今回のパリ旅行は昨年行き逃したトロワに行くことにした。
 昨年はランスからトロワ行きのバスの便がちょうど悪くてランスで1泊、トロワで1泊のつもりがランスだけで2泊にしてしまったのだが、それが返って良かった。ランスを十二分に堪能することができた。

 今回、トロワでは見る物が少なくて退屈するかも知れないとも思ったが、昨年の経験があったので初めからトロワを2泊とした。パリ4泊、トロワ2泊、6泊7日の旅である。

 イージージェットの往復航空券、パリからトロワの往復列車乗車券、それにトロワのホテル、パリのホテルと全てインターネットで予約、もしくは買ってしまっていたので便利といえば便利だが変更は難しい。


2009/11/09(月) 晴れたり曇ったり / Setubal - Lisbon - Paris

 

 きょうの出発は比較的ゆっくり。
 朝9時45分セトゥーバル・バスターミナル発ヴァスコダガマ経由の高速バスでオリエント駅まで。2階建てバスの2階先頭に座ったのでヴァスコダガマ橋を渡るときなど迫力満点である。
 いつもなら自分で運転だから前をしっかり見ていなければならないが、きょうはよそ見ができる。塩田にフラミンゴの群れも見ることができた。しかも高い位置から。
 リスボン空港でもゆっくりと時間をもてあますほどであった。

 イージージェットの出発は少し遅れた。
 到着便に病人が出たらしくて、医療チームが慌しく機内に入っていった。若い青年だったが青白い顔をしてよろよろしながらも自力で歩いて出てきた。
 イージージェットは自由席だが比較的後ろの方に座った。僕たちの席も、通路を挟んで隣の席も3人掛けに2人だけでゆっくり。ゆっくり出来たと言っても、映画も音楽も食事も何もないのでパリまでの3時間が退屈だ。
 出発した飛行機の中ほどにも気分が悪くなった人が居て、客室乗務員たち3~4人が集まって手当てをしていた。A型インフルでなければよいが…。これくらいの出発遅れなら取り戻せると思ったがパリ到着も少し遅れた。

 ドゴール空港のいつもの場所にムッシュ・Mは待っていてくれた。サロン・ドートンヌに出品の100号の作品を預け手続きをお願いする。
 「パリのホテルまで送っていきます。」と言って頂いたが、今回は辞退した。パリ市内はそろそろ夕方のラッシュ時で、ムッシュ・Mの自宅からホテルまではパリ市内を縦断しなければならない。かえってドゴール空港駅から直接RER(パリ高速郊外鉄道)で行ったほうが早いし簡単だ。

 ところがプラットホームに下りてみると、電光掲示板では全て北駅止まりになっている。きょうRERはホテルのあるリュクサンブール駅までは行かないらしい。RERがストライキ中とのことである。
 サルコジ政権に変ってもフランスのストライキは相変わらずの様だ。

 北駅からメトロに乗り換えだが、ホテル最寄のクリュニュに行くにはオデオンまで行って乗り換え。ところがそのオデオンが工事中。
 仕方がないので手前のサンミッシェル・ノートルダムで降りて歩くことにした。パリのメトロ2駅分だが散歩と思って歩けばほんの僅かだ。寒いのにサンミッシェル大通りの歩道には人が溢れている。ポルトガルから来ればやはり人の多さを感じる。気温は10度以上低い。

 ホテルの部屋は良かったが暖房が入っていない。最初はそれほど思わなかったが、真夜中にありったけの毛布3枚をかけパジャマの下に肌着を重ね着。


2009/11/10(火) 晴れ / Paris – Troyes

 

 フロントに「暖房が効かなかった」とひと通り文句を言って出発。
 列車の切符はインターネットで買って自分でプリントした物だから、そのままで乗ることが出来るのか少し不安だったので早めに東駅に行く。
 インフォメーションで聞くとあっさり「そのままで良いです。20分前から列車に入れます。」とのこと。またもや時間をもてあます。

 東駅も以前に比べると随分とすっきりとなって、ブランド品のブティックなどのショーウインドウを見て歩くが、見るものもないし、お客もあまり入っていない。
 リュックを担いだままあちこちのベンチに場所を変えて座る。近くに咳をする人がいたり、プラットホームからの風が吹き抜けて寒かったり…。

 例によって駅地下にあるPAULのサンドウィッチを買って列車に乗り込む。
 時刻通りに発車。パリを出たあたりでサンドウィッチの包みを広げたが、すぐに検札が来た。車掌はプリントした切符にパンチを入れてくれた。そして「ボナ・プティ」と言って立ち去った。インターネットの切符は通常運賃の半額くらいで買えた上に慣れれば随分と楽だ。


1.トロワのホテル


2.ホテルのロビーもコロンバージュ


 トロワまでは1時間半。
 ホテルに着き名前を告げようとすると、ホテルのマダムが「マダム&ムッシュ・タケモト~?」と先に言った。「地球の歩き方」に載っているホテルだから日本人がよく利用するのだろう。
 日本語で「シャシン・オ・イッショニ・トリマショ~」などと明るい声で言う。
 部屋もコロンバージュで広いがバスタブはなく、シャワーのみ。でも暖房は良く効いている。荷物を部屋に下ろし、早速トロワ近代美術館へ。明日は祝日で休館なので今日中に観なければならない。

 美術館入り口には「ルオー展」の表示があった。
 昨年、パリのピナコテカで観た展覧会が巡回して来ているのであろうか?と思ったが観ると全く違う作品ばかりでサン・トロペ美術館からの巡回で、これはついていた。


3.ルオー展カタログ


4.トロワ近代美術館カタログ


 この美術館にはアンドレ・ドランがたくさんあるというので今回はそれを楽しみに観に来た。
 先月、モントーバンにアングルを観に行ったが近くのコリウールでアンドレ・ドランとマチスのフォーヴ運動の息吹を感じたので今回はこの美術館でドランを観るのを楽しみにしていたのだ。アンドレ・ドランについては最大のコレクションかもしれない。

 


5.トロワ近代美術館入り口


6.アンドレ・ドランの「ビッグ・ベン」のある展示室

 最初期から晩年まで、それに最盛期ロンドン時代の「ビッグ・ベン」など実に多くが所蔵されていた。
 ドランはフォーヴィズムの先駆者としてフォーヴ時代の絵の評価は高いが、その後は比較的暗い沈んだ絵になったためか、もう一つ評価は低い。
 でもこうして生涯の作品を通して鑑賞してみると実にいろんなスタイルに挑戦していることが判る。そしてその作品どれもが、ある意味で実験的で革新的なのだ。それが時代の流れとはただ単にかけ離れていたに過ぎなかっただけの様な気もする。


7.トロワ近代美術館の庭


8.トロワ近代美術館裏とカテドラル鐘楼が少し見える


 この美術館にはドランの他にミレーの肖像画、クールベの雪景色、描き潰したドガ、点描以前のスーラ、フォーヴのブラック、抽象画家ドローニーの具象画など珍しい作品と、ゴーガン、ヴィヤール、ボナール、マルケ、デュフィ、モジリアニ、マチス、ドンゲン、ヴィエラ・ダ・シルヴァそれにビュッフェなどあまり今まで観た事のない作品が多く展示されていた。

 夕食にはメインストリートの観光客が一番多く入っているレストランにした。
 町に観光客はあまり見かけなかったのだが、この店に集中している様に思う。
 トロワ名物の「アンドゥイエット」を食べるのも楽しみにしていた。臓物のソーセージだが、ガイドブックには少々臭いと書いてある。殆どの人がアンドゥイエットを注文している。
 ナイフとフォークを使って切る時に強烈な臭いが鼻をかすめた。息をしないで口に入れたが、歯ざわりは悪くない。
 隣の席の人は殆どを残して皿を遠くへ押しやっている。早く下げてくれ~と言いたげだ。
 僕は一応一皿は全部平らげたが2度と食べたいとは思わない。せっかくこの地に来て、この地の名物なのだから1度は試してみなければならないのだとは思うが、しばらくその臭いが脳天から離れなかった。


09.トロワ名物「アンドゥイエット」


10.トロワのメインストリート

 

2009/11/11(水) 晴れ /Troyes


 昨日より増して寒い一日。そして祝日なので殆どの店が閉まっている。
 ホテルで貰ったトロワの地図には観光ルートが示されていた。一日それに従って歩くことにした。思っていた以上にコロンバージュ(木骨レンガ造り)の家が多いのに驚く。


11.写真以上に歪んでいたコロンバージュの家


12.今にも崩れ落ちそうなコロンバージュの古い家並


 20世紀半ばからしだいに昔の家並が失われていたところ、当時の文化相アンドレ・マルローの提唱により再びコロンバージュの家並が取り戻されたのだそうだ。
 そんな情報もあって、もっと新しいコロンバージュだろうと思っていたが古いものが多く残されている。ブルターニュでもノルマンディーでも多くのコロンバージュの家並を見たがここのが一番古い様な気もする。


13.マンホールの蓋までもがコロンバージュ


14.2階がせり出した典型的なコロンバージュの家


 途中、ポルトガルのフランゴ料理の店を見つけたがあいにく祝日で休み。
 サン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂のステンドグラスは美しく見事であった。正面のバラ窓の黄色いステンドグラスはさすがであったが、遠くてデジカメでは色が出ていないのが残念。


15.サン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂


16.黄色が美しいバラ窓


17.側面のステンドグラス


18.正面のステンドグラス


 道具博物館が開いていたので入った。
 コロンバージュの町にふさわしい博物館だが、展示のセンスが実に素晴らしい。古い道具を使ってのまるで現代美術を観ている様で感動さえ覚えた。入る時は入場料が少し高いと思ったが、出る時には安いと感じた程だ。


19.道具博物館入り口


20.道具博物館の展示

 

 

 

2009/11/12(木) 晴れ /Troyes – Paris


 マルシェ(市場)の肉屋にもアンドゥイエットは売られていた。店によっても味に違いがあるのだろう。地元のおじさんが品定めをして買っていたが、こういった癖のある物ほど慣れればやみつきになるのかも知れない。


21.マルシェのアンドゥイエット


22.トロワの街並


 ポルトガルに戻る前夜にIKUOさんの自宅にお招ばれしている。その時に持っていこうとシャンペンを専門店で調達。パリでも勿論買えるが、トロワ産のトロワでしか買えないシャンペンを買いたかったが、店の親父にはそれが通じたのか通じなかったのか「これだ」と言ったのでそれにした。

 画集やシャンペンでリュックが重くなったので、列車内で食べるサンドウィッチは駅のキオスクで買った。これが不味かった。フランスのサンドウィッチはたいてい旨いが、今までフランスで食べたサンドウィッチの中で最悪だった。

 パリのホテルのフロントには従業員ではなく経営者のマダムが居た。僕たちの名前と顔は良く覚えてくれていていつも歓迎してくれる。

 荷物を下ろしムッシュ・Mに電話。
 「ドートンヌに搬入するとカタログを渡されたのでどうしましょう?」と言う。いつもなら会場で直接貰うのだが今回から搬入時に配布する様になったらしい。ムッシュ・Mの自宅まで取りに行くことにした。
 85番のバスで1本だが道が混んでいて小一時間もかかってしまった。でもこのバスは名所や下町の猥雑なところなども縫って走るので楽しい。カルネたった1枚で随分値打ちがある。

 ドートンヌは今回初めての会場でエスペス・シャンペレという今まで行った事がないところ。
 ホテル近くのパンテオンからポルト・シャンペレまで84番のバス1本で行く。始点から終点までだ。
 ムッシュ・Mの自宅のあるジュール・ジョフリン往復とドートンヌのあるシャンペレ往復でパリ市内観光を全てしてしまった感覚だ。

 今年も目立つ良い場所に僕の絵が掛けられていて満足であった。


23.正面の100号が僕の出品作(サロン・ドートンヌ2009)


24.サロン・ドートンヌ2009カタログ

 

078. マチスとロダンそしてドラン -パリ・トロワ旅日記-(下)-Troyes-へつづく。

 

(この文は2009年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

武本比登志のエッセイもくじへ

 

 

 

2009/10/04(日)晴れ/Albi-Castres-Toulouse-Castelnaudary

 ホテル・エタップのバイキング朝食もそこそこに良かった。普段は無人でもその時間帯だけは従業員がいる。朝食の用意と掃除、シーツの替えなどだけをして昼過ぎに帰ってしまう。
 チェックイン、チェックアウトはお構いない、料金などは全て自動販売機方式だからお金は一切扱わない。
 意外と初老の宿泊客が多いのに驚いた。七面倒なのより合理性を好むのだろう。

 ロートレック美術館は10時からなのでその前にロートレックの生家を探すことにした。
 初めはあいにく見つからなかった。
 カテドラル内部を見学し裏庭とタルン川の風景を見ていた。
 横浜からという同世代か少し僕たちより若いご夫婦と少し話をした。
 僕たちは今からロートレック美術館を観てゴヤ美術館のあるカストルに行く。
 横浜のご夫妻は昨日既にロートレック美術館は観ていて、今からカルカッソンヌに行かれるらしい。
 「列車やバスを乗り継いでの旅だから時間がかかります。」と言われていた。出来るものなら旅は時間をかけるほうが楽しいし値打ちがある。


15.アルビのタルン川風景


16.ロートレック美術館カタログ


17.ロートレック美術館とツーリストインフォメーション


18.ロートレック美術館

 ロートレック美術館にも膨大な作品が展示されていた。
 今までパステルだろうと思っていた作品の殆どが油彩であったのには驚いた。その多くは紙やボードに描かれた油彩だ。それにロートレックと交友関係にあった、ナビ派やポンタヴァン派などの作品も展示されていた。
 ホテルに帰る途中に今度はロートレックの生家だというプレートを見つけた。


19.ロートレックの生家プレート


 朝はたっぷり食べたし、夕食もいつもたっぷりなので、昼くらいは軽くと思って、出発前にスーパーでサンドイッチとサラダを買った。
 サラダを食べるのにプラスティックのフォークが必要だと探していたら、レジの女性が「サラダにフォークが付いていますよ。ぷちっちゃいけどね。」と教えてくれた。
 いかにも日曜だけ働いている学生アルバイトという感じの良い女性。

 カストルに行く途中の景色の良い田舎道のPでサンドイッチとサラダ、ヨーグルトを食べた。

 カストルは田舎町という感じでどこにでも駐車はできた。しかも日曜日だ。
 町の中心方面に向って歩き運河沿いに少し下った所にカテドラル。その裏手に古い司教館を利用したという立派な建物、ゴヤ美術館があった。


20.ゴヤ美術館入り口


21.ゴヤ美術館の庭


 そしてヴェルサイユ風の庭が美しい。いろいろと珍しい花も植栽されていて、イチイの木には真っ赤な実がなっていた。
 ゴヤ美術館で入場料を払おうとすると「きょうは日曜日なので無料です。」


22.ゴヤ美術館展示室

 カストルのゴヤ美術館はフランスにあるにもかかわらず何故かスペイン系の画家の作品が多い。
 ゴヤは勿論のこと、ヴェラスケス、リベラ、スルバラン、ムリーリョ、そしてピカソとクラーヴェの作品も一点ずつ。
 名前の知らない画家の作品もその殆どがスペイン生れの画家であった。


23.ゴヤの自画像

 フランスのファンタン・ラトゥールの作品もあったがムリーリョの「乞食の少年」の模写である。
 そしてゴヤの膨大な数のエッチング。一人のコレクターの蒐集品であったそうだ。


24.ゴヤ美術館カタログ


 カストルはアルビとトゥールーズの中間の閑静な田舎町。サンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道にもあたる。

 ゴヤ美術館を後にトゥールーズまで一走りだ。

 トゥールーズ美術館も見逃せない。
 明日は休館日だから今日中に観なければならない。あまり時間がない。
 大都会なのでなかなか駐車スペースが見つからない。
 美術館の方向にはクルマは曲がれない。反対側に曲がってみたが川沿いもクルマで溢れている。ロータリーをUターンして一つ中の道へ。随分走ってようやく一台分の駐車スペースを見つける。でもかえって美術館に近い場所まで戻れた。

 どんどん人が入っていくので美術館だと思って入った。
 人を惑わせる迷路の様な現代作品ばかりで、おまけに暗い。観たい近代の作品には行きつかない。本当に館内で迷ってしまった。観覧者は迷路に喜んでいる。大騒ぎだ。
 観覧者に「ここは美術館ですか」と尋ねると「違います」という。「ここは美術大学の学生の実験場です」との答えだった。
 地図を良く見てみると一筋違っていた。急いでトゥールーズ美術館に入った。

 ボナールの良い作品がたくさんある。
 黒っぽい作品、例のパステル調の絵。実に美しくてうっとりするほどだ。でもこの美術館で僕が最も良いと思ったのはブラックのフォーヴの絵。「窓からの眺め」だ。


25.ブラックの「窓からの眺め」

以前にもポンピドーでフォーヴのブラックを観たが、それも良かった。


26.トゥールーズ美術館カタログ

 黒いキュビズムのブラックも素晴らしいがフォーヴのブラックは又素晴らしい。どうしてあんな色が出せるのか、そのセンスに感動してしまう。閉館と共に美術館を出る。


27.トゥールーズ美術館カタログ

 今から宿探しだ。
 ありそうな道を歩いてみたが一軒の四星ホテル以外二つ星程度のホテルは一軒もない。くるっと回ってクルマの所に出てしまった。

 美術館も観てしまったし、大都会に用はない。今日も郊外でホテルを探そうと走り出した。

 カルカッソンヌに行く途中、高速沿いにホテルのマークを見つけた。サーヴィスエリア内のホテルだが高速道路から随分と入り込んだところにそのホテルはあった。
 森の中の静かな佇まいでリゾートホテル並みの設備。
 とてもサーヴィスエリア内とは思えない。レストランは別棟。
 レストランは船のドックの前にあり、これらの設備一帯が、高速道路のサーヴィスエリアと、カナル運河のドックが両方利用できる様になっているのだ。
 レストランではクルマで来た人と船で来た人が同じ場所で食事を楽しむ。
 ガチョウの生ハムサラダの前菜とガチョウ肉のステーキ。デザートにはフロマージ・ブラン。
 喉が渇いていたので良く冷えた地元の白ワイン。でもここではロゼにするべきだった。

 ホテルの前の駐車場は殆どがフランスナンバーのクルマだったが、僕たちのクルマ以外にポルトガルナンバーのクルマがもう一台停まっていた。
 

2009/10/05(月)晴れ/ Castelnaudary - Celet- Cllioure - Barcelona

 カルカッソンヌは素通り、セレに向う。
 セレにはキュビズムのメッカ的な美術館があるという。
 ピカソやブラック、グリス、マチスなどの作品があるとのことで楽しみにしていた美術館だ。
 町の入り口の広い駐車場にクルマを止めて美術館へ向う。
 町にクルマを乗り入れることはできない。
 町の雰囲気は以前訪れた、ブルターニュのポンタヴァンにどこか似ている。全く違う地方で全く違う光の筈なのに、何か漂う空気が似ている。プラタナス並木の大きさだろうか?

 美術館には小学生の団体が見学に来ていて少々騒がしかった。
 第一室に一歩足を踏み入れて金縛りにあってしまった。僕の好きなスーティンだ。一部屋全部がスーティンの風景画だ。全部で23点。どれもこれも素晴らしい。素晴らしすぎる。果たしてどう表現してよいか言葉を失ってしまった。


28.セレ美術館入り口

 これほど多くのスーティンを一度に観たのは恐らく初めての経験だ。
 スーティンの息遣い、鋭い眼光で観る者を金縛りにしてしまう。実際に観た人でないとあの素晴らしさは判らない、画集などでは判らないのだと思う。何れもここセレの風景だ。
 展示は23点だったが、カタログにはセレの風景ばかり50点が載せられている。
 スーティンはこの地に留まってこんな素晴らしい仕事をしていたのだと思うと僕には鳥肌が立ち寒気さえ覚えてしまっていた。
 キュビズムのメッカと同時にスーティンのメッカだ。


29.セレ美術館カタログ

 美術館を出て更に寒気は続いていた。
 天気が良いのでクルマを出る時に薄着のままで出たが、町の木々が大きく日陰ばかりなので、実際少し肌寒い。
 或いは館内で小学生高学年の女の子が僕の目の前でくしゃみをしたが、それがうつったのだろうか?新型インフルでなかれば良いが…


30.スーティンの複製パネルとセレの街並

 セレの町を歩く。
 スーティンがイーゼルを立てた場所に複製画のパネルが飾られている。
 身体が冷えてきたので、急いでクルマに戻って、港町コリウールまで走り、そこで昼食の予定。
 コリウールはかつてマチスやアンドレ・ドランが滞在して絵を描いたところだ。

31.キュビズムのパネルとスーティンのパネル(右)

 スペイン国境に近い地中海の輝く太陽の下で原色を用いて描いた絵は「まるで野獣(フォーヴ)の様だ」と言われたことからフォーヴィズムという言葉が生れた。
 フォーヴィズムはコリウールが発生の地と言われている。
 ここでも画家がイーゼルを立てた場所に複製パネルが飾られている。
 マチスが滞在して窓からの眺めを描いた住宅の前にも2枚の複製画が飾られていた。


32.マチスが滞在した家


33.マチスがこの家で描いた室内風景のパネル

 海に突き出た鐘楼をアンドレ・ドランが黄色と赤を多様した原色で描いている。そのイーゼルを立てた場所に食堂のテラスがあった。そのテラスで少し遅い昼食を取った。
 僕はそれほど暖かいとも思わなかったが、海に入って泳いでいる人が何人もいる。


34.コリウールのビーチ


35.アンドレ・ドランとマチスのパネル

 マチスもこの同じ鐘楼を同じような色彩、同じような構図で描いている。たぶん一緒にイーゼルを並べて描いたのかも知れない。

 マチスとドランがコリウールに滞在して新しい潮流、フォーヴで競い合っていたその同じ年の1905年から翌年にかけて、マチスはアングルの「黄金世代」という絵をモティーフにフォーヴ的実験作品を制作している。
 その絵はマチスにとって生涯のテーマとなった「ダンス」へと繋がっていく。
 その後にも、アングルの「オダリスク」や「M婦人像」。ヴェラスケスの「マリアとマルタの厨房」などマチスは数多くの先人の作品をテーマとして取りあげている。
 コリウールはアングルが生れたモントーバンのすぐ近くだし、ヴェラスケスのスペインとの国境まで僅かと言う地が何らかの影響を与えたのかも知れない。

 このコリウールで一泊、とも考えていたが、実はセトゥーバルでちょっとした用事があって、一週間で戻ることが出来れば好都合なのだ。
 一応の見学予定も全て完了して、後はひたすら帰るのみ。

 今日もどこまで走れるかが勝負だ。でも当初思っていたよりは楽勝気分。再び高速道路に乗り、バルセロナを目指す。
 しかしセレで引いた風邪が少し悪化した模様。早い目にホテルを確保した方が良さそうだ。ちょっと早いと思ったがバルセロナの外環道沿いのパーキングエリアにホテルがあったので泊ることにした。
 今回の旅で泊ったホテルの中では一番高い料金。
 設備はまあまあだったが、高速の騒音が低周波音として神経に響きMUZは良く眠れなかったらしい。僕は風邪薬を飲みぐっすりと寝た。

 

2009/10/06(火)晴れ/ Barcelona-Valencia-Villarrobledo

 ポルトガル、スペイン、フランス三国の中ではスペインのガソリンが一番安い。フランスでは少ししか入れなかったガソリンを満タンにして出発。

 往きはスペインの中央部を走ったので距離的には短い。帰りは地中海沿いに走っているので距離は長い。
 往路で使った道、つまりサラゴーサまで戻って、マドリッド経由で帰るか、バレンシアまで地中海沿いを走ってそれから内陸に入り、高速道のないルートを取るか、走りながら迷っていた。
 濃い緑色のオレンジ畑が続き、同じ緑色のオレンジがたくさん実っているのが高速道からでも良く見えた。

 バレンシアから内陸に入ってシウダード・レアル経由が近道に思うが、シウダード・レアルまでの道路が整備されていなくて迷うかも知れない。
 でもそのルートに挑戦することにしたが、それが正解だった。クルマもトラックも少なくて本当に走りやすかった。でも一般道だからスピードはだせず距離は稼げない。

 今夜はシウダード・レアル泊りかなと思っていたがそれより100キロほども手前で泊ることになった。
 国道沿いのドライヴインで、部屋は広く、床には桃色大理石を敷き詰めて豪華、バスタブも大きく立派だがあまり客はいないらしく割安であった。
 風邪は未だ良くはならず早めに軽く夕食を済ませて早々に寝る。

 

2009/10/07(水)曇りのち洪水のち晴れ/Villarrobledo -Merida-Badajoz-Elvas - Setubal

 天気は下り坂らしく、出かけるときから霧雨が降り始めていた。
 シウダード・レアルからメリダの間も交通量が少なくまっすぐの道で走りやすかった。
 ブドウ畑の紅葉が美しい。雨こそ降らないが前方には真っ黒な空。そしてバダホスを過ぎたところから、大雨。

 バダホスのガソリンスタンドで古くなっていたワイパーを替えて貰う。替えてすぐにワイパーも利かないほどどしゃ降り。
 国境手前のガソリンスタンドでガソリンを満タンにしたが、スタンドを出るところの道が洪水で大きく水を跳ね上げる。国境までどしゃ降り。以前スペインを旅行した帰りにも同じ場所で全く同じことを経験したが、その辺りが雨が多いと言う事は決してない。どちらかと言うと乾燥地帯だから、単なる偶然だろうが不思議だ。

 以前にはクルマの屋根にこびりついたコウノトリの糞がその雨で綺麗に洗い流されて良かったが。今回も高速を走ってフロントに付いた虫の痕が洗い流された。
 エルヴァスを抜ける頃には明るく晴れ始めていた。セトゥーバルの我が家に戻ったのも未だ明るいうちだった。

 ちょうど一週間の今回のクルマでの旅。メーターを見ると3,385キロを走破したことになる。
VIT

(この文は2009年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 今年のパリ行きは「クルマで行ってみよう」と考えていた。でも地図を見るとパリは遠い。僕の体力で可能なのだろうかと思ってしまう。

 昔、ストックホルムに住んでいた頃はそれこそピレネーであろうが、アルプスであろうが、東欧、トルコ、モロッコまでもクルマで走っていった。スカンジナビア最北端ノード・カップにも。フォルクスワーゲンのマイクロバスを改造して、クルマに寝泊り、どこに行くにもお構いなしだった。僕たちも若かったのだ。

 今のクルマ、シトロエンを新車で買ってまもなく十年になる。日々の買い物とポルトガル国内旅行が殆どでスペインに入ってもポルトガル国境付近。遠出という遠出ではない。

 今年の車検ではタイヤも四本新しく替えたし、クルマも適度に古くなって絶好のチャンスかも知れない。

 クルマでパリまで行くのだったら、パリからは遠くて行きにくいミディ・トゥールーズあたりを途中見学もできる。スペインからピレネーを越えフランスに入ってすぐのあたりだ。

 その周辺の美術館を検索してみると、モントーバンのアングル美術館で「アングルと現代作家たち」という企画展が行われていて、期間は10月4日(日曜日)までとあった。
 モントーバンのアングル美術館には前々から絶対に行きたいと思っていたのだが、これは又とないチャンス。
 パリにはサロン・ドートンヌの期間中ではなくても前もって作品を預けることもできる。

 半月ほどは迷いに迷った。
 世界中クルマは増えてどこもここも街なかは駐車禁止。それに犯罪に会った話もよく聞く。バスクのテロに巻き込まれる危険も無きにしも非ず。スペインは広い。スペインは広いし、フランスも大きい。パリはフランスの北の端っこだ。途中の宿代、ガソリン代、食事代、おおまかに見積もっても飛行機で行くほうが遥かに安上がりだ。

 同時にイージージェットのパリ行きを検索してみると、これがまた安い。往復二人で188ユーロ。早いし、自分で運転することはない。
 モントーバンは諦めざるを得ない。
 サロン・ドートンヌの時期(11月中旬)に合せてイージージェットの航空券をネットで買ってしまった。

 でも先月のサイト更新を済ませて一気に気持ちが動いたのだ。やはりモントーバンは諦めきれない。パリと切り離して考えることも可能だ。


2009/10/01(木)晴れたり曇ったり/ Setubal - Elvas - Badajos - Madrid - Triueque

 走ってみることにした。今日の出発を逃せばそのチャンスは二度とない。幸い週間予報でトゥールーズあたりの天気はおおむね晴れ。セトゥーバルを朝8時に出発。きょうはどこまで走れるかが勝負だ。エルヴァスから無料の高速に乗り国境の手前で初めて休憩。コーヒーを飲む。ポルトガルとしばしの別れ。国境を通過。

 バダホスを過ぎたドライヴインの駐車場で朝出かけに作ってきたおにぎりで昼食。ドライヴインで食後のコーヒー。
 メリダ、トルヒーヨと町には入らずに外環高速で通過。そこまでは以前にもこのクルマで来た地域だ。やがてトレドの標識。そしてもうすぐマドリッド。

 マドリッドには五重の外環道がありM5に入れば簡単に目的のサラゴーサ方面に入ることが出来る筈。
 ところがM5を逃してしまった。M4は見つからず、M3もうっかり逃してしまう。道と標識は複雑でとにかくクルマが多い。そして最悪のマドリッドの街なかへ。右も左も判らない。でも少し迷っただけで<トゥート・ディレクション>(全ての行き先)の標識を見つけてM3へ。
 少し時間のロスはあったが巧くサラゴーサ方面行きの高速に再び乗ることが出来た。お陰で大都市を走る自信が少し付いた。

 グアダラハラあたりを過ぎたころから今日の宿探し。目的地フランスまでは高速から離れずに高速沿いのホテルに泊るつもり。ホテルの看板を辿ってそこまで行くが「今はやっていない。」というのが三軒。四軒目でようやくホテルにありつく。120キロ以上のスピードを出しきょう一日で750キロを走った計算になる。

 未だ明るかったので村まで歩く。古い石造りのアーケードの広場があり趣のある村。ベンシャーンの絵にある様なコンクリート壁の運動場で少年たちがサッカーに興じていた。それを写真に撮ろうとすると同時に、その中でも年少の少年がけんかを始めた。写真を撮っているのを見て、年長組少年にからかわれて、恥かしそうに照れたのが可笑しかった。


01.トリウエクのマヨール広場


02.少年たちがサッカーに興じていた


 宿は44ユーロというのを40ユーロに値切ったところ「42ユーロならいい」と言うことになった。
 夕食はワイン一本。前菜、主菜、デザートまで付いて一人10ユーロ。安いけれどそれなりの内容。でも地元ワインは旨かった。旨かったけれど一本は呑みきれずに三分の一は残した。
 

2009/10/02(金)晴れ/ Triueque - Serra Pirenees – Pau


 朝はトラック野郎たちで店は満杯だった。
 部屋は取らずに前の駐車場のトラックの中で一夜を明かした様だ。カウンターに寄りかかって早々から強い酒を引っ掛けている運転手もいる。

 朝食を頼むとカフェ・コン・レーチェと焼いてバターを塗ったクロワッサンを手際よく作ってくれた。それに手作りジャムも添えられていた。
 カウンターの中ではおかみさんが一人で大忙し。常連客が僕たちの席まで朝食を運んでくれた。

 昨日は予定より距離が稼げたので今日中にピレネーを越えることができそうだ。
 サラゴーサは巧くすり抜け、やがて高速道も終り一般国道へ。対面交通になるが道は良い。前方にピレネーの山々が立ちはだかる。


03.前方にピレネーの山々が立ちはだかる


04.ピレネーの山はすぐそこまで


 1972年、ポンコツVWマイクロバスでアンドラをまたいでピレネー越えをしたのを思い出す。ピレネーを越えたスペイン側の登り坂でトラックを追い越そうと、対向車線に入って加速したところ、前のトラックが更に前のトラックの追い越しにかかった。トラックは尻を振って僕のクルマのバックミラーを壊した。バックミラーだけで済んで良かったものの一歩間違えば僕たちは谷底だった。

 きょうはトラックが少ない。このルートはあまりトラックは走らないのかもしれない。
 立ちはだかるあの高い山を越えるのかと覚悟を決めていたが、七キロもある立派なトンネルが出来ていて難なくピレネーを越えることができた。

 紅葉を期待していたが、そのあたりは針葉樹ばかりであまり紅葉はなかった。時々、蔦が紅く色づいている程度だった。
 フランスへの国境を越えると風景は一変していた。緑が豊富なのだ。
 スペインの荒涼とした茶褐色の世界に対して本当にフランスは緑豊かだ。
 フランス側からピレネーを越えると確かに「そこはもうアフリカ」という言葉がうなずける。

 それと同時にフランスに入れば道は狭くなる。
 道のど真ん中で国境警察に停止を命じられる。パスポートの検査だ。
 事務所に持って行って検査をしたのだろう。スタンプを押してくれたのかなと思ったが、新たなスタンプはなかった。
 たまにしか走らないクルマを止めて、暇で暇でしょうがない。といった感じの警官たち。
 「バカンスですか?ビジネスですか?バカンス。いいな~。楽しんで下さいね。」などと言ってくれる。その間、後ろからは一台のクルマも来ない。

 山道なのであまり距離は稼げない。
 ポウの町でホテルの看板を見つけたので聞いてみると「今はやっていない」とのこと。
 もう少し走った町外れの国道沿いに広い駐車場のある平屋のホテルを見つける。立派なレストランも併設されていて、夕食はお勧め定食にした。街からも常連客が食事に来ていた。
 ダイニングの大型モニターに厨房の様子が映し出されていたが、その夜のお客は僕たちを含めて三組五人だけで暇そうであった。


05.鴨の生ハムサラダ


06.子羊のステーキ


07.木の実のクレープ


08.オーヴェルニュ・フロマージと杏ジャム

 

2009/10/03(土)晴れ/Pau - Montauban - Albi

 朝食を済ませひたすら田舎道をモントーバンへ。
 モントーバンの街なかに入り、判らないまま徐行していたが、巧くアングル美術館の真後ろの駐車場にクルマを入れることができた。しかも土曜日なので駐車料金は無料。
 早速ホテルを探すがなかなか見つからない。仕方がないので先にアングル美術館を観ることにする。


09.アングル美術館入り口


10.アングル美術館カタログ


 ここモントーバンのアングル美術館にも、もともとアングルの代表作が数点はある。
 企画はアングルの作品をヒントに或いはモティーフにしてピカソ、ピカビア、マチス、グリス、ラウル・デュフィ、マルセル・デュシャン、ダリ、キリコ、アンドレ・マッソン、ミロ、アンドレ・ロート、フランシス・ベーコン、デイヴィッド・ホックニー、ラウシェンバーグ、などの作家が作品を作っていてそれらがオリジナルのアングルと一緒に並べられている。贅沢な企画だ。


11.モントーバンの「オダリスク」と現代作家の作品


12.アングルの「泉」とその部屋


 アングルの「泉」の部屋には色んな画家の「泉」が。
 「泉」はこの企画の為にパリのオルセーからモントーバンまで運ばれてきていた。
 その他にルーブルの「オダリスク」とは違うモントーバンの「オダリスク」がある。
 勿論モントーバンでしか観る事が出来ないアングルは全て展示されていて満足であったが、何か、もう一つ、すっきりしない企画でもあった。
 アングル自身がこの企画を見たらどう思うだろうか?などと思った。やはりアングルはアングルだけで観たほうが良いような気もする。



13.アングルの作品と奥のマルシャル・レイスの1964年の作品

 午前中に入場した時は空いていた会場も出る時には入場券売り場から表の門まで長い行列が出来ていた。


14.アングル美術館切符売り場は長い行列

 たまたまか?僕たちが観ていた時は空いていて良かった。
 スペインを走りに走ったので予定より一日早い最終日前日に観ることができたわけだ。明日、日曜の最終日にはもっと長い行列が出来るのかも知れない。


 ホテルを探したが手ごろなのが見つからないし、アングル美術館も観てしまったので、少し走って駐車場の心配のいらない昨夜の様な郊外のホテルで泊るのも悪くない。
 ゆっくり走ったが、あいにく次の目的地アルビまでの途中にホテルは見当たらなかった。

 アルビにはホテル・イビスがあるのでそこでも良いと思っていた。
 ホテル・イビスの前の道路にちょうど一台分の駐車スペースがあった。
 ホテル・イビスはあいにく満室だが、ホテル・エタップなら空いているとのこと。イビスとエタップは同列のホテルだが、イビスはちゃんとフロントがあって従業員も居るのに対して、エタップは自動販売機の無人ホテル。そして少し安い。
 フランスにはあちこちにあり、以前から存在は知っていたが無人では不安だし、どのようにして泊るのか判らない。
 でもここでは二軒が併設されているから、イビスの従業員が手続きを全てやってくれた。

 初めて利用したがなかなか機能的で使いやすい。部屋はロフト風の作りになっていて、子供のいる家族連れなら特に便利だろう。路上駐車は土曜日なので明後日朝まで無料。

 街では「EKIDEN」が行われていた。
 ゆっくりカフェに座ってビール。アルビではやたらピッザレストランが目に付いたので、今夜はピッザ。


077. アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記-(下) -Montauban-へつづく。

 

(この文は2009年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 ゴッホは黄色い家に移ったとき、実に12脚もの椅子を買い揃えた。

 それまで、賄いつきの安宿に投宿していたゴッホは、ラ・マルティーヌ広場に面した黄色い家が貸しに出されていたのを見つけた。長く誰も住んでいなかったとみえて住むまでには多少の手直しが必要だった。家具は何もなかった。なけなしの金をはたいて、或いは弟テオの援助によって、先ずベッド2つと、上等の鏡、それに12脚の椅子を買い入れた。

 ベッドはゴッホ自身が使うものと、やがてやってくるゴーギャンの為にもう一つ。鏡は自画像を描くのに必需品だ。
 しかし、それ程広くもない家に椅子が12脚も…。何故だろうと疑問に思ってしまう。

 古道具屋から「12脚セットだから」と無理やり売りつけられたのだろうか?いや、そうではない。
 ゴッホの絵に残されている「ゴーギャンの椅子」と「ゴッホの椅子」はデザインも素材も何もかも違うのだから、別にセットという訳ではないだろう。
 恐らく、お客がたくさん集まる場所になるのだから…とゴッホは夢みて買い揃えたのかも知れない。

 日本人で椅子にこだわる人は少ないのではないだろうか。絨毯に寝転がったり、フローリングの上にあぐらをかいたり。別に椅子などなくても何とか暮せる。もちろん畳ならまったく必要はない。

 欧米ではそうはいかない。外出から帰ってもそのままの靴で家の中を歩く。日本人が考える以上に椅子は必要な道具なのだ。

 僕はポルトガルに移り住んで20年になるが、アトリエに椅子はない。椅子に座って絵を描くことはしない。
 イーゼルも使わない。キャンバスは空き缶を並べた上に置いて壁に立てかけて、立って或いは床に座って描く。立てかけたり、床に寝かせたり、色んな手法を駆使して描くので、イーゼルを使うより、使い勝手が良い。イーゼルはあるのだが…。

 とにかく、床に座ったり、立ち上がったり、腹ばいになったりと、みっともなくて描いている姿はとてもお見せできるものではないが…。そうやって20年、描いてきた。

 それがこのところ、その方法のせいかどうか、夜寝るときにふくらはぎがこる様になった。年齢のせいかも知れない。
 先日から、試しに椅子を使うようにしている。
 最初はキャンプ用の小さな折りたたみ椅子を使ったが、それでも高すぎるので、チタニューム・ホワイトの5キロ入り空き缶に座ってみた。高さは良いが、お尻がはみ出してしまう。それで小さなダンボール箱に詰め物をして使い始めた。これは縦、横、高さが異なるので、3種類の高さで使える。
 でもあまり安定が良くはないので、描いているあいだの半分以上は無意識だが中腰か何かだ。ダンボール椅子は気が付けば遠くに追いやられていることもある。
 それでもふくらはぎのこりはなくなった様に思う。

 家に椅子がないわけではない。
 台所用の椅子が4脚。ダイニング用が6脚。これは革張りだ。寝室用が1脚。これは寝台の後背と同じ木彫デザインで赤いベッチン張り。それにロッキング・チェアーが1脚。読書にはこれが按配が良い。その他に3人がけのソファー一つと1人掛けソファーが二つ。これも革張り。それだけが引っ越してきた当初からあった。

 それ以上は買う必要はないが、我が家にはそれ以外に背もたれの付いた屋外用折りたたみ椅子を2脚と、ビーチ用の寝椅子なども買った。時たま、ベランダに出してコーヒーを飲んだり、本を読んだり。

 他人が見たら首をかしげるかも知れないが、テレビを観る時はその屋外用折りたたみ椅子をソファーの前に置いて使っている。ソファーに座ってテレビを観ると寝てしまうからだ。

 椅子としては使っていないが、台所の高い戸棚の踏み台用に、露店市で子供用の手作り木製椅子を買った。もう随分昔に買った物だが頑丈で永年愛用している。

 ゴッホの黄色い家ではないが家中椅子だらけの様相。
 椅子といえるかどうか判らないが、ヴィアナ・デ・カステロのロマリオ祭りで場所取り用に、2脚5ユーロで買った折りたたみ椅子もクルマのトランクに入ったままだ。
 たくさんの椅子があるにもかかわらず「帯に短し襷に長し」アトリエでは使えない代物ばかり。

 実はパソコンをするのに台所用の椅子を使っている。古いパソコンMEの時は屋外用折りたたみ椅子。2台を使うときは高さの違う2脚の椅子を移動する。
 5つクルマの付いたパソコン用の椅子を使えばもっと快適だろな~。などと思いながら、電気量販店のカタログを恨めしく眺めている。安いのだ。
 何でも安いからと言ってすぐに買い込むと家は荷物に占拠されてしまう。チラシとカタログは危険だ。

 デザインの優れた、座り心地の良い椅子をたくさん配置できる、広~い家などに住むのは、欧米人にとっては憧れなのかも知れない。僕も広~いアトリエは憧れだ。

 ポルトガルに移り住んだ20年くらい前には家具屋の店頭に素晴らしい家具がたくさん並んでいたのを懐かしく思う。
 それが最近は<IKEA>や家具スーパーなどが流行り始めて、安価で機能的、北欧的だがポルトガルらしさがなくなって、趣のない家具が占めるようになってきている。
 それに連れて露店市の家具も随分様変わりした。

 オルセー美術館には美術品としてたくさんの椅子が展示されている。
 アールヌーボーの時代のものだ。
 それまではバロック風やロココ風の一点ずつ手作りの家具から、ある程度大量生産できる家具がデザインされる様になった。
 アールヌーボーのデザイナーは曲線が持ち味の椅子に腕を発揮した。

 ポンピドーセンターの監視人が座る椅子はジャコメッティの彫刻がそのまま椅子になった様なデザインでさすがだ。

 それやこれや関係のないはなしが続いたが、さて、アトリエの椅子、どうしたものかと考えながら、きょうも絵を描いている。VIT

 

 

(この文は2009年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 数年前、何かの情報で「サクランボの種枕」のことを知った。
 それにはヨーロッパでは古くから伝わる安眠枕と書いてあった。
 種の大きさといい、硬さといい、何となくイメージとしても甘酸っぱい香りが醸しだされて安眠出来そうに思える。
 実際にサクランボの種は乾かすと中が空洞になり、保温、保冷に優れていて、お腹が痛いときには電子レンジで暖めてカイロ代わりに、熱が出たなら冷凍庫で冷やして氷枕としても使えるらしい。

 ポルトガルに住んでいるお陰でセレージャ(サクランボ)は安く買えるので、毎年我が家ではけっこうの量を食べる。

 でもセレージャの季節はほんの少しに限られているし、一度に食べ過ぎるとお腹をこわしてしまいそうだ。
 それにセレージャの季節の半分くらいは日本で個展をしている時期と重なっていて…
 それでもポルトガルに戻ってから毎年4~5キロは食べているのだろうと思う。

 しかし枕にするには大量の種が必要、たぶん少なくても10年はかかるだろうから、まあ無理。

 と言いながらも、食べ終わった後、その都度、丁寧に洗って乾燥させ、せっせとアスパラガスの空き瓶に保存しておいた。無理と思いつつも何となく…。それがこれまでに5本にも6本にもなった。

 今年はポルトガルに戻ってくるのが遅かったのだが、セレージャが豊作だったのか、いつまでも安く出回っていて例年にも増してよく食べた。恐らく10キロ以上は食べたかも知れない。

 でも食べた後の種は1キロ分でもようやく僕の手のひらに乗る程度にしかならない。それだけ果肉のほうが大きいのだから文句を言う筋合いではないが…。

 昔、ストックホルムで下宿していたノレエン家の前庭にはサクランボの大木があって、その木の下に落ちた実だけ拾い集めても枕の一個や二個はすぐに出来ただろうに…。

 今年はまだまだ無理だとは思ったが、6本ばかりのアスパラガスの瓶のセレージャの種で枕に仕立ててみることにした。
 見切り発車とでも言おうか。
 使わなくなったストレートジーンズの裾を使った。ぺったんこではあるが一応、枕は出来た。来年からの分も追加できるようにファスナーもつけた。単独ではいまいち厚みが足りないので、今までの普通の枕の上に重ねて置いて使ってみた。しっかりと頭が納まって冷いやりと、なかなか寝心地は良いではないか。

 生成りのコットン地と、縁には露店市で買って余っていたレース飾りもほどこして枕カバーもできた。

 枕は人間にとって大切な物だ。安眠は健康のバロメーター。ぐっすり眠り、目覚めが良いと一日の活力がみなぎる。
 大事な物事を決める場合「枕と相談する」などとも言う。-take counsel of one's pillow-寝ながら一晩じっくり考えるのだ。場合によっては枕に話しかける人も居るかもしれない。

 よく「枕が代ると眠れない」という人がいる。旅行にでもMy枕を持参する人も居るくらいだと聞いた。幸い僕はどんな枕でも安眠できる。仮に枕がなくても平気だ。下手な枕だと頭痛、肩こりの原因になるとも言う。それを防止する様々な枕がテレビ・ショッピングなどで売り出されては消える。

 日本では昔から蕎麦殻の枕が一般的だが僕も日本に帰った時、宮崎ではそれを使っている。適度に固くて、どっしりと重く安定感があるところが好きだ。小豆(あずき)も枕には良いらしいが、何だか勿体ない。その点、セレージャの種はどうせ捨てるもの、廃棄物利用。製作途上のセレージャの枕、当然その蕎麦殻枕とはまた少し違う感触。でも今のところ良い。

 かつて、ゴッホはサン・レミ・ド・プロバンスの精神病院で気を静めるために樟脳入りの枕を使っていた。樟脳は確か楠から摂れる。天然素材に勝るものはない。

 クルマを運転していて楠の並木道などに差しかかるとのんびり走らせたくなる。照葉樹やブナ林などの森に入れば森林浴として、気持ちが落ち着く。ユーカリ林の傍を通っただけで、独特の香りが鼻腔をくすぐり気持ちを爽やかにさせる。
 ユーカリ林にハンモックを架けて本でも読めば、サラマゴの様な難解な内容でもすっきりと頭に入り込みそうに思う。いやその前に、すぐに眠ってしまうかも知れない。

 さて、天然素材セレージャ(さくらんぼ)の種枕、僕の安眠枕となりうるのか。せいぜい楽しい夢でも見ることができれば…。

VIT

01.

02.

03.

 最初の記述に<何かの情報で>と書いたが、それは全日空の機内誌「翼の王国」(2005年7月号・15~25ページに記載されてあった)の特集記事「たねの力」であった。つまり4~5年でひとまず(写真状)は完成したことになる。

 

(この文は2009年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 今年は2年ぶりに髙島屋の3箇所で巡回個展を催らせていただいた。横浜、岡山そして少し間を於いて大阪。

 2年前と少し様子が変わっていることがあった。それは「礼」である。
 髙島屋の社員が売り場に入る時、そして出る時にも、その場所に向って一礼をする。これは傍から見ていて気持ちが良い。

 よく日本の野球選手がグランドに入る時、帽子を脱いで軽く一礼をする。アメリカの選手にはないことだと思うが、日本人選手の真剣さが伝わってきて気持ちが良い。

 相撲取りが土俵脇に入場してきた時にも一礼をしてから控え場の座布団に座る。
 柔道や空手、弓道など日本の武道は必ずやる。「礼に始まり礼に終わる。」と言われるくらい礼は大切なものだ。
 武道に限らずたいていの日本人スポーツ選手は礼をする。
 マラソンで走ってきたコースに向って礼をする選手もいる。死ぬほど疲れていて倒れこみたいところを先ず礼をする。あれと同じ感じなのだろう。

 誰に向ってではなく。誰に見られているかではなく。自分にとって神聖な仕事場に向って一礼するのである。

 髙島屋の誰が決めたのかは知らないが、髙島屋の社員全員が、決められたからではなく、納得して自らの意思で実行しているのが良く分かる。
 横浜髙島屋では実に徹底していたので、聞いてみると「いついつから始まったのです」との答えだった。岡山髙島屋でもそれは徹底されていた。

 可笑しかったのはいらなくなった段ボール箱などの入った大きな紙屑カゴを抱えて、どこかに捨てに行く時も、持ち場から退出する際に礼をする。自分の胸ほどもある大きな屑入れを持ったままの礼は何となくユーモラスであった。

 大阪ではオープンな会場なのであまり出入りする場面を目撃する機会は少なかった。でも会場の隣に扉があり茶道具売り場の社員が時たま出入りする。
 岡山と同様いらないダンボールを捨てに行く場面があったが、その社員は礼をしなかった。昔からよく知っているベテランの女性社員だ。
 後で冗談半分にそれを指摘すると「そやけど、センセが見てはんのに恥かしやんか~」。
 センセとは僕のことだ。
 社員同士とか一元のお客さんには見られてもどうってこともないが、昔なじみの人に見られるのは照れくさいのだ。いかにも大阪人的だ。

 ポルトガルで神聖な職場に入る時に礼などしない。
 レストランやメルカドでそんな場面をみたことがない。タバコとマッチを手に持ち急いでメルカドの出口に走るが礼などしない。

 ただ、教会に入る時には帽子をとって、十字を切る。

 ポルトガルのサッカー選手がグランドに入る時、芝に手をつけ、それを天に向け、そして唇にあてキスをする。
 「マリア様、イエス様のご加護を」と願うのだ。これも気持ちの良い所作法だ。

 闘牛士も同じことをやる。
 神聖な仕事場と言う以上に、万が一、本当に死ぬかもしれない真剣勝負の場所なのだ。

 さて僕も今日からアトリエに入る時、先ず一礼をしてから入ることにしようかと思う。VIT

 

(この文は2009年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 先日アカデミー賞が発表され、「スラムドッグ・ミリオネア」というインドを舞台にしたイギリス映画が獲った。
 タイトルのとおり、ムンバイのスラム街で育った若者がテレビのクイズ番組に挑戦。最後の一問を残しそれまでの全てを解答。スラムで育った無知な少年が何故解答を知りえたのか?と懸賞金を払いたくないスポンサー側は疑念を持ち上げる。なかなか面白そうで是非観てみたい。

 そう言えば僕たちのポルトガル語の先生、マリア・ルイスもポルトガルテレビのクイズ番組に出た。テレビの懸賞金の大きさには驚かされるがこの不況で少しは小さくなるのかも。

 また、外国語映画賞に日本の「おくりびと」。そして短編アニメ賞がやはり日本人の「つみきのいえ」。
 これもフランスの映画賞を獲ったときから是非観てみたいと思っていた作品だ。

 最近はコンピュータ・グラフィックスや特殊効果を駆使した映画が多い中で、今回の受賞作はどれも従来のアナログ的手法が目立つ。
 特に「つみきのいえ」などは作者の加藤久仁生さんがこつこつ1枚ずつ鉛筆で描きあげたものらしい。そんな温かみは映画本来、必要不可欠なもののように感じる。

 アカデミー賞といえば、一昨日の夜、ポルトガルの深夜テレビでジーン・ケリーの「パリのアメリカ人」を演った。
 これは映画史に残るハリウッド・ミュージカルの名画中の名画のひとつ。勿論、以前に複数回観ている映画だ。
 「雨に唄えば」などは複数回と言っても、それこそ場面場面全て覚えているくらい繰り返し演る映画だが、この「パリのアメリカ人」はそれ程でもないし、観るのも全く久しぶりだ。

 ポルトガルのテレビは吹き替えはしない。ポルトガル語の字幕スーパーがでる。ハリウッド映画ならもちろん英語のそのままだ。たまにスウェーデン映画なども映るが懐かしいスウェーデン語のまま。ポルトガル映画はもちろんポルトガル語のままだが字幕スーパーは出ない。日本映画も日本語のままで、ポルトガル語の字幕スーパーが付く。
 狎れとは恐ろしいもので、日本語が耳に届いている筈なのに、必死でポルトガル語の字幕スーパーを目で追っていたりする。

 さて先日観たジーン・ケリーの「パリのアメリカ人」。監督はライザ・ミネリの父、ビンセント・ミネリ。1951年の作品でアカデミー作品賞など7部門を獲得している。何といってもジーン・ケリーとレスリー・キャロンのダンスは見応えがある。

 パリに住むアメリカ人画家ジェリー(ジーン・ケリー)と香水店の店員リサ(レスリー・キャロン)の恋の物語。
 ジェリーが狭い安アパートを出て、町角の壁に張り付ける絵はユトリロのそのままだ。壁に掛けている絵を金持ちでアメリカ婦人のコレクターが見初め、付き合いが始まる。ジェリーはレストランで別の席で食事をしていた女性リサに一目ぼれ。職場の香水店にもジェリーは押しかけ、やがてリサも心動いてゆく。

 アメリカ婦人に誘われて訪れた仮装パーティー。会場はゴッホも描いたあのムーラン・ド・ラ・ギャレット。仮装パーティーには偶然、リサもボーイフレンドと来ていた。その最後のシーン。ベランダで二人で踊る場面。

 二人でと言っても、実はリサ(レスリー・キャロン)はボーイフレンドと先に帰ってしまう。
 クルマに乗り込んで帰ってしまうリサをジェリーはベランダから見送りながら、その場に落ちていた紙に鉛筆で落書きをする。
 その落書きがラウル・デュフィの「チュイルリー公園の門」の絵なのだ。
 その絵がカラーになり、舞台装置になり、二人のダンスが始まる。勿論、ジェリー(ジーン・ケリー)が夢想しているのだ。ジョージ・ガーシュインの名曲にのせて、まさにハリウッド・ミュージカル黄金時代のダンスだ。
 やがてデュフィの絵からアンリ・ルソーの「アンデパンダン展に画家たちを導く自由の女神」の絵に代る。
 そしてトゥールーズ・ロートレックの「ムーラン・ルージュ」。舞台装置が替わりながら見応えのあるダンスが続くこの映画のハイライト。

 ジーン・ケリーもさることながらレスリー・キャロンが最も輝いた場面だ。
 最後に破り裂いた自分の落書き(デュフィのスケッチ)に戻って夢想から醒める。醒めたところにリサが戻って来てハッピー・エンド。

 このダンスシーンの舞台装置。以前にはそんな絵が使われていたとは僕は気が付いていなかった。
 何の気なしに観ている映画も再度観ると新たな発見がある。映画とはホント面白いものである。

 レスリー・キャロンは実はフランス人でパリでバレーをしている姿を見たジーン・ケリーにスカウトされ、アメリカに移り住んだ女優だ。そしてこの「パリのアメリカ人」がデビュー作。
 その後、やはりビンセント・ミネリ監督の「リリー」でアカデミー主演女優賞にノミネートされている。
 一方、ビンセント・ミネリ監督は1958年、レスリー・キャロン主演の「恋の手ほどき」でアカデミー作品賞と監督賞を獲得している。

 夜のテレビ「パリのアメリカ人」はなんとか眠らないで最後まで楽しむことができたが、その後深夜、続けて「風と共に去りぬ」が始まった。
 僕は絶対無理だと思ったので寝てしまったが、「パリのアメリカ人」の時はすっかり眠っていたMUZがむっくと目を覚まし、なんと「風と共に去りぬ」を最後まで観たらしい。終わったのは朝方の4時半。いやはやお疲れ様でした。

 ちなみにこの「風と共に去りぬ」は1939年アカデミー作品賞他、監督賞(ヴィクター・フレミング)、主演女優賞(ヴィヴィアン・リー)など9部門に輝いている。
VIT

 さて、この3月14日から日本に一時帰国します。ポルトガルに戻ってくるのは6月中旬になりますので、このコーナーはしばらくお休みです。次回はたぶん7月1日になります。
 個展のための帰国です。お近くにお起しの際は是非お立ち寄り下さい。
 また、横浜、岡山、大阪高島屋以外では個展はありませんが宮崎にも滞在しますし、どこか旅行にも出かけるかも知れません。町角を歩いているのを、或いは走っているのを、又或いは自転車を漕いでいる姿を見かけたら、お声をかけてください。VITこと武本比登志

(この文は2009年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 先日のUSエアウェイズがハドソン河に不時着水したニュースには釘付けになった。我々にとっては他人事とは思えない。毎年、かなりの回数飛行機を利用するからだ。

 氷点下8度にもなる寒さの中、乗客、乗員合わせて155人全員が無事救出されたのはまさに奇跡。ニューヨーク知事が「ハドソン河の奇跡」と讃えたのにもうなずける。機長の英断と高い操縦技術、それに一般フェリー会社などの迅速な救助。

 事故の発端はエンジンが鳥を吸い込んだ為による。片方なら片肺飛行で飛行場に引き返すことが可能らしいが、この事故の場合、両方のエンジンに鳥が吸い込まれエンジンが停止したとのこと。鳥は群れで飛ぶことが多いので、そういったことはありうるのだろう。

 鳥の種類は未だ明らかにされていないが、恐らくカモメなどの水鳥との見方が多い。
 元々、飛行場は水鳥が生息する、干潟などを埋め立てて作ったところも多く、いわば水鳥のテリトリーに飛行場が進出したのだ。或いは内陸部に飛行場がある場合でも比較的早い段階で海上に出て飛行ルートを取ることが多い。

 飛行機が鳥に衝突したり吸い込んだりすることを、この程初めて耳にしたが、バードストライクと言うらしい。
 ストライクと言うより鳥にしてみればむしろデッドボールではないのか?
 そのバードストライクがアメリカで1990年から2003年までの間に51,000件も起きている。ポルトガルでは2008年1年間で126件。日本は2007年1年間だけで1320件と多い。

 干潟だけではなく、大空は元々鳥のテリトリーだ。そこに人類が進出したのだ。
地球は人類だけの星ではない。
 地球上に現在人類は70億。鳥は恐らくそれを遥かにしのぐ。鳥類は約1万種いると言われている。それが毎年1,1パーセントずつ減少している。3日に1種ずつ希少種が姿を消している勘定だ。

 鳥の希少種の減少。これは人類の身勝手によるところも大いにある。
 農薬や化学肥料による昆虫など餌の減少は勿論のこと、例えばあの可愛らしいツノメドリ。ツノメドリの生息地、カナダ沖などで獲れる子持ちシシャモを好んで食べるのは日本人だ。僕も大好物だが、子持ちでないと売り物にならないらしい。漁船は網ですくって子持ちでないオスはすぐ海に捨てる。それを目がけてカモメが安直に餌にありつく。カモメは増える。増えたカモメはツノメドリの卵も狙う。希少種のツノメドリの数は減少する。

 昔、南米を旅行中に「インコを買わないか?」と声をかけられたことがある。
 男の肩には鮮やかな色彩のインコが乗っていた。
 インドネシアでは鳥市を見学に行ったことがあるが、珍しい鳥がたくさんいたので、熱心に見ていると、「こっちにもっと珍しいのがいるよ」と少年から声をかけられた。少年が鳥かごの覆いを外すと希少種のサイチョウがいて驚いたことがある。
 両方とも勿論、ワシントン条約に違反する行為だろう。

 昔、ニューヨークに住んでいる時、「街に増えすぎた鳩は汚らしくて病原菌を運ぶドブネズミと同じだ」と言った人がいる。
 マンハッタンは鳩の天国だ。その豊富な鳩を餌にハヤブサなどの猛禽類が住み着いている。ハヤブサにしてみればマンハッタンの摩天楼は断崖絶壁の岩場同様なのだ。

 我が家の周りでも鳩に毎日餌をやる人がいる。
 鳩が増える。そうすると元々居た、或いは毎年渡って来ていた野鳥のテリトリーを脅かし、野鳥は減少する。
 以前はセトゥーバルの中心ボカージュ広場のキオスクで鳩の餌を売っていたが、最近は売られていない。
 鳩は人に狎れ、キオスクの売り手の目を盗んで売り物の餌の袋を突っつく。増えすぎると手がつけられない。
 それに鳩が増えすぎると自然の生態系を崩す。と理解が深まったためだろうか。
 という僕自身も以前、ストックホルムでは船着場まで行ってカモメに餌をやったり、セトゥーバルのルイサ・トディ大通り公園の鳩にパンくずをやったりもした。

 以前、宮崎では山の中に住んでいたので、いろんな野鳥を楽しむことができた。
 庭の鯉の池にはその稚魚を狙ってゴイサギだけでなく、カワセミなども姿を見せていたし、壊れた雨どいにはシジュウカラが巣を作って子育てをしていた。
 庭で椿の移植をしていると、堀りあげた土にルリビタキが乗っかって首をかしげ不思議そうな目でこちらを見ていたこともある。
 ピヨロロ~と鳴き声と共に真っ赤なアカショウビンが庭の上空を横切る。キビタキ、ジョウビタキ、数種類のセキレイそれに冬には野雁など、野鳥は本当に可愛いものだ。

 人というものを見たことがなくて怖がらない鳥は可愛いが、人の存在を知っていて怖がらない団体の鳥は恐ろしくて厄介だ。
 カラス、鳩、カモメなどがそれだ。
 オーストラリアでは何百羽もの群れになったインコがトウモロコシ畑やピーナッツ畑を襲う。

 ポルトガルでは、最近はフラミンゴの観察に行ったり、コウノトリを見たり、メルロや黄色い斑の野鳥の歌声などは我が家に居ながらにして楽しむことができる。

 今も我が家の前の広間の空間を5羽のカモメが飛び交い、電線には19羽もの鳩が1列に並び、筋向いのおばさんがパンくずを放り投げるのを待っている。
 メルカドの上空あたりには100羽ほどの鳩の群れが旋回している。

 我が家の東南側は松林になっていて、昨年は数十本の松の木が伐られたがまだ5本の大木が残っている。
 その松林は毎年、野鳥の繁殖地になって、たくさんの新しい生命が巣立っていく。
 松林の中では今もシラコバトやメルロなどの野鳥がたぶんカモメなどの大型鳥を恐れてひっそりとしているのだろう。



我が家の前の松林に住み着いている白子鳩(ベランダから撮影)

 幸いセトゥーバルにはカラスは居ない。郊外には少しは居ても群れになることはない。

 冬場の今の時期、アレンテージョでは狩猟期だ。
 メルカドの鶏肉屋の店先に毛皮が付いたままの野ウサギと共に、美しい羽根、羽毛のキジなどの野鳥も売られている。

 何でも過剰な保護をすると生態系を壊す。可愛がったり食べたり、難しいところだ。
 干潟近くの飛行場では野鳥を追い払う為に空砲を撃つのにかなりの人手と経費を使うと言う。
 それでも年間1,320件ものバードストライクが日本国内だけで起こっている。
 これだけバードストライクが多いのであれば大惨事が起る前にその対策は急がれてしかるべきだ。

 ジープがヘッドライトの前に付けている金網のプロテクターの様なものを、航空機のエンジンの前に取り付けるというアイデアはどうだろう。鳥を吸い込むのではなく、跳ね飛ばすということになるだろう。何れにしろ鳥には気の毒な話には違いないのだが…。

 寒さに弱い僕などは氷点下8度のハドソン河に不時着水したエアバスの、テレビ画像を見ただけで全身が凍りついてしまった。
VIT

 オバマ大統領の就任式に当のチェスリー・B・サレンバーガー三世機長が招待されたことはニュースでも伝えられた。

 その後のインターネットでのニュース [iza] にこんな見出しの記事が

<鳥に復讐!奇跡の機長「チキン」ガブリ!>

 =就任式の前日、ワシントンのレストランで一緒に乗り合わせていた一部の乗客や乗務員と食事を共にしたらしい。
 居合わせた他の客たちはサレンバーガー機長に握手を求めたりしたが、サレンバーガー機長は目の仇の如く料理された鳥にかぶりついていたとのこと。
 そのレストランの名前が<ハドソン>・・・「ほんまかいな!」=

 とコメントも付けられていた。

(この文は2009年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 いや、突然と言うこともない。半年間の猶予期間はある。

 それは2018年10月1日12:53のメールである。『Yahoo!ジオシティーズ サービス終了のご案内』というもので、2019年3月末日でジオシティーズが終了し、我が家で作っているホームページが見られなくなるのである。

 でも主要なところは既にブログに移っていて、ホームページには表紙、サムネイル画像目次、古い記事などが残されているだけで、それらをブログに移す作業に取り掛かっているところだ。

 大体が自分ではアナログ人間であると思っている。元来が機械に弱く、故障などは直すよりも壊してしまうのが落ちである。だから最初から触らない。

 触らないに越したことはない。パソコンも機械である。

 パソコンをようやく始めたのはポルトガルに来て10年経った頃であったと思う。

 ポルトガルに来る前でも友人の中にはパソコンなどをやっている人は複数いた。でも絵を描く仲間には居なかった。絵を描く人間は元々アナログ人間が多い様な気もする。グラフィックデザイナーの友人も多い。グラフィックデザイナーにとってパソコンは必需品であった筈なのだが、それでもパソコンを触ろうとしなかった友人も居た。

 ポルトガルに来てからも暫くはパソコンなどのことは考えも及ばなかった。

 宮崎に住んでいた頃から毎月、紙のプリントでミニコミ新聞の様なもの『山あいVOICE』というのを作っていた。手書きした紙をコピー屋さんに持って行って100枚ほどコピーしてもらうものであった。それは朝日新聞地方版でも紹介されたこともある。

 その続きでポルトガルに来てからも『ポルトガルのえんとつ』という名前で手書きしてコピーのプリントを作り始めた。友人知人に手紙の返事替わりに、生活の報告代わりに郵送していた。そのプリントが10年は続いたのだったと思う。

 10年くらい経った頃に知り合った隣町に住んでおられた日本人で絵を描かれる10歳ほど先輩の方からパソコンを勧められたのがきっかけだった。「面白いわよ、始めなさいよ」と、女性である。

 一気にパソコンでは自信がなかったので、先ずはワープロから始めた。ワープロも当時としては便利な機械に感じられた。いや、コピーでさえも便利な物だった。

 昔は鉄筆で方眼の蝋紙に書き、謄写版で印刷をしたものである。それも手書き文字である。自分の文章が活字になるなどとは夢にも考えられない時代であったのだ。

 パソコンを始めたのはポルトガルに来て10年目、2000年だったと思う。ノートパソコン『ウインドウズME』を一時帰国した日本で買って持ってきた。個展のための一時帰国で、僕は毎日、展覧会場に詰めなければならなかったが、その個展の期間中にMUZが宮崎市で1週間のパソコン教室に通った。

 ポルトガルに持って帰って、苦労の末インターネットに繋ぐことが出来た。僕はMUZが使うのを後ろから眺めていた。

 次の年の一時帰国で『ホームページビルダー』のソフトを買って来た。何も判らないまま、試行錯誤の末ホームページを立ち上げた。YAHOOジオシティーズに作った。そうしてそれまでは紙のプリントで作っていたミニコミ誌をホームページ上に掲載したのは更に1年後の2002年6月22日であった。最初の文章は2002年7月1日となっている。毎月1回1日掲載で帰国時以外にはずっと続けてきた。それは2012年9月までとなっているからホームページ上での掲載は10年間ということになる。

 この程、連番を打ってみて判ったことだが、ホームページ上に100もの文章を書いたことになる。その後、2012年10月号からはgooブログに移った。ホームページは重さなどの制限があるので、制限のないブログの方が良いのかな、と思ったまでである。写真は大きなサイズを掲載することが出来た。そしてサイトよりブログに移ってからの方が遥かにアクセスは多い。

 ブログに移ってからも6年が過ぎた、そして6年間に58の文章を書いた。合計、実に158個の文章である。その中には1万字を超える長文なども含まれている。旅日記などは挿入写真も多い。我ながらよく書いてきたものだと思う。

 サイトからブログに転載するにあたって、形式が違うのでそのままコピーとはならない。ひととおりは読んでゆく必要がある。これには膨大な時間がかかる。旅日記などはその当時が思い出されてしみじみ良かったな。などと感慨に耽りながら読み進むことになる。

 そう言った意味ではちょうどよい機会を与えられたものだな、などと思う。

 勿論、文章以外にも油彩のページ、画歴のページ、展覧会(個展)のスナップ写真のページなど取り留めもなく広がっている。

 MUZは別にホームページを立ち上げ同じだけのエッセイのページ、それ以外に『ポルトガルの野の花』『コレクション』『セトゥーバル探検』『ポルトガルのキノコ』『ポルトガルの鉄道駅』と膨大に広がっている。

 例えば『ポルトガルの野の花』だけを取ってみても800ページを超えていて1ページに10枚ずつの写真を挿入しているので、単純に計算しても8000枚の写真が掲載されている。

 Yahoo!ジオシティーズに作ったサイトは

2002年6月22日『武本比登志ポルトガルの仕ゴト場』

2003年12月18日『武本睦子ポルトガルのえんとつ』

2004年1月08日『NACK』

2004年8月1日『武本比登志ポルトガルの画帖』

2010年8月15日『ポルトガルの野の花』これは『ポルトガルのえんとつ』の中に作っていたものを独立させたサイトであった。

 この間、膨大なページを作ってきたことになる。

 そして順次ブログに移って行って、野の花などは既に100%ブログに移っている。

 ブログは掲載したのがどんどん奥へ奥へ仕舞われて行って再び見ることが難しくなってくる。それでサムネイル目次のページをホームページに残し、そこからリンクで繋ぐようにしていた。そのサムネイル目次がなくなるのは惜しい。

 そのサムネイル目次をブログに作られないものかと試行錯誤を重ねている。元々、ブログには自然に目次なるものが備わっている。だから必要はないのかも知れないが、自分自身の便宜上ということもある。

 取り敢えずは『エッセイ』の目次。これは文字だけなので簡単であるが、サイトに掲載した100もの文章を移動するのはやはり大変な作業である。毎日ひとつを転載するとしても3か月以上がかかってしまう。

 来年の帰国は2月19日だからぎりぎりだ。戻って来るのは5月15日。その時にはジオシティーズは終わってしまっていて、サイトは見られない。

 それまでには『ポルトガルの野の花』のサムネイル目次は作ってしまいたいと思っている。約800ページ分のサムネイル目次である。

 パソコンも今、主として使っている『ウインドウズ10』で4台目である。それにスマホが加わる。最初の『ウインドウズME』も写真の補正などで毎日の様に未だに使っている。

 インターネットも時代とともに変化をみせている。企業ではなく、個人でのホームページの時代は終わったのかも知れない。ブログよりも既にフェイスブックなどを利用している人の方が多いのだろうか?ブログの時代がいつまで続くのか判らないが、僕にとっては今のやり方が気に入っている。

 数年前からブログに1日1景『ポルトガル淡彩スケッチ』を始めて2018年11月30日現在、1640景。下手くそながら楽しんでいる。そしてこの文章が159話目ということになる。VIT

 

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 先日、一度に4人もの日本人学者がノーベル賞を受賞した。
 日本人にとってこれほど嬉しいニュースはないし、久々の明るいニュースに心躍らされた。
 その内のお二人、小林博士と益川博士のコンビはそのユニークな言動にニュースになることもひときわ多かったし、又、下村博士の蛍光くらげの話も面白かった。

 僕にとってはストックホルムでの授賞式など、懐かしい風景がたびたびテレビ映像に登場したのを楽しんでいた。

 僕たちが海外で最初に住んだ町はストックホルム。
 そのTセントラレン(中心駅)からトンネルバーナ(地下鉄)で南西に4つ目の、シンケンスダム(ZIKENSDAMM)という駅。駅から歩いて僅か2~3分。
 ノレェン家という大きなお屋敷。主たる部屋には家主である、ノレェン夫人と若夫婦が住み、2階の広間は時々パーティ会場として貸して、その他の有り余る部屋を間貸ししていた。

 我々が最初住んだのはその1階部分の1部屋。他にもギリシャ人の夫婦やフランス語教室の先生をしていた独身のフランス人女性などが間借りしていた。トイレ、シャワー、洗濯場、台所は共同。バスタブはなかった。
 部屋の窓からはメラレン湖が真下に広がり真正面の対岸にはあの市庁舎、ノーベル賞の晩餐会が行われるスタッド・ヒューセット(市庁舎)があった。

 部屋の窓のすぐ前は公園になっていて家族連れ、犬連れで散歩に来たり、夏には水着になって芝生に寝転んだりといった市民憩いの場所。澄み切った空気、匂い、音その全てが日本のものとは僕には違ってみえた。
 お屋敷の丁度向いに地域のシンケンスダム教会の鐘楼が聳え、日曜日には鐘の音が鳴り響いた。鐘の音を聴きながら「ああ、ヨーロッパに住んでいるのだ」などと感慨に耽ったものだ。

 仕事が休みの日その公園からスケッチもした。
 ある日、そのスケッチ数枚を市庁舎の庭木に押しピンで留めてみた。その1枚がすぐに売れた。
 買ってくれたのはスウェーデン人の上品な感じの婦人だった。団体観光旅行でどこか地方からストックホルムに出て来たグループの一人だった様で、団体行動の途中だったからか大急ぎで買ってくれた。
 僕は何だか恥かしくなって他のスケッチの押しピンを外し、逃げるようにして市庁舎を後にしたのを憶えている。恐らく僕の生涯で最初に買って頂いた絵がそれだ。

 初めに住んだのは1階だったが、次にストックホルムに戻ってきた時、大家さんがそれまで住んでいた3階の屋根裏部屋を僕たちに提供してくれた。たぶん赤ん坊が生れてその屋根裏部屋では狭くなったためだろう。そこには小さいながら台所とトイレ、シャワーも付いていた。斜めに付いた二重窓からも正面に市庁舎が見えた。寝ながらにして月や星が見えたし、冬には雪が被った。まるで映画か童話にでも出てくる様な、僕にとっては夢の様な屋根裏部屋だった。春にはお屋敷の前庭のサクランボの木にびっしりと実がなった。

 トンネルバーナに乗れば4個目の駅だが、マリア・トリエ(マリア広場)、スルッセン(連結場)、ガムラ・スタン(旧市街)と町並みを楽しみながら歩けばTセントラレンまでもそれほど遠くはなく歩ける距離だ。
 Tセントラレンからドロットニング・ガータン(王妃通り)を少し上ればコンサート・ホールはすぐ傍だ。
 ドロットニング・ガータンにはストックホルム大学に通っていた時の教授・ロセェン先生のアパートがあった。何でも昔の著名な作家の住まいだったそうで階下は図書館になっていた。とにかく由緒のある家で500号くらいの大きな歴史画的な油彩が居間の壁に張られ、やたら部屋数が多かったのを覚えている。

 コンサート・ホールはノーベル賞の授賞式が行われるところとして有名だが、コンサート・ホール前広場にはいつも果物などの露店市が出ていたし、その隣のエスカレーターを下ると公設市場になっていて、僕たちも時々鯖などを買いに出かけていた。
 近所のスーパー・コンスン(KONSUM)では魚といえば、ニシンかウナギの燻製か瓶詰め酢漬けのシル(イワシの一種か)くらいしかなかったからだ。

 僕たちもコンサート・ホールにはたびたび出かけた。
 授賞式ではなくてコンサートを見にだ。そこでマイルス・デイヴィスやデューク・エリントンも見たし、ジュリエット・グレコも見た。演目は忘れたがクラシック・バレーを見たこともあった。

 コンサート・ホールのすぐ裏手にあったロシア料理店で皿洗いのアルバイトをしていたこともある。
 以前に働いていた、百貨店エンコ(NK)前にあったリラ・ショペンハムン(小コペンハーゲン)という名前のレストランと比べれば100分の一暇な店で、大学のノートを開いてウエイトレスからスウェーデン語の判らないところなど教わったりもしていた。コックはトナカイ料理やロシア風じゃがいもの焼き方など僕に教えてくれた。

 そう言えばリラ・ショペンハムンでは僕もコックをしていたが、スウェーデン人のコックは1人も居なくて他のコックも全員が外国人だった。
 シェフがギリシャ人のコンスタンティン、副シェフはポーランド人の亡命者。平コックもユーゴ人やオーストリア人そしてポルトガル人のルイス。お客が一時にたて込んで猛烈に忙しくなるとコックたちと言えどパニック状態に陥る。そんな時、手が早くがぜん能力を発揮したのがルイスと僕だった。

 そのレストランのメニューに「牛フィレのマデイラ・ソース和え」というのがあった。
 ソースを仕込む時、伝票を書いてカウンターからその分量のワインを貰うのだが、経営者側はマデイラ・ワインは高価なので安いワインで済ませようとする。
 そうするとルイスは店中に響き渡る大声を張り上げて「これはマデイラではな~い!」などと言い張っていた。
 「ルイスは今どこで何をしているのだろう。」などと時たまふっと思ったりする。アゼイタオンの露店市を歩いていても「あれはもしかしたらルイスでは?」などと思うことがある。似ている顔つき体型はセトゥーバルにはよく居るのだ。

 ノーベル賞の晩餐会ではセトゥーバルの「モシュカテル・セトゥーバル」が供されるとのことだ。モシュカテル・セトゥーバルはアゼイタオンで作られている。
 王妃の隣に益川博士が座られたが、モシュカテルを味あわれたのだろうか。
 ノーベル賞を授与されたグスタフ国王が国王に即位した時、僕はちょうどリラ・ショペンハムンのキッチンでコックをしていた。キッチンのテレビにその様子が中継されていたのをマネージャーのアンダション氏が見てうれし涙を潤ませていた。アンダション氏にしてみれば、グスタフ国王が生れた時からずっと見てきたに違いない。アンダション氏もお元気だろうか?
 あの頃はまだ独身で即位されたのだが、グスタフ国王も随分お歳を召されたものだ。

 市庁舎を更に下った警察本部と港に近いところにあった「シントラ」というバーでアルバイトをしていたこともあった。
 若い荒くれの船員たちが大勢たむろする店で僕はお客が飲み終わったビア・ジョッキを片付けて洗うだけの夜中の仕事。
 その頃は知らなかったのだがシントラはポルトガルの地名だ。バイロンはかつてシントラのことを地上の楽園「エデンの園」と讃えた。
 ストックホルムのシントラでは腕に刺青のある、まるでポパイとブルートの様に、荒くれの客同士で殴り合いが絶えなかったし、それを取り巻く若く美しい女性たちも酔ってテーブルに乗りストリップを始めたりと…。
 その殴り合いやストリップを止めに入るのも僕の仕事?だった。
 今から思うと、僕の人生の中で後にも先にも考えられない別世界の空気が漂っていた。
 ある意味で「エデンの園」であったのかも知れない。

 僕は1度しか行ったことがなかったが、ガムラ・スタンに「ボバデラ」という名のディスコがあった。日本人のたまり場で通称「お寺」と親しまれていた。
 そのお寺で知り合ったスウェーデン人女性とその後結婚して、2人の子供をもうけ、子供も成人し、今も尚ストックホルムに住んでいる日本人の友人がいる。
 僕が東京表参道で個展をした時、たまたま彼も帰国中で個展会場を訪ねてくれ旧交を温めた。その彼が彼女と出会ったボバデラもポルトガルの地名だ。

 その頃には、僕が将来ポルトガルに暮らすなどとは夢にも思わなかったことなのだ。
 今、セトゥーバルの下町、アヌンシアーダ教会の鐘の音を遠くに聞きながら、懐かしいシンケンスダム教会の鐘の音がオーバーラップして僕の心に響き渡る。
 あれから30数年、毎週日曜日には休むことなく鳴り続けているのだろうか。
VIT


(この文は2009年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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