2023.5.21

②根本中堂 1698年(元禄11年)に上野公園大噴水の場所に建立された根本中堂は、1868年(慶応4年)の彰義隊の戦争の際に焼失したことから、1879年(明治12年)に川越喜多院の本堂を移築したものです。

=東叡山寛永寺=

創建 1625年(寛永2年)

開山 天海

開基 徳川家光

本尊 薬師如来

宗派 天台宗

寺格 関東総本山

札所 江戸三十三観音札所(6番)

寛永寺は徳川将軍家の祈祷寺・菩提寺で、徳川歴代将軍15人の内6人が寛永寺に眠ります。徳川将軍家の菩提寺の内、増上寺は中世から存在した寺院でしたが、寛永寺は1625年(寛永2年)に天海が開山し、徳川家により新たに建立された寺院です。もともとの菩提寺は増上寺で、後に寛永寺が菩提寺に加えられ、6代将軍徳川家宣以降は幕末まで、将軍家の墓所は増上寺と寛永寺が交代で造営することが慣例となりました。

徳川家康・秀忠・家光の3代将軍が帰依していた天台宗の僧天海は江戸城の鬼門の方角を憂慮し、そのことを知った秀忠は、1622年(元和8年)に現在の上野公園の地を天海に与えました。秀忠の隠居後は、1625年(寛永2年)に3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊が建立され、この年が寛永寺の創建の年とされています。

創建当時の年号の「寛永」から寛永寺とし、京都の鬼門(北東)を守る比叡山にならい「東の比叡山」と言う意味で山号を「東叡山」としました。寛永寺の伽藍は延暦寺の様式に準じて造営され、1627年(寛永4年)に法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮、さらに1631年(寛永8年)に清水観音堂、五重塔が建立されました。根本中堂は5代将軍徳川綱吉の時代の1698年(元禄11年)に建立されました。1643年(寛永20年)に天海が没した後は、弟子の公海がが2世貫主となり、その後を継いだのは後水尾天皇第3皇子の守澄法親王で、これ以降は幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)まで皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務め、その貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威を持っていました。

江戸時代後期の最盛期には、寺域30万5000坪、寺領11,790石を有し、子院は36ヶ院(現在は19ヶ院)に及び、現在の上野公園のほぼ全域が旧境内、そしてさらにその2倍の面積の寺領を有していました。しかし、幕末の1868年(慶応4年)に上野の地は彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となり、根本中堂を始め主要な堂宇は焼失し、残されたものは五重塔、清水観音堂、大仏殿のみとなり、更に、明治維新後は寺領を没収され、輪王寺宮は還俗、1873年(明治6年)には旧境内地が公園用地に指定されて、廃寺状態に追い込まれます。1879年(明治12年)に子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院の本堂を移築して本堂として復興しました。

東叡山 寛永寺 公式ホームページ (kaneiji.jp)

④常憲院霊廟勅額門(重要文化財) 5代将軍徳川綱吉の霊廟の門です。霊廟は1945年(昭和20年)の東京大空襲で焼失して今しました。

⑥厳有院霊廟勅学門(重要文化財) 4代将軍徳川家綱の霊廟の門です。常憲院霊廟と同様に東京大空襲で焼失しました。

⑬鐘楼

⑱書院 

㉑旧本坊表門(黒門)(重要文化財) 1625年(寛永2年)の建立