今回は少し真面目なお話でも.....





俺には子供が二人いる
二人とも成人している

親権は元嫁で俺にはない
連絡しても会っても構わないのだが
俺は東京で子供たちは多分関西に住んでいる

物理的距離があるから会えないのもあるが
俺は今は会わなくてもよいと考えている

何故なら子供たちを心配していないからだ

いや、こう書くと違うな
言い換えよう

俺の二人の子供たちは
身体の事は別にして
ヒトとして人間として大丈夫だと
そう言う意味で心配していないのです

安心していると言ってもよい



俺は長男が高1、長女が中1の時に元嫁と別れて
京都の丹後から千葉の市川に越した

つまりふたりの子供たちを
ある程度の期間、マトモに教え育んだのです

だから俺の手前勝手な思い込みもあるだろうけれど
「悪くて情けないクダラナイ人間にはなっていない」
と考えているのです





俺が教えるという事で大切にしていたのは
モノやコトバの本質を考えなさいという事です



例えば

「苦労する事は不幸なのか?」

という問いがあるとする



これは殆んどの親が勘違いしていると思うのだが



自分の子供に幸せな人生を歩んでほしいから
あえて苦しい思いをさせたくない



と考えて
偏差値の高い学校へ通わせ
安定した職業に就くように助言し指導し教育する

果たしてその思いは正しいのか?




俺の解は
「正しくもあり間違いでもある」
というものです

それは教えられ助言された子供が判断する事です
子供が自分の人生を歩むのだから
自分で考え判断し決断し行動するよう教える
それが最良だと俺は思っている




もうひとつ
次の様な時、親はどうしたらよいか?

自分の子供が何かを経験したいと申し出たとする

そんな場面でどうすれば良いかという問題です



親は子供に対して様々な事を考え答えるのだが
大切にしなければならないのは
子供の気持ちを考えてあげるという事です

だから親と子供でしっかりと話す事が
とても大事なのだと思う



何でもかんでも受け入れて許可したり
何も伝えずすべてを反対する



それは避けなければならないと考えています







さて最初の問いかけ
「苦労する事は不幸なのか?」
の俺の考えた答えは



苦労してもそこに学びがあれば不幸ではない



というものです





苦労とはクルシクてツライという状態、状況
不幸とはシアワセではナイという状態、状況

それは一見すると
「苦しく辛いなら幸せでない」
と考えるのが当たり前の様なのですが
もう少し深く考えてみると上記の答えになります

苦しくて辛い思いや経験は
ある時には役に立つ事もあります

同じ様な思いを再びしないように
似た場面に遭遇した時などは
別の手段を選択して
結果として苦労を回避出来る可能性が生まれる

勿論、別の手段を選んでも結果的に失敗して
苦労をする羽目になる事もあるだろう

だがしかし
それが経験値となり
ヒト、人間としての成長に繋がると思うのです

どんどん失敗して苦労をして
だけど
生きてゆく、生き抜くという能力は付いてゆく



それが
「苦労はしても不幸ではない」
の意味と俺はしたい





古来から言われていますよね



「苦労は買ってでもしろ」って♪












現在は成人している俺の子供たち











今回のブログ
どうでしたか?

これは今日のTBS「グッとラック!」内で
小学生の子供が学校で
「あなたの夢はなにか?」
という教師の質問に
「将来はYouTuberになりたい」
と答えたら教師に
「それは駄目です」
と言われた
という話題を取り上げていたからです

この教師は
「自身の存在意義」をどう考えているのかな.....

まぁそれはさておき、最近の小学校では
「職業選択の自由は認められていない」
という事態になってしまうから
この教師は論外なのだが
そこで俺が考えたのは
そもそも
自分の子供に対して教育をする事は
「親の義務であり責任である」
というのが大原則だという事です





そこから今回のブログ内容となった次第です




尚、このブログの内容は
俺の個人的考えでの考察なので
正解、不正解を求めたものではありません
あくまで1つの解釈とお考え下さい

なので実践して大変な目にあったとしても
当方に責任の所在はありませんのでご注意下さいね

という事で宜しくお願いします

m(_ _)m






CANON   EOS50D
京都府与謝野町野田川親水公園にて