
世界史のテスト、主権国家の変容について
世界史のテスト対策に
この数日かかりきりの息子。。。
うち、一つがどうしても
250字に収まらず
四苦八苦






訂正加筆して、まとめました!↓↓↓↓↓
中世ヨーロッパの封建国家は、皇帝や国王は国土を統一的に支配しておらず国境も明確ではなかった。ヨーロッパ各国の生産力の向上、生産関係の変化に伴って封建社会が解体するにつれて、封建領主は没落した。イタリア戦争によって、各国は国境で区切られた領土を排他的に有し、統一的な国家権力が統治し、官僚や常備軍を持ち、国内の経済活動を保障し、租税を徴収するという主権国家のしくみをもった。この段階の主権国家は、主権を国王が持つ絶対王政という政治形態を持っていた。また16世紀は宗教改革の時代であり、宗教が国家統合の大きな要素であった。三十年戦争は外国勢力も介入した大規模な戦乱となり、最後にして最大の宗教戦争といわれたが帝国の国制をめぐる政治的思惑によって諸侯勢力が合従連衡をくりかえし、旧教国フランスが新教徒側で参戦したように、国家的利害が宗教的行動原理に優先し、戦争の性格が変化した。そして初めて各国の代表が国際会議を開いて調停し、ウェストファリア条約を締結して各国に遵守義務を負わせた。
どうしても300文字を超えます





250字は、無理???
↓↓↓↓↓↓↓↓チャットGPTより。。。
普通に述べたら、
こんなに長いお話。。。
主権国家とは、主権・領土・国民の三要素を持った近代の国家形態。封建社会の解体に伴い、16世紀のイギリス、フランスなどの西ヨーロッパの諸国で形成された。当初は国王が主権を持つ絶対王政の形態をとっていたが、市民革命を経て立憲君主政か共和政に移行し、議会制による民主政治が行われるようになっていく。その過程で、租税などで国家を支える国民の概念と人為的な国境で囲まれた領域である国境が形成された。
封建国家の解体
中世ヨーロッパの封建社会の上に成立した封建国家は、神聖ローマ帝国やイギリス王国、フランス王国がそうであったように、皇帝や国王は封建領主の一人にすぎず、国土を統一的に支配していたのではなく、また国境も明確ではなく、互いに入り組んでいた(百年戦争の時のイギリスとフランスの関係を思い出すこと)。ヨーロッパ各国の生産力の向上、生産関係の変化に伴って封建社会が解体するにつれて、封建領主(貴族)は没落し、特に百年戦争やイギリスのバラ戦争によって決定的になった。
主権国家の形成
16世紀にはイタリア戦争(広義では1494~1559年)によって、領土概念や常備軍の必要が認識されるようになり、特にフランスで王権のもとで統一国家の形成が進んだ。またこの戦争では火砲(鉄砲)の使用が一般化し、騎馬戦術から鉄砲を持つ歩兵による集団戦術に変化するという軍事革命が進行し、封建領主の没落は明確となって各国が常備軍を所持する形態に移行した。イギリスでも16世紀にテューダー朝のもとで国家統合が進んだ。このように各国は国境で区切られた領土を排他的に有し、統一的な国家権力が統治し、官僚や常備軍を持ち、国内の経済活動を保障するとともに国家が体系的な租税を徴収するというしくみをもった国家が主権国家といわれるものである。また16世紀は宗教改革の時代であり、宗教が国家統合の大きな要素であったので、ヨーロッパのこの時期の主権国家間の争いはカトリックとプロテスタントの宗教戦争という側面を持つことになる。
国民意識の成立
また、中世の封建国家では、領主階級は主従関係に縛られ、農民は荘園に縛られており、国家への帰属意識はほとんど無かったが、封建社会が崩れ主権国家が形成されるとその構成要素として「国民」が意識されるようになる。また経済の発展は荘園や都市の枠を越えた広範囲な市場を生み出すこととなり、ギルドのような閉鎖的な団体は次第に解体され、自由な経済活動を展開する市民であり、統一国家を支える国民があるという自覚を持った人びとが社会の中核を占めるようになっていく。この場合も宗教的な結束が国民意識の重要な要素となった。
主権国家の最初の形態が絶対王政
しかし、この段階では国家主権は国王・貴族に握られており、国民はまだ主権者とはされていない。16~18世紀段階の主権国家は、主権を国王が持ち、国王に権力が集中する「絶対王政」という政治形態を持っていた(それを正当化するのが王権神授説)。また経済活動も国王が特権的商人と結んで利益を独占する重商主義政策が採られ、自由な商業活動や貿易は行われなかった。
現在では、主権国家の初期の形態である国王の絶対主義的統治を支えた社会的基盤として、社団(中間団体)の存在が重要であるという指摘が出ている。
市民革命に伴う国民国家形成へ
イギリスに始まる産業革命で産業資本家(ブルジョワジー)が形成されると、彼等は経済活動の自由と政治的な平等を求めて市民革命を起こす。それによって絶対主義王権が倒されたことによって、国家主権の主体は国民にあることが自覚され、「国民国家」を形成することとなる。「国民国家」の形成を目ざす運動が国民主義(ナショナリズム)であり、「国民」概念が確立した段階が「近代国家」の完成と言うことができる。
またこの過程で王権神授説に変わる国家理念として、イギリスでは17世紀前半にホッブズ、17世紀後半にロックが現れて社会契約説が説かれるようになり、18世紀フランスのルソーによって人民が主権国家の主権者として位置づけられ、アメリカ独立革命とフランス革命という市民革命によって新たな段階に入っていくこととなる。
主権国家体制
16~17世紀のヨーロッパに成立した、主権国家間の国際関係のあり方を主権国家体制という。現代の国家間の外交関係や国際機関の原型となった。
16~17世紀までのヨーロッパにおいて、徴税機構を中心とした行政組織と常備軍をもち、明確な国境内の領域を一個の主権者である君主(国王)が一元的に(中央集権体制的に)支配する「主権国家」と、それらの国家間の国際関係が形成されたこという。
なお、現代の国家間の外交のあり方、外交官を大使や公使として交換し、常駐させるやり方は、15世紀のイタリアのヴェネツィア共和国にで始まっている。また、国際紛争の解決のために、各国の代表が国際会議を開いて調停し、条約を締結して各国に遵守義務を負わせるという近代的な意味の国際会議は、三十年戦争の際のウェストファリア会議とその成果である1648年のウェストファリア条約が最初とされている。
主権国家体制の成立
イタリア戦争などの領土獲得のための抗争、海外領土の獲得競争、宗教対立などが複雑に絡み合いながら展開され、イギリス・フランス・オランダ・スペイン・ポルトガルなどが主権国家体制を形成させた。ドイツは全体としての統一は遅れ、三十年戦争の後にプロイセンとオーストリアが分立する。三十年戦争の終結させた、1648年のウェストファリア条約によって、ヨーロッパの主権国家体制は確立した、とされている。
イタリアは最も統一が遅れ、外国勢力の支配と干渉を受け続け、主権国家の形成は最終的には18世紀中頃となる。また東方のロシアは17世紀に主権国家を形成した。 → 近代世界システム
主権国家体制がイタリア戦争の過程で形成されたことについては、次の文がわかりやすく説明している。
(引用)こうして(イタリア戦争の始まった)1494年、フランス王の行軍は近世という「パンドラの箱」を開けてしまった。イタリア半島が国際紛争のアリーナとなり、ルネサンスの成果が北漸するきっかけとなった。それだけではない。イタリア戦争中、戦闘と外交の交錯するなか、ミラノとジェノヴァ、ヴェネツィアとオスマン帝国、そしてスペイン、ネーデルラント、フランス、イングランドと皇帝、教皇庁が相互に外交使節団を駐在させ、その安全を保障し、文書を交わすという慣行が定着した。宗教改革によるキリスト教共同体の崩壊と並行して、大小・強弱・性格の違いはあれ、一定の領域における主権を主張する近世国家のあいだで、ルールを定めて戦争と交渉を繰り返す独特の世界秩序が出現する。研究者が「主権国家体制」あるいは「諸国家系」と呼び慣わすものである。これが国際法として定着するには、ジェンティーリやグロティウスのような法学者、そしてウェストファリア条約を待たなければならないが、国際関係というゲームのルールが人類史上はじめて成立することに意味がある。たとえば東アジアにおける「華夷秩序」「朝貢関係」とは本質的に違うルールが成立したのである。
または、、、、
ヨーロッパ主権国家体制の形成
1.主権国家体制の起点となったイタリア戦争
1494年、フランスがイタリアに侵入すると、ハプスブルク家がこれに対応し、イタリア戦争がおこった。対立はイタリア内外の国々や教皇、オスマン帝国まで巻き込んで続いた。
特にカール5世(神聖ローマ皇帝)とフランソワ1世(フランス王)の頃には絶えず外交工作をこらし、同盟関係を複雑に展開しながら激しく戦った。
ニッコロ・マキャヴェリがイタリアの分立・抗争をみて『君主論』のなかで君主権の強化と手段を論じたのもこの頃である。長期にわたった戦争は、1559年、カトー・カンブレジ条約で終わった。
戦争中、複雑な外交的駆け引きがくりかえされるなかで、外交官の交換とその常駐などのルールが形成され、教皇・皇帝といえどもイタリア諸国家・フランス・イギリスなどと同列の自律的な主権者の一員にすぎなくなった。こうした国家間に形成された新たな国際秩序を主権国家体制といい、イタリア戦争はその起点となった。
2.宗教戦争と主権国家体制の形成
宗教改革は全ヨーロッパ的なキリスト教世界の秩序を根本から揺るがせ、各国・各地域で宗教内乱や宗教戦争が激化した。各国はこうした混乱を乗り越え、国家としてのまとまりを維持しなければならなかった。
フランスではユグノー戦争でのサンバルテルミの虐殺後に、ユグノー側は虐殺を行い暴君と化した王権に対する抵抗の論理として「暴君放伐論」をかかげ、国外の新教勢力の支援をあおいだ。
他方、急進派カトリックも大国スペインと結び対抗したため、外国の介入が加わり、フランスは混乱をきわめた。混乱のなかで穏健カトリックを中心とする人々(ポリティーク派)は、外国の介入に危機感をもち、王権強化による秩序の回復を求めた。ポリティーク派の思想家ジャン・ボダンは『国家論』のなかで「主権とは国家の絶対的・恒久的な権力で、国王が主権をもつ」と説き、教皇や皇帝の普遍的支配権を否定した。
ドイツの宗教対立は、1555年のアウクスブルクの和議により一応の終結をみたが、皇帝は宗教問題に関する裁定権を失い、かわって領邦諸侯が領内の教会の保護支配権を掌握することとなった(領邦教会制度)。
また、オランダ独立戦争もスペインのカトリック強制に対しての宗教戦争ではあるが、周辺諸国が強国スペインを中心とする国際関係のなかで政治的に動いていることを理解すべきである。このように宗教戦争は、主権国家の形成を促進する起爆剤としての役割を果たしたのである。
3.三十年戦争と主権国家体制の確立
三十年戦争は外国勢力も介入した大規模な戦乱となり、最後にして最大の宗教戦争といわれた。しかし、他方で帝国の国制をめぐる政治的思惑によって諸侯勢力が合従連衡がっしょうれんこうをくりかえし、カトリック国フランスが反ハプスブルクの立場から新教徒側で参戦したように、国家的利害が宗教的行動原理に優先するようになり、覇権をめぐる国際戦争へと戦争の性格が変化した。
三十年戦争はウェストファリア条約で終結したが、条約が、大半のヨーロッパ諸国が参加した国際会議でまとめられたことは、ヨーロッパ主権国家体制の確立を示すものであった。
ドイツ領邦諸侯にもほぼ完全な主権が認められ、以後、各領邦は独自の国家建設に進み、神聖ローマ帝国形骸化が決定した。三十年戦争の惨禍さんかをみたオランダの法学者フーゴー・グロティウスは『戦争と平和の法』で主権の最高性や独立性を主張する国家相互の守るべき国際法を提唱した。
主権国家が形成された時期は、宗教戦争をはじめとして恒常的な緊張状態にあった。戦争の恒常化と長期化・大規模化は武器や戦術の進歩をうながし、軍隊の制度に大きな変化をせまることになった。傭兵軍の時代から常備軍の強化が必要な時代となり、軍事行政は国家の独占となった。
常備軍の維持は恒常的な税収入が確保されてはじめて可能になる。そこで、財政機構を中心に官僚制をそなえた行政組織を整備し、国内の統一的支配を強める必要が生じ、支配領域を国境でかこい込み、国外に対しては君主のみが主権者として国を代表する体制を築くようになった。こうした国家を主権国家という。
さらに、各国は自領域内への排他的な権力(主権)の行使を相互に承認しあい、国際社会の対等な構成員として、外交官を交換しあうなど共存のための国際慣行を積み重ねていった。こうして形成された新たな国際秩序は主権国家体制と呼ばれ、現代まで続くこととなる。
主権国家の形成期に、スペイン・イギリス・フランスなどで絶対王政と呼ばれる強力な国王統治体制が生まれた。しかし、貴族などはまだ力を残していたので、国王は彼らに免税などの特権を認める一方、商人や金融業者などの新興の有産市民層(ブルジョワジー)との協力関係を深め、双方のバランスの上に強い王権を築こうとした。
もしくは、、、、
こちらは項目ごと、国ごと、、、
イタリア戦争
・神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家)とフランス王は、長きにわたってイタリアをめぐり対立しており、1494年から1559年にかけてイタリア戦争がおこった。フランス王シャルル8世のイタリア侵入がきっかけとなり、その後神聖ローマ皇帝カール5世とフランス王フランソワ1世の間で大規模な戦争がおこった。イタリア戦争以降広まった軍事革命により、小銃や大砲が戦争の主力となり、中世以来の騎士の没落が決定的となった。イタリア戦争は、フランス王アンリ2世、スペイン王フェリペ2世、イギリス女王エリザベス1世が1559年にカトー=カンブレジ条約を結び、終結した。
・時代が近代に移るにつれ、社団国家や国民国家の成立、国語の普及も進んだ。
主権国家体制の成立と絶対王政
・ 主権国家とは、明確な国境と独立した主権を有する近代国家のことで、これらは互いに競合しながら主権国家体制という国際政治を作り上げた。
・16世紀から18世紀にかけて、各国の中央集権化が進み、絶対王政(絶対主義)が確立していった。絶対王政は、イギリス王ジェームズ1世・フィルマー、フランス王ルイ14世・ボシュエなどが主張した王権神授説というイデオロギーにより正当化され、官僚組織と常備軍により支えられた。
絶対王政の時代には、官僚組織と常備軍を維持する財政資金を得るため、国家が積極的に経済活動に介入し、重商主義政策が行われた。重商主義には、重金主義、貿易差額主義、産業保護主義などの形態があった。
スペイン
・イベリア半島では、1479年にカスティリャ王国とアラゴン王国が合併し、スペイン王国が成立した。スペインは、1492年ナスル朝の首都グラナダを陥落させ、数世紀に及んだレコンキスタ(国土回復運動)を終えた。
・1273年に初めて神聖ローマ帝国皇帝を輩出したハプスブルク家は、その後マクシミリアン1世の子、王子フィリップとスペイン王女の婚姻により、スペイン=ハプスブルク家が成立した。マクシミリアン1世の孫はカルロス1世としてスペイン王となり、更にフランス王フランソワ1世との選挙に勝ち、神聖ローマ帝国皇帝カール5世にもなった。ハプスブルク家の支配領域は、スペイン、ネーデルラント、ナポリ、ミラノ、オーストリア、新大陸など、広大な地域に及んだ。
・カルロス1世は、スペイン絶対王政を作り上げたが、その後ドイツ宗教改革やフランソワ1世とのイタリア戦争などで王室財政が破綻したため、神聖ローマ帝国皇帝位を弟のフェルディナンド1世に、スペイン王位を息子のフェリペ2世に譲り、退位した。
・フェリペ2世は即位後、カトー=カンブレジ条約を結び、イタリア戦争を集結させた。また、対外的には1571年にレパントの海戦でオスマン帝国を破り、1580年にはポルトガルを併合して「太陽の沈まぬ国」を成立させ、スペイン絶対王政の最盛期を作り上げた。
熱心なカトリック信者のフェリペ2世は、その後カトリック政策を推進し、新教徒を弾圧したため、オランダ独立戦争を招き、戦費が増大、また、新大陸からの銀の産出も減少し、経済的没落が進んでいった。1588年には、スペインが誇る無敵艦隊(アルマダ)がアルマダの海戦でイギリスに破れ、国力が衰退した。
オランダ
・1477年にハプスブルク家の領地となり、その後1556年にスペイン=ハプスブルク領となったネーデルラントは、中継貿易や毛織物工業で栄え、アントワープが中心都市として繁栄した。商工業者が多いこの地域では、次第にカルヴァン派(ゴイセン)が増え、一大勢力となったが、スペイン王フェリペ2世はカトリック信仰を強制し、アルバ公を派遣し恐怖政治を行った。
・こうしたスペインの圧政に対し、オラニエ公ウィレムを指導者としたネーデルラントの新教徒が立ち上がり、オランダ独立戦争(1568〜1609)がおこった。南部10州は途中で脱落し、スペイン派のアラス同盟を結成したため、残りの北部7州はホラント州を中心とし1579年新たにユトレヒト同盟を結び、その後1581年にネーデルラント連邦共和国の独立を宣言した。スペインは1609年に休戦条約を結び、1648年のウェストファリア条約でオランダ独立が各国に正式に承認された。
・スペイン軍の占領後荒廃しやアントワープに代わり、アムステルダムが政治経済の中心となった。独立を果たしたオランダは、東インド会社・西インド会社を設立し、覇権国家となっていった。
イギリス
・イギリスではテューダー朝のもと絶対王政が成立した。基礎を築いたヘンリ7世、1534年首長法によりイギリス国教会を設立したヘンリ8世、1559年統一法を発布しイギリス国教会を確立したエリザベス1世などが絶対王政期の国王である。
・イギリスでは新たな階層としてジェントリが生まれ、治安判事などを務めた。また、毛織物工業が盛んとなり、15世紀末から17世紀にかけて、第1次囲い込みが行われた。
エリザベス1世は、フェリペ2世と対抗し、1588年アルマダの海戦でスペイン軍を破り、オランダ独立を後押しした。また毛織物工業の奨励、東インド会社の設立、枢密院の強化、救貧法の制定など、イギリス絶対王政の最盛期を現出した。
・イギリスでは政府の特許状を得た私拿捕船が主要な海上戦力となり、ホーキンズやドレークなどが活躍した。また、エリザベス1世の寵愛を受けたローリなどの探検家も各地に派遣された。
フランス
・フランスでは、ユグノー(カルヴァン派)が一大勢力となったが、カトリックも根強く、新旧両派の対立が進んだ。幼いシャルル9世が即位後、その母のカトリーヌ=ド=メディシスが摂政につくと、ユグノー戦争が勃発した。1572年には、カトリーヌがプロテスタントを標的にしたサン・バルテルミの虐殺が起こり、以後戦争が激化した。
・こうした中、シャルル9世の後に即位したアンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝が途絶えると、アンリ4世が即位し、ブルボン朝を開いた。アンリ4世はユグノーからカトリックに改宗し、ナントの勅令を発布し新旧両派に同等の権利を与えユグノー戦争を終わらせた。
・アンリ4世の暗殺後即位したルイ13世は、名宰相リシュリューの助けを受けながら、三部会の招集を停止し、専制政治を行い絶対王政を確立した。次のルイ14世は、イタリア生まれの宰相マザランのもと、ウェストファリア条約締結やフロンドの乱を鎮圧し、高等法院を屈服させた。マザランの死後、王権神授説を唱え絶対王政を確立したルイ14世は太陽王とよばれ、財務総監コルベールを重用し、王立マニュファクチュアの設立など、重商主義政策を進めた。
三十年戦争
・新大陸やアジアへの進出により、好景気だった16世紀と比べ、17世紀のヨーロッパは海外進出が止まり、経済活動が停滞し、食料不足や魔女狩りなど社会不安が増えた。また、ドイツの三十年戦争、フランスのフロンドの乱、イギリスのピューリタン革命・名誉革命などが起こり、この状況を「17世紀の危機(1620頃〜1720頃)」という。
・ドイツでは、宗教改革後のアウグスブルクの宗教和議以降も新教両派の対立が起こっていた。こうした中、1618年に皇帝がカトリック教徒をベーメン国王に任命し、対抗宗教改革(新教弾圧)を行ったため、これに新教徒が反発し、三十年戦争(1618〜1648)がおこった。
・三十年戦争はその後、各国を巻き込み拡大していった。新教国デンマーク・スウェーデンが参戦し、スウェーデン王グスタフ=アドルフが旧教側のヴァレンシュタインを破るなど連勝した。(グスタフ王はその戦いで戦死)しかし、旧教国フランスが旧教国神聖ローマ帝国を打倒するために参戦するなど、次第に宗教対立と関係のない国際戦争となっていき、1648年のウェストファリア条約でようやく終結した。
・ウェストファリア条約は、ドイツウェストファリア地方のミュンスター・オスナブリュック2都市で講和会議が開かれ、以下の内容が決められた。これにより、神聖ローマ帝国は事実上解体(名目上1806年まで存続)された。
①スイス・オランダ独立
②フランスがアルザス・ロレーヌ獲得
③スウェーデンが西ポンメルン獲得
④ドイツ諸邦が主権確立
⑤カルヴァン派公認
⑥帝国議会にフランス・スウェーデン代表が参加
ロシア
・ロシアは、モスクワ大公国のイヴァン3世が統一を達成した後、イヴァン4世が中央集権化を進めた。イヴァン4世の時代に、ツァーリが公的称号となり、専制君主制ツァーリズムが始まった。
・イヴァン4世はカザン=ハン国やアストラ=ハン国を併合し、コサックの族長イェルマークにシベリアを開拓させた。
・イヴァン4世の血統が途絶えると、ロシアは混乱していったが、1613年ミハイル=ロマノフが皇帝に選出されロマノフ朝を開き、1917年ロシア革命まで王朝は続いた。
250字にまとめるのは
難しい。。。。






































