼りない世界しか持たない自分とはまったく違った、暗くて恐ろしい、ときに狂気を含んだ、田舎の血族たちの世界が覗けた。彼なら書いていけると思った。しかし、そのころは、まさか、後に大きな文学賞を次から次とさらっていくような大物になるとは、正直、思わなかった。
みんな彼のことを「最後の私小説作家」と呼ぶ。新聞の追悼記事もそう書いていたし、何より本人がそういっていた。しかし、私は初めからそう思っていなかった。私小説の手法を巧みに使ったストーリー・テラーだと思っていた。狂気を帯びた人物がたくさん出てくる。自殺した叔父も狂っていたし、母も時々狂うし、「萬蔵」が愛した女優の瓔子も狂っている。主人公がしばしば狂気を感じさせる。作者と思われる主人公はいつも自分を追い詰め、人との関係に絶えず波乱を巻き起こすから、読者はハラハラしながらストーリーに否が応でも引きずり込まれてゆく。作品の中にかならずサスペンスがある。
学生の主人公が授業中に教授を怒らせる話が、ある作品に出でてくる。その教授は国立大学を定年になって慶応の教授になった独文学者で、ゲーテ研究の第一人者、となれば、多くの読者は、それが東大の名誉教授で文化勲章も受章した有名な相良守峯氏だろうと思いながら読む。授業中に教授がゲーテの作品解釈をしている時、「僕くらいの大学者になればこれがわかるんだな」といった。主人公は思わず「どこに大学者がいるの?」といってしまう。教授は顔を赤らめ、授業を打ち切って帰ってしまう。ここまでは、本当にあった話なのだろう。読者はどうしても私小説的興味をそそられる。
その後、主人公は、教授の弟子たちに殴るけるの乱暴を受ける。弟子たちは、教授の下で働き口を世話してもらおうと考えている輩だと主人公は考える。多分ここからが、著者が作った「お話し」なのだろう、と私は思った。
車谷は「赤目四十八瀧心中未遂」でいきなり直木賞をとった。いきなり、というのは、齋藤慎爾とのモデル問題で訴えられ、「私小説作家」廃業を宣言していきなり、という意味だ。それまで彼は芥川賞候補になり、三島賞もとった「純文学系の作家」と思われてきたから、直木賞の受賞は「意外」、と受け止められた。しかし彼の素質であるストーリー・テラーの才能が突然、現れたわけではない。初めから、私小説的手法を巧みに使う「物語作家」の才能に恵まれた人だと私は思っていた。
それにしても、彼の作品を読むと、同じ時代を生きた懐かしさに、時に涙がでる。劇作家つかこうへいも立松和平と前後して亡くなった。63歳だったか・・・・。彼とも若いころ「三田文学」で出会った。車谷が少し年長だが、みな同じように悩み苦しみ彷徨していた時代を共有したという思いがある。しかし、みな、なぜか早死になのだ。
車谷が亡くなって、また彼の作品を、いつくしむように日々読んでいるのだ。