Philippe Soupault et la naissance du surréalisme
 
Panorama
30 sept. 1966 | 05min 56s
 
 
イメージ 4
 
スーポー 医学の勉強、それは言い過ぎ。私としては、アンドレ・ブルトンの関心は、とくに詩であったと、思っております。この点、間違いないと思います。
 
ですが、精神医学には、関心ありました。解剖学や、病理学よりも、はるかに。
 
で、アンドレの経験のひとつが、シュルレアリスムの歴史においてきわめて重要な役目を果たしましたが、それは、精神医学へのアプローチ。でもあり、気がふれた人たちへのアプローチ、でもあったと、言わせてください。
 
アンドレは強烈な印象を持っていたのです。
 
まだ医学生で、まだ兵役についていた頃です。研修のようなものを、サント=ムヌーの病院だったと思いますが、受けました。そこは、気のふれた人たちのいるところ。
 
強烈な印象を受けました。で、その頃、すでに、アンドレの関心は、いわゆる“狂気”と呼ばれるところに、向けられていたと言えましょう。
 
けれどもこの狂気。天才にも、詩にも、きわめて類似したところがあるのは、お分かりいただけるかと思います。
 
 
――たしかブルトンはフロイトを訪問していたのでは?
 
 
スーポー あっ! ずっとあとです。
 
 
――あと?
 
 
スーポー ええ、ずっとあとです。それに、それもうまくはいかなかったのですよ。
 
 
――えっ?!
 
 
スーポー フロイトが、真剣に取り合わなかったからです。
 
アンドレはたいへんフロイトを尊敬しておりました。フロイトの本はすべて読んでいましたし、とくに夢の分析を。
 
アンドレには、深い、とても深い敬愛がフロイトにあり、フロイトについての知識もあったわけです。フロイトに手紙を書かせ、面会にこぎつけるところまで行きました。
 
ですが、フロイトはシュルレアリスムを、真に受けなかった。これは、アンドレにとって、たいへん大きな失望でした。
 
 
イメージ 3
 
――シュルレアリスムの誕生の日を明確にするのは、ほとんど不可能なのでは?
 
 
スーポー おーっ! できますよ!
 
 
――できる? ではそれは、『リテラチュール』誌が、、、
 
 
スーポー ああ、ちがいます、ちがいます、ちがいますよ。
 
では一つ、お話しいたしましょう。
 
私たち、アラゴン、ブルトン、それに私。『リテラチュール』誌を創刊いたしましたが、ある崇高な思いが、ありました。私たちのやりたかったこと、それは私たち自身と、私たちに影響を与えた人たちとのあいだに、絆を結ぶこと、であったと言えましょう。つまり結果として、ジッドと。ヴァレリーと。ファルグと。マックス・ジャコブと。ピエール・ルヴェルディと。
 
ですが、明らかに、私たちは行き詰まってしまいました。理由は、私たちが非常に若かったということ。それに、非常に反抗的であったということ。それに、別の方でその当時、ダダ運動の爆発が、始まっていたのです。
 
で私たち、ダダ運動に飛び込みました。全身全霊であったと、私は言えます。
 
アンドレは、ダダ運動の渦中にあって、まったく心からの参加でなかったと言う人がありますが、この評はまったく違うと、私は思っております。アンドレは、ダダに、もっとも確信を抱いていた一人であったでしょう。
 
でもこの確信。唯一、反抗という、激しい欲求だけで、つながるものであったやもしれません。
 
私たち、きわめて反抗的であったと言う必要があります。マックス・ファヴァルリ〔インタビュアー〕。あなたは若いから、この時代を思い出せないでしょうが、戦争を、賛美する者たちがいたのです。それは国土の文学者たち。バレスに〔ポール・〕ブールジェ。無分別な人たち。
 
で、どうでしょう。私たち、戦争の犠牲を被ったのです。私たちは戦争を生き抜いたのです。
 
そして突如としてまた、この連中たちが、でたらめなプロパガンダに乗り出そうといたしました。
 
この連中を厄介払いにする。私たちにできるただ一つの手段。それは、反抗すること、ご破算にすること、だけだったのです。
 
 
イメージ 2
 
スーポー あまりに忘れられていること。歴史家も、信憑性ある証言者たちでさえ、忘れていること。それは、シュルレアリスムが『磁場』の出版をもってして始まった、ということです。
 
よく尋ねられました。私もよく聞かれましたし、アンドレもそうです。なぜ私たちが、シュルレアリスムという名前にしたのか、と。
 
この名前は、アポリネールへのオマージュから、選んでおります。
 
アポリネールが発表していたテクストに、タイトルは「オニロ=クリティック〔夢判断〕」。アポリネールはこれを「テクスト・シュルレアリスト」と呼んでおりました。
 
で実際、アポリネールのこのテクストには、私たちのあらゆる関心に、シュルレアリスムのすべての発端に、ランボーにも、ロートレアモンにも、通じるものが、ございました。ですので、このような経緯で、私たち『磁場』を、「テクスト・シュルレアリスト」と名付けております。
 
ですが、『磁場』。書かれたのは、このすぐ近く、グルネル通り。それに、パンテオン広場ですが、アンドレ・ブルトンと私は、あるメソッドのようなものを、これをメソッドと呼べるかですが、選んでおります。
 
精神科医たちが、とくに、今日ではほとんど忘れられていますが、偉大な精神科医ピエール・ジャネ、たちが「エクリチュール・オートマティック〔自動記述〕」と名付けたところの、それに、「白日夢」とも言うことのできた、メソッドをです。
 
ですので、圧力のようなもの、ロートレアモンの、ランボーの、アポリネールの影響に、あと押しされるようなかたちで、私たちは書きましたが、きわめて“自由に”書いたのです。
 
“自由に”。この点、お忘れになってはいけませんよ。シュルレアリスムとは、つまるところ、“解放”でしかなかったのですから。
 
なので、シュルレアリスムの誕生は、1919年、と言えるのでは。つまり、アポリネールの死から、ほどなく。
 
そして、私が申し上げたいのは、アンドレ・ブルトンと私。私たちの決定は、この本を15日間で、15日間というのは、あらゆる批評的、伝統的コントロールから離れて、自由に書くスピードが課題であったからですが、書きました。そして、私たち自身、その結果に、驚愕したのです。
 
驚愕するとともに、私たちの書いたテクストには、笑ってしまう、個所もありました。私がよく覚えているのは、驚くとともに、しばし、笑い合ったということです。
 
この点、アンドレ・ブルトンの笑いについて、ぜひお話しさせておいてください。
 
アンドレ・ブルトンというと、重々しい、生真面目な男で、“法王”と呼ばれたり、これらアンドレを、ずいぶんうんざりさせましたし、これらブルトン評は、間違いです。
 
ブルトンの笑いは、子供の笑い。ですが、ニワトリが鳴くような仕方で強く、笑いました。なかなかない、笑い方です。
 
 
イメージ 1