無題       くぼあき

   まだ自転車は、女に引かれながら団地の坂を登っていた。バスが自転車の横を重そうに大儀そうに抜かしていった。
   バスは一号棟前停留所で学習塾の鞄を抱えた小学生達を吐き出したくたびれた青色の背広を着た初老の男が灰皿スタンドで煙草を揉み消し、若い方は足元に煙草を投げると革靴でそれを踏み消す。最後に降りてきた塾鞄の小学生がまだしっかりと煙の消えていない煙草を自分の運動靴でぐりぐりと踏むと、男は子供を睨んだ。初老の背広がお、ボウズ、わるいな、火事にならずに済んだよと破顔すると若い方はチッと舌打ちして紺色のネクタイを緩めながらバスに乗り込む。
二人の男はバスの後ろの方、水色のアイシャドウ鮮やかなスナックのママ風の女の後ろに並んで腰掛けた。バスは発車し、また自転車を追い越し、ノロノロと坂を登っていった。
   オレンジ色に燃える夕日は女の顔をジリジリと焼く。自分のイニシャルの編み込んだ毛糸のマフラーを外し自転車のカゴに入れる。西日はマンモス団地全体を飴色に染め抜き、楠は地の果てまで植樹されていて、十号棟まで登りきると左手に第一勧業銀行の赤いハートの看板が建ち黒地に橙色のGがついたキャップを被ったジャンパー姿の、時々セーターの、左腕に骨折の三角巾を巻き右手にバットを持った、グローブをはめたままの半ズボンの、ボウズ頭の、またはスポーツ刈りの男の子たちがその前を猛スピードでかけぬけていく。自転車は左折する。後ろを振り返る。
    遠く下界のような街の家々は無数のマッチ箱のようで、その真ん中に左右に線路が伸びている。電車が緑と茶色のフエルト生地で作ったアップリケのように小さい
 スーパーマーケットの前に自転車がドミノのように果てしなく並ぶ
お母さん、今夜はラーメンが食べたいと女の子が言うと母親がお父さんがそれじゃダメじゃない、働いて帰ってくるんだからと言う。その横を通りすぎる。五階の本屋で小説を買い四階の衣料品売り場で下着を買い、食料品は最後にしようとエレベーターに向かう。
   外に出ると空に薄く星が出ている。
   右折すると公園を横切る。風で楠の葉が落ちてくる。ジャンパーに野球帽の子供たちはまだ野球をしている。タッちん!サード!サード!まわれわまれ!そして、歓声。銀行は閉まっている。バスが自転車を追い抜く。
  五号棟前でサラリーマン達がつぎつぎに降りてくるので、自転車は一旦止まる。
その中に先程の母子を見つける。その買い物袋の中に葱と焼豚とメンマの瓶が覗く。
  夜空はくっきりと黒く、月は黄色くキンと尖り、星は銀色に輝いている。

  カゴに拉麺を入れた自転車は坂道を高速で下りやがて見えなくなった。

                      完