元日の夕方、娘に誘われて家の近くの井草八幡に初詣に行った。毎年、出かけて破魔矢を買う。今年は、拝殿にたどり着くまで、約30分。もう少し早い時間に参拝すれば、1時間は待たないといけない。なんで日本人はこんなに神社をありがたがるのだろう。信仰心を常日頃から持っているとは感じられない日本人が、正月の神社と仏閣だけはありがたがる。待つ間に、黒々とした神社の森の木々を見ていて、日本人はこの鎮守の森に神がおわす、と考えているのだろうか、と思ったりした。
日本人の宗教はご利益を求める「ご利益宗教」といわれる。ヨーロッパのキリスト教徒は教会に行って、自分の罪を神の前に告白し、懺悔する。年末に新宿駅のそばを通ると、キリスト教会の人たちがいつもながら呼びかけていた。「人間は罪深く、キリストは私たちの罪をあがなうために十字架にかけられました。あなたも罪を告白しましょう」とマイクが大音量で繰り返している。多くの人は、「余計なお世話だ」と感じるか、あるいは、まったく関心をもたずに通り過ぎてゆくか・・・・。キリスト教と日本人の信仰とはなんと違うことだろう。
昨年の秋、3回ほどわが師匠の遠藤周作についての講演を頼まれて、話をした。準備のために、先生のフランス留学中の分厚い日記を読み返したり、ヨーロッパの人々にとっての神と日本人にとっての神はどのように違っているのかについて考えたりした。
日本人には古来、「産土の思想」というのがある。八百万の神というけれど、いたるところに神がいて、その神様たちが、それぞれ土地土地に根ざしている、という思想だ。つまり、神様はローカルな存在なのだ。
一方でカトリックでは、一人の支配的な神がいて、普遍的な存在だ。カトリックの語源、ギリシャ語のKatholikeは普遍的という意味である。
そんな具合に、両者は根っから対立しているが、遠藤先生は、その対立する宗教に折り合いをつけて、キリスト教信仰の日本的なありようを探し求めたのだから、考えてみれば、たいへんに難しい道を歩いた
のだなあと、つくづく思う。その重いテーマを背負ってしまったからこそ、「自分は大説家でなく、小説家なんだ」と自らに言い聞かせるように、始終、言っていたのだと思う。
