こんにちは…

 予想通りというべきか、首都圏は台風が大暴れ、その後の酷暑が混乱に拍車をかけます…

 

 

「△○×□」…「□○△=」

 

 人間には「想像力」があります…物事を「創造」する原動力で、その「はじめ」のきっかけになる大事な力です…この想像力こそアフリカに生まれた僕たちの母「ルーシー」以来、人間が引き継いできた大きな力です…その想像力が火をつかみ、器械を考え、あらゆる動物たちの高みの頂点を人間は手に入れてきました…

 でもその一方で、この力は「負」にも働きます…Ster wardのダークサイドっていうやつです…どうやらこの両面を人間は持っているようです…

 

 「正」が役に立つものを生む一方で「負」は心の奥底にドロドロしたものを溜め込みます…正が負を抑制して押さえ込みますが、消えるわけではありません…心のドロドロさがいつでもまた首をもたげキバを剥きます…

 

 

 もう一ヶ月以上も経ったとはいえ、多数の死者とケガ人を出した「京都アニメーション」の事件は、その規模と残忍さで、一人が起こした事件としては未曾有なことでした…被害者の無念な「未来」と犯人を考るとき、残された親や家族のことを思って、僕たちはただ暗澹とするだけです…

 アニメで多くの夢を見て「想像力」を膨らませた人たちがいて、その「想像力」にドロドロと応えた一人…ともに「想像力」が働いた結果の惨劇です…

 

 犯人はきっと自分を含めて、ここまで惨状が広がるとは想像もしていなかったのでしょう…内部に入って知った3階までの吹き抜け階段、手にしたガソリンの火の手がまさか自分にまで及ぶとは…燃え広がる速さと圧倒的な火勢の強さ…彼の「想像力」が不足していたとしか思えません…身近なガソリンの怖さと、吹き抜けの酸素の補給が燃焼を早めるという想像力のなさ…このビルで働くみんなの「まさか!」という思惑の想像力のスキをついて強行された犯行…多くの被害者のほとんどは、煙から逃れるように狭い階段に殺到したと言います…その後の捜査で明らかになった、執拗な現場の下見とガソリンの量…もし彼にもっと想像力が働いたなら、こんな悲劇もなかったはずです…

 

 

「△∞…○□×…」

 

 さらにこの後の愛知トリエンナーレの「表現の不自由展」では開催直前の「ガソリン缶を持っていく…」という卑劣な脅しが展示の中止の引き金になったようです…

多分この脅しの伏線になったのは京都アニメーションの事件でしょう…あえて、缶を持っていくという日常的な会話の手軽さに「ガソリン」という恐怖を滑り込ませた狡猾な表現…

 展示を準備していた関係者の「想像力」を京アニの事件が刺激したのでしょう…こんな狡猾さを出せるのも「想像力」を刺激すればこそです…この安易な言葉が展覧者の被害の「想像力」を飲み込み、増幅させて中止に追い込みます…顔が見えないことをいいことに、ただただ卑劣で心のねじ曲がった、卑小な想像力の持ち主です…

 

 こんなに毎日のように被害が報告されている、子供のいじめや、虐待も結局は「想像力」の無さ「自分だけは、バレない!」という心のダークサイドがそうさせています…こんな身勝手さに追いつめられ、助けすら求められなかった幼い命の無念を一体、誰がどうやって償へばいいのか…

 

 

 さらに最近とみに増えたアオリ運転…類似した事件は今までも多数あったように思います…

それでも、死傷者や事故の可能性を高める悪質なものは、ここまで顕著ではなかったようです…上向きライトのままに走行する免許取りたての初心者がいれば…そこどけ!と言わんばかりにパッシングや急ブレーキ、急ハンドルで進路を妨害する悪質なドライバーは日常的にいます…彼らのほとんどは「悪いのは相手だ!」と考えている「小心者」です

…相手を見下すから、はじめっから「攻撃的」です…威張れるのは車の中だけです…

 その上で起きた被害の状況と結果に「想像力」が働きません…想像力が決定的に欠けています…私事ですが、こんな何人かを知っていました…中には建築家もいましたが、そのみんなはなぜかイイ車の持ち主です…ハンドルを握った途端に豹変します…職業上ストレスがあったにせよ、蔑視という「負」の想像力しか働きません…こんな建築家の創る家に家族(彼には他人なのです)の命をあづけたいとあなたは思いますか…?

もちろんその後彼らの車には乗りません…なぜか、忠告を素直に聞き入れないのも彼らの特徴です…

 

 でもこうした事件が起こるたびに、真に許されないのはこうした顔を見せない卑怯者たちです…

普段何気ない生活の顔の裏にはいつだってこのドロドロとした顔が隠れています…こんな連中の言葉や行動に健康な市民が危険にさらされたことが過去にも幾度となくありました…僕たちがもっと想像力を持っていたのなら…その先の危険も察知できるように思います…

 

「…△□○・×…」

 

 

 もう何年も前、知り合いの子どもたちを車に乗せて、テントと寝袋だけのキャンプをしたことがあります…彼らに知ってもらいたかったのは、この世界の広さとデッカさです…

 能登島の海岸で焚き火を囲んで空を見上げました…富山湾の漁火と流れ星、その遥か上を人工衛星の光跡が過ぎてゆきます…そのことを教えた途端に黙りこくって目で追う子供たち…東京へ帰ってから子供たちはこのことが最も印象に残ったと親や先生に報告したそうです…あの時僕は写真でよく見る人工衛星の外側を見ていましたが、子供たちがそんな写真を見ていたとは思えません…それでも黙りこくった子供たち…

 

 そして数日前、新聞にあるご婦人がまだ少女の頃に人工衛星を見た感動を投稿していました…彼女はその時、中の宇宙飛行士もまた自分たちを見ているんだと、その視線を交わしたことを、感動の体験を投稿していました…

 

 その投稿を読んで、僕は何年かぶりに子供たちのあの沈黙の意味を、ちょっとだけわかったような気がしました…きっと子供たちは宇宙飛行士の視線を自分たちも感じていたのでしょう…見えるものしか考えない大人と、見えないものに一生懸命に心を通わせた子供たち…そこには全く違う形で「想像力」があったのではないかなぁ…と今は思えます…投稿者はきっといい少女時代と、いい大人に出会えたのでしょうね…!

 

 実際その時の子供たちは、普段から着火マンを使うから、マッチで火起こしができません…紙は折りたんだままで、焚付けの意味を知らず…炎のどの部分が熱いのかも知りません…鉛筆削器が当たり前なので肥後の守も使えません…包丁はともかく、身近な刃のコワサを知りません…親の「安全」が子供たちの「当然」を奪っています

 僕たちは「想像力」で結果のコワサも学んだのですが…!

 

 

 大人たちが奪った「想像力」の貧しさが、今の子供たち苦しめているのだとすれば…? あらためて「想像力」の大事さを考えさせる出来事が続いています…

 

「△×・◆○□…」…

 

 

 「やれ打つな ハエが 手をする足をする」…エアコンを止め窓を開け放った居間にいると、いろんな生命が姿を現し、あるいはその謳歌が聞けます…まだ成長が始まったばかりの若い虫や蜘蛛はなるべくそっと室外の庭に退出願っています…それでもたまにGに出会えばそれこそ形相を変えて追いかけ、完膚なきまでに叩きのめしてしまいます…生き物の全てに優しかった母もGばかりは別でした…そんな母のダークサイドのDNAを僕も受け継いでいるようです…トホホです

 

とはいえ、年をとった経験値が「想像力」を大切にするようです…

 ね、ご同輩!