ご無沙汰しています。千賀です。

ブログ更新に間があいてごめんなさい。

この間にも、協力金を振り込んで下さいました皆様、
そして、奉加帳にて活動をして下さっていますみなさん、
また奉加帳にご協力を下さいました皆様
本当にありがとうございます。
心より、御礼申し上げます。


本の制作も順調にすすんでおります。
先日、原稿確認を一部させて頂きました。
自然と涙が溢れてとまりませんでした。
この感動を皆様にお伝えだきるように、しっかり整えていきたいと思います。
もう少し、お待ち下さいませ。


さて、今日は馬路村での思い出を書きたいと思います。

今から20年ほど前、高知市から東へ車で40分程走ったところ
にある芸西村琴ヶ浜でイベントがあり、ジャズダンスを踊りました。
踊った後、浜辺の宴会に先生とお邪魔していると、ものすごく目が
きれいな青年ニコニコしながら名刺を下さいました。
「馬路村にジャズダンスを教えにきてくれませんか」と。
この方が馬路村役場の木下さん。
「もちろんOK!」で、馬路村魚梁瀬に須賀先生と
ジャズダンスを教えに行ったんです。

学校の体育館に20名くらいの方が集まり、
先生の楽しいトークまじりのレッスンで
みんな体も心もホカホカになりました。
そして、その夜、魚梁瀬ダムの湖畔にある満木荘に泊まりました。

レッスンの後の食事会もにぎわい、お酒もちょっと?頂きまして、
寝付きのよい私はすぐに布団に沈没即爆睡ぐぅぐぅでした。(*^▽^*)

そして、朝起きると須賀先生が

「昨日の夜ね、枕元に白いひげのおじいさんが現れてね。
世の中の無気力、無感動、無責任を正せって言うて消えたがよ」


と。あまりに日常の会話の中でしたので、その時の私は、
「また先生へんなこといいだした…」くらにしか受け取れず本気にしていませんでした。
(本とに、須賀先生すみませんm(_ _ )m)

その後、私はスタジオを出てリトルを運営している頃、
たまたまうどんを食べながら雑誌「スコラ」を開いておりました。
ページを開くと、スガ先生が祭りを作った人として3ページに渡り特集されているではありませんか。迫力ある写真からはパワーが溢れていました。
その記事の中に、よさこいは「いい世さ 来い」なんだと、
そして馬路村でのあの夜の事が書いてありました。

「きゃ~~~、あの夜の事が、きっかけやったがや~~」と私は、びっくりして
思わずうどんを詰まらせて咳こんでしまいました。

そんなことなら、もっとちゃんと話聞いたらよかった。先生ごめんなさい。猛反省…。あせる

それからの事を思い出してみると、先生の人生はあの馬路の夜あたりから
本当に信じられない程の激動の人生でした。
どんな小説家も思いつないだろうなって言うほどの、とてつもない展開でした。
一人の高知のジャズダンスの先生が、日本中、世界中を駆け巡り、マウイ島に住み、
ワークショップを企画し、「生きる」という事を真っ向からみつめ、「魂の成長」の為にすべてをかける…。

そんなことになるなんて、あの頃本当にだれも考えられなかったでしょう。
もちろん須賀先生すらも、あの夜には、考えもしなかったですよね。ねえ、先生。

それにしても、みなさんご存知の通り、本当に先生は、人並みはずれて信じる力がすごかった!!
そして、あの夜のメッセージを生き抜いた先生でした。



時はめぐり、あっという間に20年。本当に早い!!



21日の月曜日、馬路村へ悠一朗くんとあゆみちゃんと3人でワークショップに行ってきました。
あゆみちゃんは、私が初めてインストとしてキッズコースを教えた時に、確か3歳でした。
あのあゆみちゃんが、悠一朗くんの奥さんというのも、私としては本当に不思議な感覚で、
時々、タイムカプセルで時間旅行しているような気分になります。
企画してくれたのは、もちろん馬路村の木下さん(^^)です。

本当に、彼は名プロデューサーです。きっとこの人を村のみんなに逢わせたらいいだろうなっていう
アンテナがビュンビュン働く、すごい感度です。

その彼の感性で実現したワークショップは、私の表現ワークと悠一朗くんとあゆみちゃんの
デュエットダンスがコラボした内容です。
2人が踊ってくれた「逢いたい~」は、本当に感動でした。
1コーラスめから、涙が止まらなくなり、恥ずかしくも大泣きです。

ところどころに、須賀先生がいる気がしました。
想いは確かに繋がっている。本当に「生きる」ということの深さを届けてくれるダンスでした。

素晴らしいひとときを実現して下さった木下さん、馬路村のみなさん、
素晴らしいダンスをみせてくれた悠一朗くんとあゆみちゃんに
心から感謝です。

すべて繋いでくれた須賀先生、本当に、本当にありがとう!!!

馬路の満天の星空を見ながら、心の中で静かにでも思いっきり叫びました。