東京大空襲、 | 美術家 村岡信明 

美術家 村岡信明 

漂漂として 漠として  遠い異国で過ごす 孤独な時の流れ
これを 私は旅漂と呼んでいる

東京大襲を語りつぐ。01

 ❜❜❜❜ 東京大空襲 ❜❜❜❜

~~~~この夜に生き残った人間を“東京原人”と呼んでいる~~~~

 

1945310日午前0時頃、すでに低空から侵入してきたB29から浅草・深川に焼夷弾が投下されていた。その後に空襲警報のサイレンが鳴りわたった。

つづいて侵入してきたB29からナパーム焼夷弾と黄燐焼夷弾が雨のように投下されていった。

ナパーム焼夷弾(ガソリンをゼリー状に固めて鉄の筒に詰めた焼夷弾)で、一発の中に38発の焼夷弾が詰められていて、地上近くになると空中でバラバラに散って落下してくる。親子焼夷弾とも呼ばれていた。

黄燐(おうりん)焼夷弾(マグネシュウムを充填した焼夷弾、炸裂すると華氏2400°の超高熱で燃えつづける)。コンクリートのビルを貫通してから炸裂することを目的とした。

これが人間に当たると、砕け散って即死する。

 

綿密に計画されていた東京大空襲は東京の下町を四つのブロックに分け、それぞれをドーナツ状に外側から爆撃していった。紙と木で出来ている日本の家々はみるみるうちに燃え広がり、空まで燃え上がった炎の絶壁は中心部に迫っていった。

炎に追われて中心部に逃れてきた人間の群れに、さらにB29の編隊は集中的にナパーム焼夷弾と黄燐焼夷弾を投下して、大量の都民を殺戮していった。

 

ホロコースト(大量殺戮)を目的に、深川、浅草、本郷、台東を中心に、空襲は約二時間半にわたって敢行された。それを数字でしめすと、

侵入してきたB29325機、投下された焼夷弾は約2000トン、数にして約36万発、単純に計算すると、一坪(タタミ二畳)18発の焼夷弾が投下されたことになる。死者、約10万人以上。負傷者、約15万人以上。罹災者、約100万人以上。

世界の戦争史上、三大ホロコーストである。

この夜に生残った人間を“東京原人”と呼んでいる。

     のばきちゃんは 東京原人

恐ろしい夜を生き抜いた

地獄も歩いてきた

死臭は身体に沁みついた

あたいは 東京原人

 

                  *

201831(木)、死との記憶、詩と絵、村 岡 信 明

1945310日、午前0時~2時頃まで、アメリカ軍の空襲で10万人以上が焼き殺された。