あらすじ

 三十九歳の独身男性、手島 航(てしま わたる)は、四十歳を前にし、勤めていた国際物流会社を退職、自ら国際ハンドキャリー会社を立ち上げた。国際ハンドキャリーとは、人が荷物を旅客手荷物として旅客機に持ち込み、国境を越えて運ぶことをいう。航は、そんな国際ハンドキャリーを生業(なりわい)とする会社を立ち上げ、顧客から国際ハンドキャリーの依頼を受け、世界中を飛び回っていた。
 
 ある日、航は顧客からの依頼で香港へ飛び、当初の依頼から二転三転はあったものの、無事に荷物を届けることができた。そして、航の香港から日本への帰国の途、市街から空港へ向かうバスの車中、バスが無謀運転の車を避け、急ブレーキをかけたことで、航は首を酷く痛めた。ところが、航はその怪我の影響により、瞬間移動の特殊能力に目覚めた。
 
 それ以来、航の周囲には、磁石がものを引き付けるかの如く、航と同じような特殊能力を持つ者たちが現れ始め、今まで知り得もしなかった世界に引きずり込まれていくのであった。




第一部

第一章 ハンドキャリー

一一 日本帰国



――二〇一九年八月二十四日土曜日、航が日本へ帰国する日の朝、香港島の北角(ノースポイント)のホテルの一室。

 航はベッドの上で目が覚めた。

「ふぁ……(今日もよく寝たな)」

 航はベッドに横になりながら、枕元に置いていた腕時計を見ると午前八時を指していた。ベッドの横の窓からは爽やかな日差しが差し込んでいた。

 昨晩、航はスターフェリーで尖沙咀(チムサーチョイ)から湾仔(ワンツァイ)まで戻り、地下鉄で湾仔(ワンツァイ)からホテルのある北角(ノースポイント)まで帰って来た。スターフェリーに乗ったのが午後十時半頃で、ホテルに着いたのが午後十一時半前だった。その後は、仕事のEメールをチェックし、シャワーを浴びた後、ベッドでスマートフォンを見ているといつのまにか眠っていた。眠ってしまったのは午前一時過ぎだった。ちなみに、新垣からEメールが届いており、「手島さんご不在中、特に問題はありませんでした」との簡潔な一報が入っていた。本当は雑多な仕事がたくさんあったが、新垣と瓦屋が上手く対応した様子で、航は本当に有り難く思っていた。

 その日、航は、午後のフライトで日本へ帰国する予定にしていた。寝起きの航は眠そうな顔のまま、ベッドの脇に置いていたスマートフォンを手に取り、取り急ぎ、フライトの予約状況を確認した。

 香港     NH860   2018年8月25日(土)  14:20
 東京(羽田)                     20:00  4h15m

 それを見て、航は安心しながらも、少し考え込んだ。

(フライトは午後二時二十分に出発予定だから、空港には午後十二時には到着すればいいだろう。空港まではエアポートバスで行くから、一時間半をみて午前十時半頃のバスに乗る。エアポートバスは、その時間帯は約二十分に一本の間隔で出発しているはず。このホテルから停留所までは徒歩約十分なので、午前十時頃にチェックアウト。で、今は、午前八時――)

 航は改めてスケジュールを確認し、意外に時間がないことに気付いた。そのため、もう一度、スケジュールを整理しておいた。

 10:00 ホテルのチェックアウト
 10:30 バス出発
 12:00 バスが空港に到着
 14:20 香港出発
 20:00 羽田到着
 21:30 自宅到着

(空港に着いてチェックインを済ませたら午後一時頃、ブランチとして軽く何かを食べておこう。離陸した後、機内食もあるが、おそらく午後三時頃になるので、午後三時のブランチとしてはちょっと待てないからな。自宅に着くのは午後九時半頃かな。お腹が空いていたら、帰り道のスーパーマーケットで何か買えば良いだろう)

 その日は、午前に出発するフライトもあったが、航は早く帰る理由もなかったため、昨晩の香港人の友達との夕食を楽しむことを優先し、午後に出発するフライトを予約していた。航にとって、一昨日の深圳までのハンドキャリーは思いがけない出来事だったが、昨日は飲茶とホットポットを楽しめ、何と言っても、寺山と知り合えたこと、そして、ケンとジェイミーに会えたことが嬉しかった。そんなことを思いながら、ふとベッドの横の窓の外を眺めた後、身支度を始めた。


――午前十時過ぎ、香港島の北角(ノースポイント)のホテルの前の歩道。

 航はホテルのチェックアウトを終えて外の歩道に出て来た。航は、照り付ける太陽の日差しを肌で感じ、蒸し暑かった。そんな中、早速、歩道を歩き始め、停留所へ向かった。

 北角(ノースポイント)エリアには、バスのターミナルがあった。そこは、いわゆる、始発点であり終着点だった。ゆえに、そこに行けば、エアポートバスが待機していた。

 ところで、そのバスターミナルへ行く途中には、「街市(がいし)」があった。広東語でも「ガイシー」と言い、いわゆる、市場(マーケット)のことだった。およそ三階建て前後の低層ビルになっており、地上階(日本で言う一階)には生肉、鮮魚が売られ、一階(日本で言う二階)には野菜や果物、お菓子、雑貨等が売られ、二階(日本で言う三階)には安くて美味しい食堂があった。また、そういった街市(ガイシー)は、香港の主要なエリアに点在し、建物内の構成は各所様々だった。また、市場ゆえ、日本の市場と同じように、販売されている食品は新鮮且つ品質が良く、その割には価格安かった。そのため、一般顧客が来るのはもちろんながら、プロの料理人も足を運んでいた。場所によっては、低層ビルではなく、昔ながらの商店や出店が並び、生肉、鮮魚、野菜、果物、お菓子、雑貨等が売られる普通の市場(マーケット)も残っていた。

(お、ガイシーだ)

 航が歩道を歩いていると、街市(ガイシー)の出入口を見つけ、中の様子を覗き見ると、意外と賑わっている様子が伺えた。その日は土曜日で、朝ということもあり、休日の一般顧客が来ていたのだと思われた。航は香港駐在時、この北角(ノースポイント)の街市(ガイシー)で買い物をしたことがあり、中でも一目置いていたのは、有機野菜を扱っている八百屋だった。普通に売られている野菜よりも若干割高ではあったが、そういった嗜好の香港人も結構いるのだなと思っていた。

 航はそんなことを思い出しながら歩いていると、向かう先にバスターミナルが見えてきた。空港行きのバス乗り場を探そうとしたが、既に空港行きの赤いバスが目立って見えていた。

(空港行きのバスは、あれだな)

 通常、バスの前方と後方の上には電光表示があり、便名兼路線名の数字等が表示されているが、停まっていた空港行きのバスはまだエンジンがかかっていなかったため、何も表示されていなかった。航はバスの後方から近付いて行きバス乗り場へ来ると、赤い看板を見つけ、「A11 北角碼頭 往機場」と書かれてあることが分かった。その意味は、北角(ノースポイント)の碼頭(船着き場)の往機場(エアポート行き)のA11(エアポートバスの番号11)番のバスの停留所という意味だった。航は赤い看板に顔を近付け、まじまじと時刻表を確認した。

 巴士A11的服務時間表
 每日         班次 (分鐘) 
 05:10 - 05:30 20
 05:30 - 08:45 15
 08:45 - 21:05 15~20
 21:05 - 21:30 25
 21:30 - 22:30 30
 23:30

 航は、時刻表の三行目を注目した。そこには、午前八時四十五分から午後九時五分までの間は、十五分から二十分間隔でバスが出発していると書かれてあった。航が時刻表から腕時計に目をやると午前十時十分を指していた。時刻表に基づけば、午前十時十五分前後にバスが出発する見込みで、待ち時間はあと五分程度と思われた。

(もうすぐだな)

 バスにはまだ運転手は乗車しておらず、基本的には発車予定時刻の直前に乗車することが多かった。航は一番乗りだったため、好きな座席に座ることができる特権があったが、真夏の炎天下に冷房もかけずに放置されたバスの社内は想像通りもれなく暑いという残念賞もあった。ゆえに、一番乗りとは言え、あまりお得感はなかった。料金は距離に応じて変わり、航は始発点からほぼ終着点まで行くため、料金は四十香港ドル(日本円で約六〇〇円)で子供は半額。所要時間は、道路事情にもよるがおよそ九十分。乗降方法は、バスの前方の乗車口から乗り込み、先に運賃を支払う。オクトパスカードならピーッとかざすだけだが、現金払いだと釣りが貰えないため、損をしたくなければ釣りがないようにしなければならない。エアポートバスを含む公共バスは基本的に二階建てで、一階にも座席はあったが一階後方にエンジンがあるためエンジン音でやかましかった。そのため、航は二階の前方の座席に座るのを好んだ。二階へ上がる階段はバスの中央より少し前方にある。そして、降車口はバスのちょうど中央にあり、そこから降りることになる。



 しばらくすると、どこからともなく、男性の運転手が現れ、前方の乗車口の蛇腹扉を手で押し開け乗り込んだ。運転手は何やらいろいろと準備をしていた。航が背後に気配を感じ振り向くと、数名の人たちが並んでいることが分かった。

 バタッ――。

 バス前方の乗降口の蛇腹扉が自動的に開いた。それは乗車可能の合図だった。航はさっさと乗り込んだ。

 ピーッ。

 航はオクトパスカードで運賃を支払った。もちろん、車内は蒸し暑かった。しかも、運転手はまだエンジンをかけておらず、車内のエアコンもまだ作動していなかった。航はそんなことにも慣れていたので、気にせず階段で二階へ駆け上がった。階段はトラムの階段と同じような半円状の螺旋階段になっており、航が二階に着くと、当然まだ誰もいなかった。二階の座席は、前後中央に走る通路を挟み左右に二人掛けの座席が並んでいた。航はバスの前方へ向かい、最前列の左側の座席に座った。前一面はガラス張りで見晴らしが良かったが、急ブレーキをされると、ガラスを突き破って飛んで行ってしまいそうな座席だった。航はバスに乗車する際は、基本的にシートベルトを締めなかったが、最前列ゆえにシートベルトを腰の周りで締めた。

 ブルルルルルルルルルルル……。

 航はエンジン音が聞こえると共に座っていた座席もとろも車体が震えるのを感じ、運転手がエンジンを始動させたことが分かった。また、車内のエアコンも作動し、天井のエアコンの吹き出し口からは湿気のこもった冷気が出始めた。但し、当然ながら、まだ涼しくはなく、涼しく感じられるには五分から十分ぐらいの時間がかかると思われた。しかし、しばらくすると、昨日、航が地下鉄で寒さを感じたのと同様に、かなり寒くなってくるのが常だった。

(もうそろそろ、出発だな)

 エアポートバスの場合、一階の階段の脇に、旅行用のスーツケースを置く棚が設置されていた。そのため、スーツケースを持って乗車した人たちは、その棚へスーツケースを置いてから空いた座席へ座るという手順になっていた。但し、ここで少し疑問に思う人があるかも知れない。「一階にスーツケースを置いて二階に座るとスーツケースは盗られやしないか?」という疑問。当然、一階には防犯カメラがあり、スーツケースを置く棚を写す映像が、二階席にあるモニターで見られるようになっていた。しかし、航が座る一番前の座席からはそのモニターを見ることができなかった。こういったところが香港らしく、一階のスーツケースの様子が気になる人は、二階ではモニターが見える位置に座らなければならなかった。仮に、バスが停留所に到着し降車口が開いた瞬間に、誰かが棚から他人のスーツケースを下ろして持ち去り、バスの降車口が閉じられれば、窃盗完了となった。但し、そのような盗難はほとんどなかった。理由は、そこまで治安が悪くないことと、空港以外の停留所でスーツケースを持ってバスから降りると違和感があるために、誰かが気付くためだろう。スーツケースを持ってバスから降りる人は、基本的に空港の停留所に限られるためだった。ちなみに、エアポートバスでない普通の公共バスの場合、スーツケースを置く棚の部分は普通の座席になっていた。

 プーッ、バタッ。

 航は一階から乗車口の蛇腹扉が閉じられる音が聞こえた。腕時計を見ると午前十時十五分を指していた。ここから空港まではおよそ一時間半で、午後十二時前には空港に着く見込みだった。一方、車やタクシーなら半分の時間のおよそ五十分で着くことができた。車やタクシーならおよそ五十分の区間を、エアポートバスだとおよそ一時間半もかかるのは、いわゆる直行バスではなく、いくつかの停留所で乗客を拾っていく経由バスのためだった。北角(ノースポイント)を出発するエアポートバスは、北角(ノースポイント)以西のトラムとほぼ同じ路線上の一定区間に停留所があり、そこで乗客を拾った後は、ほぼノンストップで空港まで向かうという運航スケジュールだった。

「おおおおおーっと!」

 航の乗ったバスが右カーブを曲がったため、座席に座っていた航の体が大きく左に振られた。香港の公共バスで注意しなければならない点はいくつかあったが、その一つが乗客お構いなしに運転するという点だった。日本だと、最近であれば、乗客がバスに乗り込んだ後、乗客が座席に座るか、立ち止まって手すりをしっかり持つまで、バスは動き出さない。しかし、香港はそうではなかった。乗客がバスに乗り込めば、乗客が座るのを待たずに、とにかく動き出すのだ。しかも、老若男女構わなかった。香港人のお年寄りたちも、それは十分に承知していた。大きな二階建てバスが、香港の狭い車道を、他の車も避けながら走り、走っていたかと思うと車道脇の停留所に停まり、前後には別のバスも停車していることもあり、道路事情も考慮してすぐにまた発車する。そのバスの中では、乗客が前後左右に大きく振られ、立っている人はもちろん、座っている人も前後左右に大きく振られることが普通だった。特に航が座る二階の最前列は、前一面がガラス張りのため、不意に急ブレーキをかけられると、香港のアクション映画のようにガラスを突き破り、前方へ飛んで行ってしまいそうな気さえした。

(フフフ、久しぶりだな、この振られ感)

 航の乗ったバスは大通りに出て来た。車道の幅は左右合わせておよそ六車線あり、真ん中の二車線はトラム用だが車も通行できた。バスは乗客お構いなしの運転で他の車やトラムを追い抜いて行き、乗客は前後左右に振られながらバスが次の停留所に停まった。バスが少し急ブレーキ気味で停まったため、航の上半身が座席の背もたれからかなり離され前のめりになったが、いつものことだとあまり気にしなかった。航は左側の窓から乗車口を見下ろすと、三名の東南アジアらしき人たちが乗り込んでいる様子が見えた。タイかベトナムの人だろうと思った。ちなみに、オクトパスカードは一般用と旅行者用とがあり、旅行者用のオクトパスカードには、空港と香港中心街を結ぶエアポートエクスプレスの運賃が含まれ、更に三日間、MTRに乗り放題という得点が付いていた。よくある質問に「旅行者にはオクトパスカードの一般用と旅行者用とどちらがお得か?」というものがあったが、考え方はシンプルで、エアポートエクスプレスを使うなら旅行者用が得で、それ以外はあまり大差がなかった。

「おーっと!」

 航の乗ったバスが再び動き出した。航の乗ったバスは、前に停車する別のバスを避けながら発進したため、航は大きく左に振られて右に振られた。航は先程乗り込んだ東南アジア人たちが「おとととと……」となりながら、大きなスーツケースを棚に乗せている様子を想像していた。

 航の乗るバスが走っている通りは、昨日、航がトラムに乗って走った通りだった。バスはトラムよりも速く進むため、トラムとは違った新鮮さがあった。航の乗ったバスは、あと十数回、停発車と乗客のピックアップを繰り返し、その後、香港島と九龍半島を繋ぐ三つの海底トンネルの内、西側にある海底トンネルをくぐり抜け、九龍半島の西側に辿り着く。また、そこは世界有数の港である香港港で、その港沿いの高速道路を通り、新界地区へ入るや否や、短い橋と長い橋の二本を渡ると空港のあるランタオ島に行き着く。その一つ目の短い橋に差し掛かる手前が寺山のオフィスのある茘枝角(ライチコック)で、二つ目の長い橋の左手に香港港とヴィクトリアハーバーがあり、それらを通り過ぎてランタオ島へ渡れば、ディズニーランドを経て、ようやく空港に辿り着く。但し、そこに至るまでにはまだ一時間以上かかる見込みだった。航はとりあえず、香港島と九龍半島を繋ぐ海底トンネルにさしかかるまではピックアップの繰り返しなので、パソコンを開いて今回のハンドキャリーの手仕舞いの業務と来週の仕事の準備をしておくことにした。

(さ、少し仕事を片付けておこうか)

 航にとって今回は思わぬ出来事が続いたハンドキャリーだったが、それが却って良い経験にもなった。ハンドキャリーをはじめとする国際輸送にはトラブルが付きもので、トラブルが付きものであるがゆえに、トラブルを想定した上で臨む必要があった。そして、トラブルに直面している時は、とにかくトラブルに対処することに必死になってしまうが、うまく対処し終えることができれば、相応の達成感と充実感があった。その結果、それが貴重な経験の一つとなった。喉元過ぎれば熱さを忘れるではなかったが、それがまたハンドキャリーをはじめとする国際輸送の醍醐味でもあった。

 カタカタカタカタ、カタカタカタカタ――。

 航がパソコンを触り始めてから十五分程経過したところ、その間にも、航の乗ったバスは乗客のピックアップを繰り返し、航の体は前後左右に大きく振られていた。航はパソコンの画面を見ながら、体が前後左右に振られていたことで、若干車酔いをし始めていた。

(うーん、車酔いだな。気分が悪くなってしまった……)

 航が腕時計を見ると午前十一時前を指しており、空港まではまだ四十分から五十分を要する見込みだった。しかし、その経過時間から、航の乗ったバスはもうすぐピックアップを終わり、海底トンネルに差し掛かるところだということも分かっていた。航はとりあえずパソコンを片付け、腰回りのシートベルトを外して腹への圧迫を極力なくし、目を閉じて休むことにした。

(今までバスで車酔いしたことなかったのに、疲れてたのかな。でも、しばらく休憩すれば治まるだろう……)

 航は座席の背もたれを倒し、上を向くような感じでもたれ、目を閉じて休んだ。それから数分後、航は、体が前後左右に振られる感じなくなったように思っていると、閉じていた目の前がパッと暗くなった。航がふと目を開けると、航の乗ったバスが海底トンネルを走っていることが分かった。航は気分の悪さは続いていたが少し落ち着き始めていた。それは、これからは乗客のピックアップがほとんどないことが分かったからだった。航の乗ったバスは、後は主要な停留所に一、二回停まるだけで、ほとんどは高速道路を安定した速度と運転で走り、空港に到着する見込みだった。

(ふぅ、とりあえず、ピックアップは終わったな……)

 航は少し落ち着いたこともあり、スマートフォンに入れているお気に入りの音楽を聴きながら休もうと思った。航のスマートフォンには、クラシックから洋楽、邦楽まで、いろいろなお気に入りの曲を入れていた。そこで、香港の夏や海に合いそうな曲を考えていた。


(香港の夏や海に合うのは、「渚のオールスターズ」かな――)

「渚のオールスターズ」とは、一九八〇年代後半にかけて活動していた、TUBEや織田哲郎が中心となった期間限定の音楽ユニットのことだ。TUBEの『SUMMER DREAM』という曲の一節にある「渚のカセット 好きな歌だけ詰め込んで」というフレーズから「じゃぁ実際に渚のカセットを作ろう!」となりできたユニットだった。ちなみに、一九八〇年代後半だけにカセットテープだった。ところで、なぜ、航が「渚のオールスターズ」を好きになったかというと、航が小学生の高学年の頃、親戚の叔父、当時は二十代の若者だったが、その人によくドライブに連れて行ってもらい、その時によく流れていた曲が「渚のオールスターズ」の曲だった。もちろん、当時は、車のオーディオデッキでカセットテープに入れた曲を聴いていた。航は当時、叔父に山や海沿いの道をよくドライブに連れて行ってもらい、その曲を聴きながら「夏の海に合う良い曲だなぁ」と思っていた。しかし、当時は曲名や歌っている人たちを知ることはなく、航が大人になってから調べてみると、当時聞いていた曲は「渚のオールスターズ」の曲だったことが分かった。

 航はそんなことを思い出していると、航の乗ったバスは海底トンネルを抜け、その先にある停留所で一旦止まり、またすぐに走り出し高速道路に入った。航の乗ったバスは、次は香港港沿いの高架道路を走っていくことになる。しばらくは前後左右に振られることはなく、短時間ではあるが快適なバスの旅が期待された。航はまず、『SUMMER DREAM』を聞こうと思い、航の好きな歌だけ詰め込んだ渚のスマートフォンにイヤホンのプラグを差し、イヤホンを耳に刺した。

 ♪渚のカセット♪
 ♪好きな歌だけ詰め込んで♪
 ♪夏にアクセルハンドルをきれば♪
 ♪海風がはしゃいで♪

 航が座席の背もたれにもたれながら前方を見ると、高架道路が遠くの方まで延々と続いている様子が見え、左側に目をやると香港港の様子が見え始めた。真夏の日差しの下、広大な敷地の港に、赤や青、緑、白い色をした無数の海上コンテナが、横には広く、縦には高く積み置かれていた。そして、その海上コンテナを何台ものトラックがひっきりなしに運び出し、コンテナ船への積み下ろしはガントリークレーンがテキパキと行っていた。ガントリークレーンとは、日本の港でもよく見かける赤や白のキリンや恐竜のような形をした、コンテナ船へ海上コンテナを積み下ろしする大きな専用クレーンのこと。そんな港のよくある光景が、航の目に見え始めていた。

 ♪乱反射している♪
 ♪日差しよりもまぶしい君♪
 ♪同じ景色に心動かして♪
 ♪寄りそっていたいね♪
 ♪Summer Dream 光る波をバックに♪
 ♪君とSummer Days 焼き付けたいよ♪
 ♪スリルと孤独を 分かち合えたら♪
 ♪愛だけを抱きしめたい Summer Dream♪

 航の左手には港や海の様子が見えていたが、右手にはビル群が見えており、そこはちょうど寺山のオフィスのある茘枝角(ライチコック)の辺りだった。航はビル群の様子を見ながら、またいつか寺山に会えることを願っていた。

(とりあえず、日本に帰ったら、寺山さんへいただいた謝礼への礼状を書こうか――)

 ♪砂のアスファルト♪
 ♪海外線車止めて♪
 ♪Tシャツのまま海に飛び込んだ♪
 ♪夏を待ちきれずに♪
 ♪Summer Dream シャイなハート重ねて♪
 ♪二人 Summer Days 泳ぎ出すのさ♪
 ♪輝く時ほど うつろうけれど♪
 ♪いつまでも離しはしない Summer Dream♪

 雲一つない晴れた青空の下に、一直線に伸びた高架道路、その下には真っ青な海が広がり、波面に太陽の光が反射しキラキラと輝いていた。空と海は鮮やかな青と深い青とのコントラストで、宇宙と地球の偉大さを感じさせる光景だった。

 ♪乱反射している♪
 ♪日差しよりもまぶしい君♪
 ♪同じ景色に心動かして♪
 ♪寄りそっていたいね♪
 ♪Summer Dream 光る波をバックに♪
 ♪君とSummer Days 焼き付けたいよ♪
 ♪スリルと孤独を分かち合えたら♪
 ♪愛だけを抱きしめたい Summer Dream  Summer Dream♪

 『SUMMER DREAM』の曲が終わった。

(僕も、そろそろ、「Summer Daysを焼き付けられる君」が要るかな。仕事一筋でもなかったけど、もう四十歳も近い。これまで、彼女がいなかった訳ではないけど、どうも仕事の方に熱中してしまう。これまで付き合った人たちには、申し訳なかったな。そういう欲がない訳じゃなく、縁もない訳でもないんだけど、僕が台無しにしてしまうのかも知れない。そこは、まだまだ修行が足りないのかな。で、TUBEと言えば、次は『シーズン・イン・ザ・サン』かな。聞いてみよう)

 ♪Stop the season in the sun♪
 ♪心潤してくれ♪
 ♪いつまでも このままで いたいのさ♪
 ♪Stop the season You’re my dream♪
 ♪過ぎないで南風♪
 ♪やるせない想い feel so blue♪

(そう、この始まり。さすがに、『シーズン・イン・ザ・サン』を知らない人はいないだろう)

 ♪陽差しのシャワー グラス片手に♪
 ♪デッキチェアー まどろむ afternoon♪
 ♪瞳閉じれば so lonely♪
 ♪夢が醒めそうで♪
 ♪プールサイド 光る君に くぎづけなのさ♪

 航が曲を聴いて心地良くなっていると、航の乗ったバスは二本目の長い橋に差しか掛かっていた。それは、一昨日、航がタクシーで空港から寺山のオフィスに向かうまでに通ったものと同じ橋で、航が兵庫県明石市と淡路島を結ぶ明石海峡大橋に似ていると思っていた橋のことだ。空港から寺山のオフィスに向かっていた時は右手に香港港が見えていたが、これから空港に向かう時には左手に香港港が見えた。香港港には大きな貨物船が何艘も停泊し、海上コンテナの積み下ろしが行われ、その周囲には小ぶりのフィーダー船が行き交っていた。バスに乗った航が、その香港港の海、そして、その奥のヴィクトリアハーバーを眺めた時、真っ青に広がる海の波面に太陽の光が反射しキラキラと輝く様子が目に入り、『シーズン・イン・ザ・サン』の歌詞のように、「光る海に~、くぎ~づけなのさ~♪」と歌ってしまいそうだった。

 ♪Stop the season in the sun♪
 ♪夏よ逃げないでくれ♪
 ♪もう少し このままで いたいのさ♪
 ♪Stop the season You’re my dream♪
 ♪時計など気にせずに♪
 ♪抱きしめ合えたら feel so nice♪

(やっぱり、渚のオールスターズやTUBEの曲は、香港の夏の海に合うな。僕だけの独断と偏見かも知れないけど――)

 その後、航は心地よさを感じながら好きな曲を聴いているうちに、気付けばディズニーランドを過ぎ、バスの進行方向には空港の建物が見え始めていた。航は腕時計を見ると午前十一時四十分を指しており、ほぼ時間通りだった。しかし、航の乗ったバスが空港に到着するには、まだ、あと五分程度はかかる見込みだった。

(ふぅー、もうすぐ空港だな)

 航はもう少しくつろいでおこうと、座席の背もたれにもたれかかり、少し上を向いて軽く深呼吸をした。その直後――。

キィィィィィィー、ブォォォォォン!!

 けたたましい音がした瞬間、座席に座っていた航は、目の前のガラス窓に突っ込んでいった。

 ガンッ!

「うぁっ!!」

 航は自分の頭を目の前のガラス窓に打ち付けた。というのは、突然、航の乗ったバスが急ブレーキをかけたためだった。幸い、香港のアクション映画のように、ガラス窓をぶち破って外へ放り出されることはなかったが、先程、車酔いになり気分が悪いからと、腰回りのシートベルトを外していたために、バスの急ブレーキで目の前のガラス窓に頭のてっぺんから突っ込んでしまっていた。航はガラス窓の下で、頭を抱えうなだれるように座り込んでいた。

「痛ぇ……(何が起きたんだ……?)」

 うなだれていた航はバスが事故にでも遇ったのかと思ったが、バスが停止する気配はなく、遅い速度で走っていたため、すぐに事態を理解することができなかった。また、航が頭のてっぺんから目の前のガラス窓に突っ込んだ時、頭上で「ゴンッ」という大きな鈍い音が聞こえたと同時に、「ピキッ」という何の音か分からない異様な音も聞こえていた。そして、頭のてっぺんから首筋、そして、背中、腰辺りまで、一気に電気のようなものが走ったような感覚に襲われていた。

(痛ぇぇぇ……)

 航は、当然、バスに何が起きたのか気になっていたが、それよりも、頭をガラス窓に打ち付けた酷い痛みや、首筋辺りの違和感に加え、頭がボーっと意識が朦朧とした感覚だったために、ガラス窓の下で頭を抱え込み、座り込んだ姿勢から起き上がれずにいた。

(これは、結構、強く打ち付けたな……。頭が痛いのはもちろん、首の辺りも何か影響がありそうだ……。でも、シートベルトを外してたのが迂闊だった……)

 航はガラス窓の下で座り込んでいたが、バスの中が少しざわついていることには気付いていた。そして、バスの一階から男性の荒げた声が聞こえ、その声の主は運転手と思われた。航は何が起きたのか確認するために、抱えていた頭を少し上げたところ、目の前のガラス窓からバスの前方が見え、バスの前で左右に振れながらスピードを下げたり上げたりして不安定な走りをしている日本製のコンパクトカーが見えた。航はバスの一階から聞こえる男性の荒げた声の内容を正確には掴めていなかったが、広東語だったのは確かであまりよろしくない言葉が聞こえていた。航はバスの前を不安定に走るコンパクトカーの様子と、バスの一階から聞こえてきた男性の荒げた声のあまりよろしくない言葉の内容から、先程のバスの急ブレーキの原因は、このコンパクトカーにあるのだろうと思えた。

 航はバスの前を不安定に走るコンパクトカーとバスが警察沙汰になるだろうと思い、空港への到着が遅れることを覚悟した。違和感のある首を動かして腕時計を見ると午前十一時五十分前を指していた。

(二、三〇分は遅れるかもしれないけど、フライトは午後二時二十分発だから、大丈夫だろう……。でも、最悪、間に合わなかったら、フライト変更だな……)

 バスの前では、依然、コンパクトカーが左右に振れながら不安定な走りを続け、そんなコンパクトカーを避けるようにバスは徐行を続けていた。しかし、しばらくすると、コンパクトカーは不安定な走りのままバスから離れていき、するとバスは再びスピードを上げて、空港に向かって一直線に走り始めた。

(おっ、空港に向かった。とりあえず、よかったかな……)

 航はまだ頭がボーっと意識が朦朧とした感覚があったが、重い腰を上げ、座席に這って上がり、雪崩れ込むようにして座席に座った。

(ふぅ、痛ててて……。僕がシートベルトを外してたのが悪かったけど、こんな急ブレーキに遭ったのは始めてだ……)

 数十秒後、航の乗ったバスは空港の停留所に到着した。但し、その停留所はまだ終着点ではなかったため、航はまだ頭がボーっと意識が朦朧とし、頭を打ち付けた痛みや首筋に違和感がある中、バスから降りなければならなかった。

 プーッ、バタッ。

 バスの一階の降車口の蛇腹扉が開き、乗客のほとんどがバスから降りた。航は重い体を引きずるようにして二階から一階に降り、最後にバスから降りた。バスの中にはまだ数名が乗車していた。

 プーッ、バタッ。

 航の背後でバスの蛇腹扉が閉まる音が聞こえた。

 ブオオオオオォォォォォ――。

 バスは何事もなかったかのような雰囲気で走り去っていった。

 航は首に違和感があったため、左手首にはめた腕時計を顔の前まで持ち上げて見ると、午前十一時五十分を指していた。

(とりあえず、時間通りだ……)

 航は頭を打ち付けた痛みと首筋の違和感から、おそらく鞭打ちだろうと思っていた。航はとりあえず歩き始めたが、歩きにくさを感じながらバスの停留所から空港の出発ロビーに向かった。

 その後、航は、チェックインカウンターでチェックインを済ませ、頭の痛みや首の違和感を覚えながらブランチをとった。そして、航が飛行機の座席に座る頃には、首の違和感が痛みに変わりつつあったため、羽田空港までの約四時間のフライトに耐えるべく、機内で配布された毛布で首を固定して休むことにした。

(参ったな、これは……)

 航が乗った飛行機は、定刻通り、午後二時二十分頃、香港国際空港を離陸し、羽田空港へ飛び立った。







※この物語はフィクションです。実在の人物や団体等とは関係ありません。
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