日本を代表するイラストレーター、堂昌一氏の生い立ち、イラストレーターになったきっかけ、現在取り組んでいる仕事についてのインタビューを掲載します。




幼少期~青年期

幼少時代の絵との出会いから戦時中、横須賀基地での経験について

エスプリ(以下 エ):16歳の時に、本郷絵画研究所で絵を学ばれたそうですが、その頃と、また、それ以前の子供の頃のお話をお聞かせくださいますか?

堂:研究所っていうのは、元々芸大の予備校みたいなところですからね。

研究所に入る前は、自分で勝手に描いていたんです。10歳くらいの時から勝手にいじくってたもんすから。

子供の頃は、よく読んでたのは、少年倶楽部ですね。

そのころの挿絵は良かったからな、その頃は、軍艦だとかね。

まあ、完全に子供の頃から洗脳でしたからね。


        堂昌一氏

エ:研究所について教えていただけますか?

堂:研究所では、いわゆる絵画、油絵でしたね。

それで、中村研一というその先生も大変魅力的な先生だったものですから、お前等こんなくだらない先進的な絵を描いているようでは駄目だ、兵隊へ行けと言われましてね。

それで志願して、海軍航空隊へ入った訳ですよ。

そして、いい塩梅に搭乗員にはなれなくてね、整備の方に回されて。

エ:絵の世界から遠ざかってしまったのですか?

堂:丁度その頃ね、アカデミックというか、その頃は日展だったかなあ、文展だったか、文部省の展覧会かどっちかだったけど、入選した耳野卯三郎先生、三田康先生とか、有名な方々が徴用されて来ましてね、横須賀の航空隊へ。

それで、何故そんなことをしたかと言うとね、あの、B29を撃墜した時にですね、中にねアート紙に書かれた絵入りの飛行機の扱い方の本を押収したんですね。

それがね、タイロンパワーみたいないい男の兵隊がね、全部絵入りなんですよ。

その飛行機の扱い方を。

取扱説明書です、つまり、B29のね。

で、それを見た軍部の上の人がね、挿絵のように描かしてやらなければ間に合わないからといって。

エ:その取扱説明書を描かれたんですね。

堂:芸術家の先生はね、飛行機やなんかは興味がございませんからね。

全部お人形さんみたいな飛行機だとか、まるで駄目なんですね。

それで、僕が入隊するときに、展覧会なんかにも入選してるって、絵葉書やなんかを持っていったもんですからね。

で、ちょっと手伝えって言うことになって、士官のいるところに連れて行かれて、そこで仕事してたんです。

ですから殆ど絵を描いていたんですよ。

エ:軍隊でも、ずっと絵を描いていらっしゃったと言うことですね。

堂:飛行機なんか描くとうまいんですよ。

それで、大尉がね、日展野郎なんか駄目だ、お前の絵が一番良いって言ってね。

士官食を食べてね。

おこぼれを。ビフテキなんかも出ましたしね。終戦のときなんか返って結構太ってましたよ。

でもね、普通の師範兵の格好をしていると、いじめられるんですよ、お前何そこでうろうろしてるんだって。

それで、しょうがないから家からセーターを送ってもらって。

それを着ていたんですよ。

そうすると、耳野卯三郎、三田康なんかの日展系の偉い先生の弟子かなんかで、一緒にくっついているんじゃないかなんて言われましたね。

それで、終戦を迎えたんですよ。

戦後~イラストとの出会いに続く)

※このインタビューは2006年に行ったものです。