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※ドラマ『人間標本』のネタバレを大いに含みます。


『人間標本』考察 

 ——愛と所有、そして擬態について—— 


 『人間標本』という物語は、猟奇的な事件を描いた作品であると同時に、 「愛とは何か」「親と子の関係とは何か」を静かに問い続ける物語である。 物語を見始めた当初、私は榊史郎という人物を 「理解不能な狂った殺人鬼であってほしい」とどこかで願っていた。 もし彼が完全な異常者であれば、 この物語を自分とは無関係なものとして切り離すことができたからだ。 


 しかし、榊史郎は怪物ではなかった。 息子を深く愛し、修正できない過去に苦しみ、 これから先に待ち受ける長い時間を恐れる、 理解できてしまう親だった。 だからこそ、この物語は苦しい。 理解できてしまったという事実は、 「自分も同じ立場に立てば、同じ選択をするかもしれない」 という恐怖を伴うからである。


 榊至についても同様だ。 彼は標本にされることを望んだわけではない。 キャンバスに書かれ、塗りつぶされた言葉は、 死を願う遺書ではなく、 言葉にできなかった助けを求める叫びだった。 物語の終盤、至は父と酒を酌み交わしながら、 「急にどうしたの」と父の異変を気遣い、 さらに「何か言ってよ。標本の話。」と口にする。 それは告白でも糾弾でもなく、 父に向けた最後のノックだった。 自分の口からは言えない罪を、 父に言葉にしてほしかった。 それでも一緒に立ってほしかった。 それでも味方でいてほしかった。 しかし史郎は、その扉を開けなかった。 問いかけることも、語ることもせず、 共に苦しむ道を選ばなかった。 彼が選んだのは、息子を守るという名目で、 息子の人生を「完成」させ、停止させることだった。 それが「標本」である。


 この物語を読み解くうえで重要なのが、 榊史郎の父・榊一郎の語った言葉である。 「生きている蝶は神様のものだが、 標本になった蝶はお前のものだ」 この言葉は、単なる研究者の比喩ではない。 それは、 生きて変化し続ける存在は所有できないが、 止めてしまえば所有できる という価値観の提示である。 史郎は幼い頃から、 「美しいものは、固定することで自分のものになる」 という思想を無自覚のうちに刷り込まれていた。 蝶の標本作りは、 命を愛でる行為であると同時に、 命を所有する行為でもあった。 この価値観は、やがて息子へと向けられる。 史郎は息子を愛するあまり、 未完成で、迷い、汚れていく存在としての至を 抱え続けることができなかった。 汚れる未来、失敗する未来を見ることを恐れ、 「綺麗なまま」止めることを選んだ。 それは、守るという形をとった 所有の完成だった。


 蝶の擬態という視点も、ここで重なる。 至は本来、無毒のワタナベアゲハだった。 しかし彼は、有毒のオオベニモンアゲハに擬態した。 擬態とは攻撃ではなく、防御である。 至が身を守ろうとしたのは、 世間や法律ではなく、 父からの失望だった。 失敗した息子として見られること、 愛されなくなることから逃れるため、 至は「危険な存在」を演じた。 その結果、至は 父の中で「美しい息子」のまま生涯を終える。 失望される未来を生きる代わりに、 その未来そのものから逃れたのである。 


 至と杏奈という二人の子どもは、 いずれも親に愛されたい、認められたいと願った未熟な存在だった。 しかしその愛は歪み、 二人とも「所有されること」を通してしか 自分の存在価値を見出せなくなっていった。 子どもは愛を履き違える。 それは罪ではなく、未熟さゆえである。 この物語が最終的に突きつける問いは、 「子どもは親の所有物なのか」という問いである。 そして同時に、 狂気とは特別な人間だけが持つものではなく、 正しさや責任感、美しさへの執着の中に、 誰の心にも潜み得るものだという事実を示している。 


 だから私は、この物語から一つの言葉を選ぶ。 最後まで、大切な人の味方でいよう。 それは、正しさを保証することでも、 代わりに人生を決めることでもない。 未熟なまま、汚れたまま、途中の姿のまま—— それでも手を離さず、 ノックの音に耳を澄ませ続けるという覚悟である。