大多喜~勝浦 散策 | Mrs.風来坊の足あと手帖

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最近は御朱印収集に目覚め、神社仏閣巡りにもはまってます。

散策以外にモノ作りや日々の呟き事等も書いてます。
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せ今回は大多喜町(大多喜城)~勝浦(八幡岬公園~勝浦灯台)を散策しました。

これは大多喜水道工事の跡です。(最後の藩主松平正質が明治2年に着手翌年完成。)
大多喜町は良い水に恵まれず、城から2km位のところにある滝から水を引くために、この場所に縦長の穴を掘り、町へと水を流したそうです。


大多喜城
今の城は昭和50年に再建されたもので、中は博物館(総南博物館)になってます。
〈大多喜城の歴史〉
最初は根古屋城と呼ばれ、今の場所から1km程北にある場所にあったそうです。(現在は住宅地 )
大永元年(1521年)甲斐の武田一族である真理谷信清が築き三代(→直信→朝信)続いた後、天文13年(1544年)正木時茂が攻めてきて城主となりまた三代(→憲時→時尭)続き、その後天正18年(1590年)豊臣秀吉の天下統一によって正木時尭は大多喜城から追い出され、その後徳川家に移り、本多忠勝が新しい城主になり、いまの場所に新しく築き直したとのことです。
その後、阿部→青山→久世→稲垣→植村と交代、元禄16年(1703年)に松平正久が引き継ぎ九代続いて明治維新となった。
城は天保13年(1840年)に火災で全焼。藩の財政が苦しかったこともあり、元のように再現はできなかったとのことです。


城に向かう途中の道沿いに咲いてました。綺麗なので撮影しましたが、何の花かは不明。
恐らくキヨスミミツバツツジ(岩ツツジ)だと思いますが…。


大多喜から勝浦八幡岬公園に移動してきました。
八幡岬は三方を海に囲まれた断崖にある城跡(勝浦城址)で、色々な説があるそうですが、城郭の形態を成したのは正木時忠からではないかと言われているそうです。
えっ?!正木って…。どこかで聞いたような…。調べてみたら、先程見てきた大多喜城主となった正木時茂の弟でした。
兄時茂を補佐していたそうです。


お万の布さらし
お万は、徳川御三家の紀州(頼宣)と水戸(頼房)二祖の母で、徳川家康の側室です。
勝浦城主正木左近太夫頼忠の姫君(天正5年生まれ)で、天正18年豊臣秀吉に北条氏が滅ぼされると、勝浦城も本多忠勝や植村泰忠らの軍に攻められて落城。
その時14歳だったお万は炎上する城を後に母と幼い弟を連れて八幡岬の断崖(40m)に白い布を垂らして海に降り、小舟で館山方面に逃れたそうです。
その後徳川家康に見初められ、江戸城に入り『蔭山殿』と呼ばれ寵愛されたそうです。




八幡岬から見た風景




勝浦灯台へ移動してきました。
ひらめヶ丘に立つ白亜八角形中型灯台。
設置は大正6年(1917年)。太平洋戦争で2数回の攻撃を受けかなりの被害を受けたそうです。その後何度も改良されて、今の建物は昭和53年(1983年)に改築、美しくタイル貼りになったものです。


灯台横のこんもりした丘からの景色


官軍塚に移動してきました。
官軍塚は戊辰戦争時、北海道に船で援軍に向かう途中、川津沖の岩礁地で大暴風雨に遭遇し難破。多くの犠牲者を出し、官軍塚に、その遭難者を埋葬供養しました。
展望塔もあり、花や桜の木も植えられて、桜の季節には満開の花が楽しめ、憩いの場所と言う雰囲気です。
心霊スポットで有名なところなので、夜は行きたくないですけどね!

桜が綺麗に咲いてました。